セルビア Serbia
1817年にオスマン帝国宗主権下の自治公国として近代セルビア国家成立。1867年オスマン軍が撤退して自立。78年にサン=ステファノ条約で独立、ベルリン条約で国際的に承認。領土拡大を目指しオーストリアと対立、バルカン地域におけるパン=スラヴ主義の中心勢力。
セルビア
- 1817年にオスマン帝国宗主権下の自治公国として、近代セルビア国家が出発した。67年にオスマン軍が撤退して自立し、78年にサン=ステファノ条約で独立、ベルリン条約で国際的に承認された。
- ドナウ川中流域のスラヴ人国家。1878年のベルリン会議で完全独立を認められたのち、領土拡大を目指して西のオーストリアと対立を深め、バルカン地域におけるパン=スラヴ主義の中心勢力となった。
ヨーロッパ世界の形成と発展
東ヨーロッパ世界の成立
南スラヴ人の動向
バルカン半島に南下した南スラヴ人の多くは、その地を支配していたビザンツ帝国に服属し、ギリシア正教を受け入れていった。
そのうち、セルビア人は長らく部族国家の状態に位あったが、11世紀後半には王国を形成し(セルビア王国(中世))(1171〜1346)、12世紀後半ネマニッチ朝を創始したステファン・ネマニャ(位:1171〜1196)によりビザンツ帝国からの独立を達成した。そして、14世紀前半のステファン・ウロシュ4世ドゥシャン(位:1331〜1355)の時代に最盛期に達し、セルビア教会は大主教座から総主教座に昇格、領土はスコピエを都とするセルビアのほかに、アルバニア・マケドニア・ギリシアの一部にまでおよんだ。彼らは自ら「セルビア人・ギリシア人の皇帝」を宣言、ビザンツ皇帝にとってかわろうとしたが果たせず、死後その領土は分裂した。そして、東方から進出してきたオスマン帝国にコソボの戦い(1389)で決定的な敗北を喫し、1459年にはその支配下に入った。
東ヨーロッパ世界の成立
後期ビザンツ帝国
11世紀の末、宮廷の内紛を鎮めて帝位についたコムネノス朝のアレクシオス1世コムネノスは、貴族勢力に対し軍事奉仕を条件に公有地の管理を任せるプロイノア制を導入、これにより帝国の封建化は進んだが、貴族連合体制のもとで国内は安定することになった。
対外的には、ヴェネツィアと提携してアドリア海からノルマンを撃退、さらにセルジューク朝の圧力に対抗するためローマ教皇に十字軍(第1回十字軍 1096年〜1099年)を要請し、トルコ人に奪われた土地の回復を目指した。
この相対的安定も、12世紀末から再び崩れた。貴族層は帝国からの自立を強め、セルビア・ブルガリアも独立、1204年にはヴェネツィアと第4回十字軍によりコンスタンティノープルが占領され、ラテン帝国の出現をみた。
アジア諸地域の繁栄
トルコ世界とイラン世界
オスマン帝国の拡大
13世紀のアナトリアでは、君候(ベイ)に率いられたトルコ戦士(ガージー)集団による小国家が林立していた。セルジューク朝と同じオグズ族出身のオスマン1世(位1299〜1326)は、西北アナトリアに残るビザンツ帝国領を攻撃、オルハン(位1326〜1362)の時代にブルサを攻略しここに首都を定めた。ムラト1世(位1362〜1389)は、1362年アドリアノープルを征服しここを拠点としてバルカン征服を進め、1389年にコソボの戦いにおいてセルビア・ボスニア・ワラキアの連合軍を破り、これらの地域へのトルコ人の移住を進めた。
メフメト2世(位1444〜1446、1451〜1481)の在位中に、セルビア・ボスニア・アルバニア・ギリシア・ワラキアを完全に支配下におき、アナトリアのカラマン候国などを滅ぼし、かつてのビザンツ帝国領全域をおさめることとなった。
欧米における近代国民国家の発展
ヨーロッパの再編
東方問題とロシアの南下政策
イェルサレム聖地管理権問題などを要因におこったクリミア戦争(1853〜56)でロシアは敗北した。パリ条約(1856)で、黒海の中立化が定められ、ロンドン条約(1840)が再確認され、ロシアの黒海周辺における南下政策は挫折した。
セルビア・モンテネグロ・ブルガリアなどの地は南スラヴ系民族が多く、ロシアはこうした地域のスラヴ民族運動を利用して、バルカン半島への南下をはかった(パン=スラヴ主義)。ロシア=トルコ戦争(1877〜78)のサン=ステファノ講和条約で、セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立や、エーゲ海におよぶブルガリア自治公国(大ブルガリア)をロシアの保護下におくことが認められた。これにより一時、ロシアの南下政策は成功したかにみえたが、ベルリン会議(1878)で挫折した。
パリ条約(1856)が結ばれ、ルーマニア*2が事実上独立を達成してナポレオン3世の威光が増し、黒海沿岸地域が中立地帯とされて、ロシアはいっさいの軍事施設の撤去を余儀なくされ、1隻の軍艦も黒海に浮かべることができなくなり*3、南下政策は再度挫折した。
*3 パリ条約ではそのほか、オスマン帝国の領土保全、セルビアの自治承認、ドナウ川の自由通航権などが確認された。
