ヨーロッパの民族 古ゲルマン社会 ゲルマン人の大移動 ゲルマン人とスラヴ人の移動地図
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ゲルマン人の大移動

4世紀後半のフン人の圧迫や寒冷化と耕地不足などを主因とした、ゲルマン諸族のローマ帝国への移住。ヨーロッパ史においては古代から中世への転換の契機とされる。

ゲルマン人の大移動

  • 4世紀後半のフン人の圧迫や寒冷化と耕地不足などを主因とした、ゲルマン諸族のローマ帝国への移住。ヨーロッパ史においては古代から中世への転換の契機とされる。
  • 西ゴート人の南下に始まるゲルマン人のヨーロッパ各地への大規模な移動。寒冷化と人口増加による耕地不足が要因とされる。移動距離の長い東ゴート人・西ゴート人やヴァンダル人などの東ゲルマン人の王国が短命であったのに対し、フランク人やアングロ=サクソン人など西ゲルマン人の王国は、中世世界で中心的な役割を果たした。
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西ローマ帝国: 467年、ゲルマン人傭兵隊長のオドアケルが寝返り、西ローマ帝国は滅亡
東ローマ帝国: ゲルマン民族の移動の影響を受けなかった。

ヨーロッパ世界の形成と発展

ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ
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西ヨーロッパ世界の成立

古代地中海世界は、ゲルマン人の大移動の中で大きく動揺し、5世紀後半の西ローマ帝国の滅亡をもって崩壊した。それから数世紀の間に、ヨーロッパの東西に独自の性格を持つ文明世界が生まれた。それは、古代ギリシア・ローマ文化とキリスト教に、新しいスラヴ人やゲルマン人の文化を融合した東・西ヨーロッパ文明の世界である。
このヨーロッパ世界の形成のひとつの大きな契機となったのが、西アジアにおけるイスラーム勢力の台頭と西方への進出であった。

西ローマの滅亡後、かつての帝国西半分にはゲルマン人の諸国が建国されたが、東半分には古代ローマの制度や文化を引き継ぐ東ローマ帝国が存在した。東ローマ帝国皇帝は唯一のローマ皇帝として、その権威をゲルマン人諸王に認めさせるとともに、旧領の回復に努めた。
だが、7世紀以降イスラーム勢力の地中海進出に伴い、東ローマ帝国の領土は縮小し、ゲルマン人もアルプス以北へと後退し始めた。
その頃、ゲルマン人の中から台頭したのがフランク王国である。フランク王国は領土を拡大するとローマ・カトリック教会と提携し、9世紀を迎える頃には東ローマ帝国とは異なる独自の世界が西ヨーロッパに成立した。
フランク王国はまもなく分裂するが、ノルマン人の移動と建国を経て、西ヨーロッパの地域にはほぼ今日のドイツ・フランス・イタリア・イギリスなどの元が形成された。そして、これらの国々では、独自の封建社会が成立した。

古ゲルマン社会
ゲルマン人とスラヴ人の移動地図
ゲルマン人とスラヴ人の移動地図 ©世界の歴史まっぷ

ヨーロッパの古代と中世を画する出来事のひとつに、ゲルマン人の大移動とそれに伴う古代地中海世界の崩壊がある。
ゲルマン人は、バルト海沿岸やユトランド半島の森林・沼沢地隊を現住地としていたが、次第に南下して先住のケルト人を駆逐し、紀元前後の頃にはライン・ドナウ両河を界にローマ帝国と接触するようになった。大移動以前のゲルマン人の社会を古ゲルマン社会ないし原始ゲルマン社会という。
その実態を知る手がかりとして重要なものに、ガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』(紀元前1世紀半ば)とタキトゥスの『ゲルマニア』(1世紀末)がある。

牧畜を主としつつも、定着して小集落を形成していたゲルマン人は、全体として約50の部族集団(キヴィタス)に分かれていた。このキヴィタスは今日のような明確な領地をもつ国家ではなく、一種の戦士団であった。その社会にはすでに貴族・平民(自由民)・奴隷の身分別階層があり、各キヴィタスは貴族の中から選出された一人の王または数人の首長をいただいていた。最高機関としての民会は、貴族と平民の成人男性全員、つまり戦士団により構成され、政治・軍事・裁判などに関わる決定をおこなった。

