万暦帝( A.D.1563〜A.D.1620)
万暦帝は、明朝の第14代皇帝(在位1572年7月19日 - 1620年8月18日)。廟号:神宗。10歳で即位。先帝の遺命により内閣大学士・張居正が国政を担当し国内は安定。張居正の死後、宦官を重用し政務を放棄、万暦の三大征や女真族の南下、東林派との激しい政争がはじまり国力は衰える。
万暦帝
アジア諸地域の繁栄
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東アジアの状況
明の滅亡
16世紀後半から17世紀前半にかけて、北虜南倭に続いて朝鮮半島や東北地方にも戦争が広がると、明朝は軍事費の増加のために財政難に陥った。こうしたなかで10歳の万暦帝(神宗 位1572〜1620)が即位すると、父である隆慶帝の遺命によって張居正(1525〜1582)が国政を担当した。張居正は内閣大学士として全権を掌握し、外交ではアルタン・ハンと講和し、内政では宦官勢力の抑制、行政整理による経費の節約、黄河の治水事業、さらに全国的な検知や一条鞭法の施行によって財政を安定させるなど、目覚ましい活躍をみせ、一時的ではあるが国内は安定した。ところが張居正の死後、万暦帝は宦官を重用し、政務を放棄して贅沢にふけり、そのため綱紀が乱れ、国力は再び衰えた。そうしたなか、いわゆる万暦の三大征や女真族の南下がおきると、その軍事費を捻出するため、鉱山開発や増税をおこなった。このために民衆の生活は困窮していき、各地で反乱(明変)がおき、社会は不安定になっていった。
これに加え、朝廷内部では万暦帝の後継者をめぐり対立がおき、また増税問題で宦官と結んで政界を左右しようとする官僚の一派と、これに反対する一族とが対立するなど、政界は党派争いが熾烈を極めていった。反対派のリーダーであったのが、顧憲成(1550〜1612)である。彼は、時の権力者張居正の政策に反対したため吏部の官を免職となり、出身地の江蘇省無錫に帰郷後、東林書院を復興して講義するかたわら、政府を痛烈に批判した。東林書院には現政府に批判的な官僚らが集まり、東林派を結成して政府への反対勢力となった。これに対し、東林派から批判をうけたグループは宦官と結んで非東林派を結成し、ここに東林派と非東林派との激烈な論争がくりひろげられ、やがて両者の対立は政争へと変わっていった。非東林派の官僚は宦官の魏忠賢(?〜1627)と結託し、万暦年間の末期には魏忠賢のために東林派の重要人物はことごとく逮捕され、獄死あるいは追放となり、東林書院も閉鎖されてしまった。