アダム=ラクスマン
アダム=ラクスマン(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ラクスマン


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ラクスマン Laksman ( A.D.1766〜A.D.1796?)
ロシア最初の遣日使節。1792年、日本人の漂流民大黒屋光太夫ら3人とエカチェリーナ2世の親書をともない、根室に来航。翌年、松前で幕吏と交渉したが、通商は拒否され、長崎入港を許可する証明書である信牌を受けて帰国した。

ラクスマン

ロシア軍人。1792年、女性皇帝エカチェリーナ2世の命により、通商要求を目的に大黒屋光太夫ら漂流民をともない、根室に来航。翌年、松前で幕吏と交渉したが、通商は拒否され、長崎入港を許可する証明書である信牌を受けて帰国した。

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ロシア軍人で、初の訪日ロシア使節。1792年、日本人の漂流民大黒屋光太夫ら3人とエカチェリーナ2世の親書をともなって北海道の根室を訪れ日本との通交を求めるが、失敗した。

ロシア最初の遣日使節。1792年、大黒屋光太夫ら漂流民をともない、シベリア総督の書簡を持って根室に来航した。通商を求めて幕府の代表と会見したが、要求は拒否された。

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ヨーロッパ主権国家体制の展開

危機の時代の主権国家

ロシアの台頭
ロマノフ朝 ロシアの領土拡大地図 ロシアの台頭
ロシアの領土拡大地図 ©世界の歴史まっぷ

この時代のロシアは、東方でもベーリング海峡を超えてアラスカにまで進出し、日本にも外交使節ラクスマン(アダム・ラクスマン 1766〜1796以後)を送るなどした。また西方では、3度にわたって、プロイセン、オーストリアとポーランド分割をおこない、自国領土の拡大に成功した。

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幕藩体制の動揺

幕府の衰退

列強の接近
19世紀前半列強とその領土地図
19世紀前半列強とその領土地図 ©世界の歴史まっぷ

1792(寛政4)年には、アダム・ラクスマン(Laksman.1766〜1803?)がロシア使節として根室に来航し、漂流民で伊勢白子の船頭大黒屋光太夫だいこくやこうだゆう(1751〜1828)らを日本に送還するとともに、通商を求めてきた。幕府は、外交交渉は長崎以外では行わないので長崎に行くように回答し、長崎港への入港許可証である信牌しんぱいを与えた。同じ年に、外国船が日本近海を航行するという事件があったため、幕府は諸大名に海岸防備の強化を指示した。さらに、ラクスマンが交渉の場で、江戸に行きたいと強く要求したことが契機となって、江戸湾防備の必要性が認識され、松平定信自ら相模・伊豆の沿岸を検分するなど、新たな海岸防備策が模索され始めた。

1804(文化元)年、ロシア使節レザノフ(Rezanov 1764〜1807)がラクスマンのもち帰った信牌を携えて長崎に来航し、通商関係の樹立を求めた。幕府は、朝鮮・琉球・中国・オランダ以外とは新たに外交・通商関係をもたないのが祖法であると拒否した。このときの幕府の対応は、杉田玄白 司馬江漢しばこうかんらが批判したほど冷淡であった。レザノフは、シベリア経由で帰国の途中、日本に通商を認めさせるには軍事的な圧力をかける必要があると軍人に示唆した結果、1806(文化3)年から翌年にかけてロシア軍艦が樺太や択捉えとろふを攻撃する事件(フヴォストフ事件)がおこった。とくに、択捉守備兵が敗走したことから国内は騒然とした雰囲気となった。

大国であるロシアに対して失礼な応対であり、しかもラクスマンへは貿易許可をほのめかしたにもかかわらず、レザノフへは拒否したのは約束違反ではないかと批判した(『野叟独語』)。

列強の接近と幕府の対応

徳川列強の接近元号幕府の対応
家治1778〜79ナタリア号が、蝦夷地に来航
(通商を求めたが松前藩は拒否)
天明1783工藤平助の『赤蝦夷風説考』の意見採用
1784田沼意次による蝦夷地開拓を計画
1786最上徳内を蝦夷地へ派遣
家斉1792使節ラクスマン根室に来航。漂流民(大黒屋光太夫ら)を伴い、エカチェリーナ2世の命で通商を要求
(幕府は通商を拒絶。長崎入港を許可する証明書〈信牌〉を渡し、帰国させる)
寛政1792林子平が『三国通覧図説』『海国兵談』で海防を説いたことを幕府批判として処罰
1798近藤重蔵・最上徳内ら、択捉島を探査(「大日本恵土呂府」の標柱をたてる)
1799東蝦夷地を直轄地とする
1800伊能忠敬、蝦夷地を測量
1804使節レザノフ、長崎に来航
(通商を要求するが、幕府は拒絶)
文化

文政
1806文化の撫恤令(親水給与令)
1807松前藩と蝦夷地をすべて直轄(松前奉公の支配下のもとにおき、東北諸藩を警護にあたらせる)。近藤重蔵、西蝦夷地を探査
1808
フェートン号事件
(英軍艦フェートン号、長崎に侵入)
1808間宮林蔵、樺太とその対岸を探査(間宮海峡の発見)
1810白河・会津両藩が江戸湾防備を命じられる
1811ゴローウニン事件
(露軍艦長ゴローウニン、国後島に上陸して捕らえられ、函館・松前に監禁)
1813高田屋嘉兵衛の送還でゴローウニンを釈放
1821蝦夷地を松前藩に還付
1824英船員、大津浜に上陸(常陸)
英船員、宝島に上陸(薩摩)
1825異国船打払令(無二念打払令)
1828シーボルト事件
家慶1837モリソン号事件
(米船モリソン号、浦賀と山川で砲撃される)
天保1839蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英らを処罰)
1842〜42アヘン戦争
(清が英に敗れ、南京条約を締結)
1842天保の薪水給与令(異国船打払令を緩和)
1846米東インド艦隊司令長官ビッドル、浦賀に来航弘化

嘉永
1844オランダ国王開国勧告(幕府は拒絶)
家定1853米東インド艦隊司令長官ペリー、浦賀に来航。1846ビッドルの通商要求拒絶
1853使節プチャーチン、長崎に来航1853大船建造の禁を解く
1854日米和親条約日露和親条約・日英和親条約締結
1855日蘭和親条約締結
参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠
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