ゲルマン社会では、農業の進歩とともに人口が増大し、耕地が不足するようになるとしだいにローマ帝国領内に移住するものが現れた。その多くは小規模の平和的な移住であったが、中には武力を持って部族単位で侵入し、ローマ軍と衝突することもあった。はやくも9年に、ケルスキ族はウァルス将軍率いるローマ軍をトイトブルク森の戦いで破っている。

2世紀後半のマルクス=アウレリウス=アントニヌス(ローマ皇帝)は、マルコマニー族をはじめとするゲルマン人の侵入に対抗するため、別のゲルマン諸部族の応援を求め、その代償としてドナウ流域の帝国領内への安住を許可することになった。こうして大移動の前からゲルマン人とローマ人との接触はさかんにおこなわれた。平和的に移住したゲルマン人の多くは、ローマ軍傭兵・家内奴隷・コロヌス(農奴的小作人)・手工業者・下級官吏などとしてローマ社会に同化していった。とくに傭兵になるものは多く、帝政末期にはローマ軍のほとんどがゲルマン人傭兵で占められるほどになり、帝国のゲルマン化を進めることにもなった。

ゲルマン人の大移動とフン人

大移動に先立つ移動をつうじて、約50を数えたキヴィタスは10余りの大部族(シュタム)に統合され、国王ないし首長の権力も強化されていった。4世紀後半からの大移動はこのシュタムを単位に行われた。それにはブルグント人東ゴート人西ゴート人ヴァンダル人ランゴバルド人ゲピート人などの東ゲルマンと、フランク人サクソン人スエヴィ人アレマン人アングル人ジュート人などの西ゲルマンがあった。
東ゲルマン諸部族はすでに原住地から遠く離れたパンノニア(ハンガリー平野)や黒海北岸のステップ地帯に移動し定着していたが、西ゲルマン諸部族の多くは現住地にとどまるか、近隣の地域に移動したにすぎなかった。

カタラウヌムの戦い 7.帝国の衰退とキリスト教の成立・発展 西ローマ帝国 ハドリアノポリスの戦い ゲルマン人の大移動とフン人 ゴート族 古代の終末 ハドリアノポリスの戦い 専制ローマ帝国 ヨーロッパにおける民族大移動の始まり地図
ヨーロッパにおける民族大移動の始まり地図 ©世界の歴史まっぷ

ゲルマン人の大移動をひきおこした間接的要因は土地不足であったが、直接的要因はアジア系遊牧民フン族(フン人)の圧力であった。

フン人は、確証されてはいないものの、匈奴(北匈奴)との同族説が有力である。

フン族は4世紀後半に南ロシアのステップ地帯を西進し、黒海北岸に定住していた東ゴート人を服従させた(375)。西ゴート人はこれを逃れ、大挙ドナウ川を渡ってローマ領内に侵入し保護を求めた。この事件を契機に、以後2世紀間に及ぶゲルマン人の大移動が始まるのである。ローマは西ゴート人を帝国の同盟者として領内への定着を許し、西ゴートはローマの主権を認めて国境防衛の任についた。しかし、いったんは定着した西ゴートも、さらに条件のよい土地を求めて、第二、第三の移動をおこなった。その背景にはローマの支配力の低下がある。
ほどなくローマは東西に分裂し(395)、北辺の防備がおろそかになると、ヴァンダル・ブルグント・フランクなどの諸部族がライン川を超えてガリア地方に侵入した。こうして、民族移動は西ヨーロッパにも波及することになった。

一方、ドナウ川中流のパンノニアに拠ったフン族は、アッティラ(位434〜453)の出現とともに急速に勢力を拡大し、一帯のゲルマン人やスラヴ人を従えて大帝国を建設した。
451年アッティラの軍が西ヨーロッパに侵入すると、西ローマ・西ゴート・ブルグント・フランクは連合して対抗し、カタラウヌムの戦いでこれを撃退した。アッティラは翌年さらにイタリアに侵入したが、レオ1世(ローマ教皇)との会見後撤退した。
フン帝国はアッティラの死後まもなく瓦解がかいするが、西ローマ帝国もそうした混乱の中で、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルにより滅ぼされた。

ゲルマン諸国家
476年のヨーロッパ地図
476年のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ
568年のヨーロッパ地図
568年のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ
西ゴート人

