洪秀全 (
A.D.1813〜A.D.1864)
太平天国の創始者。1843年キリスト教的色彩をもつ宗教結社拝上帝会を組織し、1851年天王を称して太平天国の建国を宣言し、辮髪を断って清朝打倒を表明。56年以降内紛が激化すると、攻勢に出た清朝に対する有効な策をうてず、64年の南京陥落前に病死。
洪秀全
太平天国の創始者。広東省の客家出身で科挙に失敗している。キリスト教の影響をうけ、独自の解釈を加え、広東省で宗教結社の拝上帝会を組織した。偶像破壊運動を開始して清朝と対立、1851年、天王を称して太平天国を建てた。56年以降内紛が激化すると、攻勢に出た清朝に対する有効な策をうてず、64年の南京陥落前に病死した。
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
太平天国の興亡
アヘン戦争後、アヘン輸入量の増加や多額の賠償金の支払いは、銀価の高騰や重税となって民衆にはねかえり、おりからの天災も加わって、民衆の生活をいちだんと苦しめた。失業者や流民の数は増え、地方の治安は悪化した。民衆の間では結社をつくってたすけ合い、生活を守っていこうとする動きが高まった。19世紀半ばころになるとこれらの結社は各地で反乱をおこすようになるが、そのなかで最大のものが太平天国の乱であった。また、華北農民を中心とした捻軍(捻匪)なども有名であり、会党( 清の衰退)の活動なども活発化した。
広東省の客家出身の洪秀全(1813〜64)は、科挙落第の挫折を重ねたのち、キリスト教伝道書との出会いを契機として、1843年キリスト教的色彩をもつ宗教結社拝上帝会を創始し、広西省を中心に多くの信徒を集めた。1851年、彼は広西省金田村に信徒を集めて挙兵し、太平天国の建国を宣言、みずからを天王と称した。太平軍は、広西から湖南・湖北を転戦するうちに、窮乏農民や流民・会党員などを吸収して巨大な集団へと成長した。また「滅満興漢」(満州人王朝の清を滅ぼして、漢人国家を樹立する)の熱烈な民族主義をスローガンに掲げ、辮髪を断って清朝打倒の意思を表明した ❶ 。太平軍は、規律の乱れた清朝正規軍とは対照的に、きわめて規律厳格であった。そのため、いたるところで民衆の支持をうけ、漢口・武昌などを占領したのち、1853年には南京を占領して首都と定め、天京と名づけた。その後、太平天国は天朝田畝制度を発布して、その理想とする国制を掲げ、男女の平等を明示した。また纏足 ❷ やアヘン吸飲の悪習を禁止するなど、革新的政策を掲げて、上帝のもとにおけるすべての人間が絶対平等な理想社会を建設しようとした。
洪秀全と拝上帝会
洪秀全は、客家出身である。客家とは戦乱や生活苦のため、華北地方から南方の福建・広東・江西省や四川省などの山岳地方に流れてきた移住民の集団をさし、一般に、先住民からさまざまな差別と圧迫をうけながら貧しい生活を送っていた。洪秀全は、3回目の郷試(科挙の地方試験)に失敗して失意の病床に臥しているうちに奇怪な夢をみた。その夢とは、自分が黒衣の老人から剣を授けられ、悪魔と戦うというものであった。その後、彼は、プロテスタントの伝道書『観世良言』と出会うことによって、夢でみた黒衣の老人は「上帝」ヤハウェであり、自分はヤハウェの子、すなわちイエス=キリストの弟「天弟」であるとの確信をもつにいたり、ついに拝上帝会を結成したのである。これからすれば、拝上帝会はキリスト教的宗教結社といえる。しかし、上帝とはもともと儒教にいう天の神であり、彼はこの中国古来の上帝をヤハウェにおきかえたのであった。また彼がめざした「地上の天国」(小天堂)とは、「田があればみんなで耕し、食物があればみんなで
天朝田畝制度
1853年に発布された天朝田畝制度
太平天国は、1854〜55年の全盛期には300万人を数えたといわれ、華北や長江上流に軍を進めたが、天京政府首脳部の内紛によって衰えはじめ ❸ 、一方、清朝側では、漢人官僚が郷里で組織した地主階級を中核とする義勇軍(郷勇
捻軍
捻軍
太平天国の動乱は、清朝政府や正規軍の無力ぶりを明るみにだし、曾国藩や李鴻章ら、反乱平定に活躍した漢人官僚が政治の中枢に進出するきっかけとなった。また反乱平定に際して、地方長官(総督・巡撫)に地方の軍事・行政・財政権をゆだねることは、清末以降の中国の政局の一大特色をなす地方分権への道を開くものであった。巨大な民族運動としての太平天国は、孫文や毛沢東など、その後の民族運動・革命運動に大きな影響を与え、その原点としての位置を占めるものとなった。
❶ このため太平軍は清朝側から「長髪賊
❷ 纏足
❸ 1855年に太平軍の精鋭数万からなる北伐軍が清朝側の反撃により壊滅し、翌年には太平天国首脳部の勢力争いによって東王楊秀清