1875年ボスニア=ヘルツェゴヴィナでギリシア正教会徒が反乱をおこし、さらにブルガリアにも飛び火した。オスマン帝国は軍隊の力をもって残酷に鎮圧したので、ロシアはパン=スラヴ主義 Pan-Slavism の後継者として、ギリシア正教会徒保護を名目にしてオスマン帝国と開戦した(ロシア=トルコ戦争 / 露土戦争 1877〜78)。この戦争ではロシアがイスタンブルに肉薄したのに対し、オスマン帝国はイギリスに支援要請をだし、イギリス軍がマルマラ海に派遣された。イギリスとの戦争の危機を迎えたロシアは急遽オスマン帝国との間に、1878年サン=ステファノ条約を結んで、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、ブルガリアの自治領化を決めた。イギリスはブルガリアをロシアの傀儡国家と考えていたので、この条約に反発し、さらにパン=ゲルマン主義を進めるオーストリアも反発したので、ヨーロッパの緊張は高まった。このためドイツのビスマルクは「誠実なる仲介人」を自認して、ロシア・イギリス・オスマン帝国・オーストリア・ドイツ・フランス・イタリアの7カ国が参加したベルリン会議(1878)を開催した。
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帝国主義とアジアの民族運動
帝国主義と列強の展開
ロシア
1906年、欽定憲法が発布され、ストルイピン Stolypin (1862〜1911)が首相となった。ストルイピンは革命運動に厳しく対処する一方、ミール mir (共同体)を解体して土地私有化を促進して自営農を創設し、これを帝政の支持基盤として国家を安定させようとした。しかし、この農業改革は農民の根強い反発にあって進捗せず、ミールはスターリンによる農業集団化がおこなわれるまで農民の生活基盤でありつづけた。外交的にはしばらく親英・親独策がとられたが、ドイツがオスマン帝国への影響力を強めると、ロシアは大セルビア主義を支援するようになり、独露関係はしだいに緊張していった。
世界分割と列強対立
バルカン半島の危機
オーストリア=ハンガリーは自国内のスラヴ系諸民族にパン=スラヴ主義の影響がおよぶのを恐れ、バルカン半島への勢力拡大をねらっていた。ドイツにも世界政策の一環として中欧からバルカンへの支配を拡大し、ドイツ民族の連帯を主張するパン=ゲルマン主義が唱えられていた。1908年夏、オスマン帝国で青年トルコ革命がおきると、オーストリアはベルリン会議で行政管理権が認められていたボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合した。両州の住民は大半が南スラヴ系であり、南スラヴの統合を唱えるセルビアが編入を望んでいた地域であった。オーストリアに反発したセルビアはロシアに助けを求め、戦争の危機が高まった。
1911年、列強の関心が 第2次モロッコ事件 にむけられているときに、イタリアはトリポリ在留民の保護を口実にイタリア=トルコ戦争をおこした。翌年、スイスのローザンヌで開かれた講和会議の結果、イタリアは北アフリカのトリポリ・キレナイカの支配権を獲得した。この戦争は、バルカン諸国を刺激し、セルビア・ブルガリア・モンテネグロ・ギリシアの4国はバルカン同盟を結成し、1912年オスマン帝国に宣戦布告した(第1次バルカン戦争)。セルビアがロシアの支援をえてアドリア海への進出を求めたことにオーストリアが強く反発し、ロシア・オーストリア両国は国境付近に大軍を集結させた。しかし、イギリスはロシアに圧力を加え、ドイツもオーストリアを抑制したため危機は回避された。
1913年5月のロンドン条約で、オスマン帝国はイスタンブル周辺をのぞくバルカン半島のほとんどを割譲した。しかし、その割譲された領土の分配にあたりセルビアとブルガリアがマケドニア地方の領有をめぐって争った。ギリシア・モンテネグロばかりでなく、ルーマニアもセルビア側について参戦した(第2次バルカン戦争)。この戦争に敗北したブルガリアはマケドニアなどを失った。これ以後、ブルガリアとオスマン帝国はドイツへの依存を強めていった。このように列強の二極化がバルカン半島のナショナリズムを刺激し、バルカン半島での勢力変動が列強の対立をさらに深化させたので、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。
バルカン問題:ナショナリズムと列強の思惑が複雑に交差するバルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」とよばれた。
二つの世界大戦
第一次世界大戦とロシア革命
第一次世界大戦の勃発
1914年6月28日、オーストリア皇位継承者フランツ=フェルディナント大公夫妻がオーストリアに併合されたボスニアの州都サライエヴォで暗殺された(サライェヴォ事件)。犯人はセルビア系の青年で反ハプスブルクの民族主義的組織に所属していた。セルビア政府は事件とは直接関与していなかったが、オーストリアはドイツの強力な支援をえて7月28日にセルビアに宣戦布告した。セルビアを支援するロシアが総動員令を発すると、ドイツはロシア・フランスに宣戦布告した。
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ヴェルサイユ体制下の欧米諸国
パリ講和会議 とヴェルサイユ条約
ウィルソンの十四カ条
- 秘密外交の廃止
- 海洋の自由
- 経済障壁の撤廃と通商条件の対等化
- 軍備縮小
- 植民地再配分要求の公正な調整
- 全ロシア領からの撤兵
- ベルギーからの撤兵とベルギーの主権回復
- 全フランス領から撤兵とアルザス・ロレーヌのフランスへの返還
- 民族居住線に沿ったイタリア国境の修正
- オーストリア=ハンガリー内諸民族に対する自立的発展の機会の保証
- ルーマニア・セルビア・モンテネグロからの撤兵、バルカン諸国の政治・経済的自立と領土保全への国際的保証
- オスマン帝国内のトルコ領土の保全、他諸民族の自立的発展の保証
- 外海への自由な交通路を与えられた独立ポーランド国家の樹立
- すべての国家の政治的独立と領土保全を相互に保障する国際組織の設立