西ゴート人は現在のブルガリアに定着し、378年にアドリアノープルでウァレンス(ローマ皇帝)のローマ軍を破った。
アラリック1世のもとでバルカン半島各地を移動し、5世紀初めにイタリアに侵入してローマ市を荒らした。(410年)
アラリックの死後ガリア南部に入り、トロサ(トゥールーズ フランス)を都に西ゴート王国を建設した(418年)。
1世紀ほどのち、クローヴィス率いるフランク族に敗れた(507年)ため、イベリア半島のトレド(スペイン)に遷都し、711年にイスラーム教徒のウマイヤ朝に滅ぼされるまでその地で存続した。

東ゴート人

東ゴート人はフン帝国の配下でパンノニアに移住したが、5世紀半ばのフンの瓦解とともに独立した。その後テオドリック(東ゴート王)の指導によりイタリアに侵入し、オドアケルを倒してラヴェンナを首都とする東ゴート王国を建設した。テオドリック時代の東ゴートは、ローマの制度や文化を尊重し、ゲルマン諸国家中最大の繁栄を誇ったが、王の死後東ローマ帝国ユスティニアヌス朝第2代皇帝ユスティニアヌス1世により滅ぼされた。

ヴァンダル人

ヴァンダル人は5世紀初め、ガリアを横断しイベリア半島に定着した。そして西ゴート人の圧迫を受けると、ガイセリック王のもとで北アフリカに渡り、カルタゴの故地にヴァンダル王国を建設した(429年 – 534年)。
一時地中海諸島を領有したが、ローマ系先住民を軍事的に抑圧して反発を招き、東ゴートと同じく東ローマ帝国のユスティニアヌス1世により征服された。

ブルグント人

ブルグント人は5世紀初めライン中流域に建国したが、フン族に破れたため南下し、ガリア東南部ローヌ川流域のサヴォイ地方にブルグント王国を建設した。(443年 – 534年)
1世紀ほどのちフランク人に滅ぼされるが、その名はブルゴーニュ(古いブルグント領の拡大した地域)という地名に残された。

フランク人

フランク人はサリー・リブアリー・上フランクの3つの勢力からなり、ライン下流域に居住していた。その後、ガリア北部に移動し、5世紀になると多数の小国家をつくった。
これらを統一し、フランク王国を建設したのがサリー人のメロヴィング家からでたクロヴィス1世である。
他のゲルマン諸国が短命に終わる中で、フランク王国は9世紀まで存続し、西ヨーロッパ世界の形成に大きな役割を果たした。

アングル人・サクソン人・ジュート人

アングル人・サクソン人・ジュート人はユトランド半島から北ドイツのエルベ川下流域に住んでいた。
5世紀中頃海を渡ってブリタニア南部(イングランド)に侵入し、先住のケルト人を征服して20ばかりの小国家群を形成した。
それらは6世紀末ころまでにイースト=アングリア・ノーサンブリア・マーシア・ウェセックス・サセックス・ウェセックス・ケントの七王国(ヘプターキー)に統合された。

ランゴバルド人

ランゴバルド人はライン・エルベ両河の間に定住していたが、ほかより遅れて6世紀半ばすぎに移動を始めた。アルボイン(アルボイーノ)王のもとで東ゴート滅亡後の北イタリアに入り、パヴィアを都にランゴバルド王国を建設した。8世紀後半にはフランク王国と激しく争い、カール大帝により滅ぼされた。その後も北イタリアの地はロンバルディアと呼ばれて現在に至る。

東ヨーロッパ世界の成立

初期ビザンツ帝国ではローマ的専制君主制が維持され、アドリアノープルの戦い(378)で西ゴート人に大敗を喫したものの、すぐに体勢を立て直し、その後のゲルマン諸部族やフン人・ササン朝などの攻勢をしのいで発展することになった。その初期の絶頂期を現出したのが、ユスティニアヌス1世(ユスティニアヌス朝)である。ユスティニアヌス1世は、即位5年目におこった首都市民の反乱(ニカの乱)をテオドラ(ユスティニアヌスの皇后)とともに鎮圧すると、将軍ベリサリウス、ナルセスらにゲルマン傭兵を主力とする部隊を率いて西地中海に遠征させ、ゲルマン人により奪われた旧ローマ帝国西半部の再征服を敢行した。

