呉三桂(
A.D.1612〜A.D.1678)
明の軍人だったが李自成が北京を落とすと、清に降伏。清の国内平定に功績を残し平西王として藩王に封じられる。強大な軍事力をもつ半独立政権であったため康熙帝が藩王勢力減策をはかると三藩の乱を起こしたが病没した。
呉三桂
清に降伏するも反発
明の軍人だったが、李自成が北京を落とすと、清に降伏。清の援助を受けて李自成を討った。その後、清を裏切って反乱を起こしたが病没した。
アジア諸地域の繁栄
清代の中国と隣接諸地域
清朝の統治
中国統一
李自成によって明が滅ぼされると、長城(万里の長城)の東端に位置する山海関で清軍の南下に備えていた武将の呉三桂(1612〜1678)は清に投降し、対清軍の重要拠点であった山海関の門を開き、清軍を導き入れた(これを「入関」という)。当時清では、ホンタイジのあとをついだ順治帝(世祖 位1643〜1661)が幼少で即位し、叔父の睿親王ドルゴンが摂政として実権を握っていた。山海関を突破することができた清軍は、呉三桂らと共に李自成を破って北京を占領し、清は都を北京に遷して華北支配に着手した。
中国全土がほぼ平定された1661年、順治帝をついで康熙帝(聖祖 位1661〜1722)が即位した。清は中国平定に際して、明から投降した漢人武将をうまく利用した。清は華南の平定が終わると、その功績によって呉三桂を平西王として雲南に、尚可喜を平南王として広東に、耿継茂を靖南王として福建にそれぞれ藩王として封じた。これを三藩といい、彼らは強大な軍事力をもつ半独立政権であった。しかし清にとって中国全土を確実に支配していくためには、これら三藩の勢力は脅威となる存在であった。そこで康熙帝は三藩のとり潰しをはかった。こうした清の政策に対して、1673年、まず呉三桂が反旗をひるがえし、ついで尚可喜の子尚之信、耿継茂のあとをついだ耿精忠もこれに応じた。これを三藩の乱(1673〜1681)という。清はこれら三藩の軍に苦戦したが、呉三桂が病死するとその勢力は急速に衰え、結局三藩は平定された。
皇帝即位
1678年3月、呉三桂は形勢逆転を狙ったかそれとも死期を悟り観念したか、湖南の衡州(湖南省衡陽市)で帝位に就いた。国号を大周(周(1678年-1681年))とし、元号を昭武と定め、新王朝の建国を高らかに宣言した(昭武帝(在位1678年3月-1678年6月))。しかし同年8月15日に67歳で死去し、孫の呉世璠が帝位を継承した。死の直前に呉三桂の女婿の胡国柱が清に帰順しようとした報を聞いて憤死した説もある。
参考 Wikipedia