ジェントルマン gentleman
テューダー朝のヘンリー7世(イングランド王)は、絶対王政の傾向を強める際、官僚としてジェントリを重用して、封建貴族を牽制した。以後のイギリス社会では、ジェントリと貴族が共にジェントルマンと呼ばれ、政治・社会・文化などあらゆる面で主導権を握るようになる。支配階級。
ジェントルマン
歴史的には中世末期以降の英国で大きな政治的・経済的役割を果たした社会層。おもに地代収入によって特有の生活様式、教養などを維持した有閑層で、その内容は時代によって変化したが、貴族と、大多数の身分的には庶民である(ジェントリー gentry )からなった。また大地主以外でも開業医、法律家、聖職者や富裕な商人なども含むことがあった。荘園制の解体の中で農業経営によって富を蓄積し、中世末には地方政治をにない、近代絶対主義時代には中央政治に進出、名望家支配の体制を固め、17世紀以降の市民革命に際しても多大の役割を演じた。ブルジョアジー台頭後は中産階級以上の地位・財産・教養をもつ者(紳士)を広くさし、単なる尊称としても用いられるようになった。
参考 百科事典マイペディア
ヨーロッパ主権国家体制の展開
ヨーロッパ主権国家体制の形成
イギリス絶対王政の確立と社会
バラ戦争の混乱を収拾して登場したテューダー朝のヘンリー7世(イングランド王)(位1485〜1509)( バラ戦争とイギリスの集権化)は、星室庁裁判所を改組して治安の維持に努めるなど、絶対王政の傾向を強めた。その際、彼は官僚としてジェントリを重用して、封建貴族を牽制した。以後のイギリス社会では、ジェントリと貴族が共にジェントルマン gentleman と呼ばれ、政治・社会・文化などあらゆる面で主導権を握るようになる。
イギリス立憲政治の発達
「われら失いし世界」
人々の生活は、家族を単位として成りたっていたので、社会的には家族の長である戸主がすべてを代表していた。これらの家族と家族の間の関係も、親子の関係に似ており、支配階級をなす保護者的な家系(イギリスでは「ジェントルマン」と呼ばれた)とその保護と支配をうける多くの家族とによって、縦の関係が形成されていた。中央の政治は、ほとんどこうしたジェントルマン階級が独占していたのである。
中央の議会では、貴族が貴族院(上院)、主としてジェントリの代表が選挙で選ばれて庶民院(下院)を構成し、地方の政治も貴族や治安判事などに任命されたジェントリが牛耳ることになった。このようなジェントルマンの権威は、少なくとも産業革命までは変わることがなかった。
ピューリタン(清教徒)革命
エリザベス時代以来、国内はジェントルマン階層とともに、ヨーマンと呼ばれた比較的豊かな農民や商工業者が力をもつようになり、彼らを中心にピューリタニズムの信仰が広まった。彼らが、とくに議会に結集する傾向を示すと、ジェームズ1世はいっそう強圧的な政治で対抗したため、両者の対立が激化した。
17〜18世紀のヨーロッパ文化
小説の出現 – 文学の発展
17世紀末から18世紀初頭になると、市民層の台頭を反映する作家や作品が出現した。特に名誉革命後のイギリスでは、地主=ジェントルマン階級に対して市民層の力を誇示することに努め、『ロビンソン・クルーソー』を書いたダニエル・デフォー(1660〜1731)や、『ガリヴァー旅行記』で当時のイギリス社会を痛烈に批判したジョナサン・スウィフト(1667〜1745)などが活躍した。さらに18世紀中期には、ヘンリー・フィールディング(1707〜1754)らによって「小説」というジャンルがつくりだされ、新聞や雑誌のようなジャーナリズムも発展した。
民衆の文化
イギリスでは、17世紀ころから狩猟法が強化され、野生の小動物の多くがジェントルマン階級の趣味である「狩猟」の対象とされ、一般民衆による狩猟が禁止された。しかし、猟に生活のかなりの部分を頼っていた民衆はこれを無視したため、大きな社会問題となった。