6世紀後半のヨーロッパ地図
6世紀後半のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

オリエントと地中海世界

ローマ世界

ローマ帝国へ

ネルウァ=アントニヌス朝のハドリアヌス(ローマ皇帝)のときから帝国は守勢に転じ、マルクス=アウレリウス=アントニヌス(ローマ皇帝)の治世の末にはゲルマン人の侵入、パルティアとの戦いと東方からの疫病、帝国財政の窮乏化などの不穏な状況が現れ、彼の死後には政治は乱れ、皇帝位をめぐる争いが激化した。

3世紀半ばからは各地の軍団がそれぞれ皇帝をたてて抗争する事態となった(軍人皇帝時代 235〜284)軍事力偏重によって都市が圧迫を受け、ことに西方ではゲルマン人のたびかさなる侵入で荒廃が進んだ。東方でも226年に建国したササン朝ペルシアが国境を脅かし、ウァレリアヌス(ローマ皇帝)はそのために捕虜とされるありさまだった。まさに帝国は「3世紀の危機」を体験していたのである。

古代の終末

極限まで拡大していたローマ帝国はひとたび守勢に回ると、国境を絶えずゲルマン人などの異民族に脅かされるようになった。帝国はこれらゲルマン人を平和裡に帝国に移住させたり、傭兵として頼るようになっていったが、長い国境を守るためには多くの軍隊を維持する必要があり、他方、征服戦争が終わって獲得する土地や戦利品がないため帝国財政には大きな負担であった。
軍隊や増加する官僚のために都市に重税が課せられ、また鉱山開発その他の産業が皇帝の独占するところとなって自由な経済活動が妨げられ、内乱と異民族の侵入は内陸の交通路の安全性を奪った。帝国経済全体はこうして衰え、貨幣経済も十分行われにくくなり、経済圏が縮小して自然経済への後戻りすら見られた。ことに西方では都市文化が後退し、富者の田園への離脱と、貧民がそこに保護を求めていく傾向が顕著であった。

古代の終末という問題はローマ帝国の衰亡と結び付けられて長く人々の興味をそそり、その衰亡の原因についてさまざまに論じられてきた。18世紀のエドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』がその代表的作品で、そこではゲルマン人の侵入と、平和主義的なキリスト教の拡大が没落の原因だと主張された。このほかにもゲルマン人がローマ帝国=古典文化を暗殺したという説は根強く、またローマ帝国の拡大が軍事負担、都市の衰え、奴隷制の衰退を招き、古代は内部の矛盾から崩壊していったとする考え方もある。

専制ローマ帝国

4世紀後半、帝国はササン朝の侵入をうけ、フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス帝は東方遠征中に戦死し、また北方と西方には民族大移動(ゲルマン人の大移動)が生じ、ゴート族などの新興ゲルマン人の侵入がさかんで、378年のハドリアノポリスの戦いではウァレンス帝が戦死した。ガリア・スペインにはバガウダエと呼ぶ貧農の反乱が、北アフリカにはキリスト教の異端キルクムケリオーネスの騒乱がおこるなど、帝国の内憂外患は深刻化していった。

コンスタンティノポリスへの遷都は、帝国の中心が東方ギリシア世界に移ったことを意味しており、帝国の東西への分離傾向は強まって行ったが、テオドシウス帝がその死に対してアルカディウスとホノリウスの2子に分割して与えて以後、東西の帝国は2度と統一されなかった西ローマでは皇帝権が弱体化していき、ゲルマン人傭兵出身の将軍が実権を握ってゲルマン人との侵入と戦うという事態となり、大土地所有者は帝国の支配権を脱して田園で独立していく傾向を強め、都市の衰亡もはなはだしかった。そして476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって皇帝が廃位されて、西ローマは滅亡した
一方、東ローマ帝国はゲルマン人の侵入を受けることが比較的少なく、アンティオキア、アレクサンドリアなどのギリシア都市がコンスタンティノポリスとともに繁栄を続け、自由農民も存続して専制国家体制がなお1000年余り続いた。

東アジア世界の形成と発展

北方民族の活動と中国の分裂

北方民族の動向

4〜5世紀のユーラシア大陸では遊牧民の大規模な活動がおこり、周辺の農耕地帯はその影響を強くうけた。東アジアでは北方、西方の遊牧民による地方政権の樹立が華北でみられ、また、フン人の西進にともなうゲルマン人の大移動に関連する動きも、こうした動向の一部とされる。1世紀ころモンゴル高原にいた匈奴は南北に分裂し、南匈奴は後漢に降伏して長城の南辺に移住するようになり、・晋代には今の山西省全域にまで広がった。また、後漢後期以来、西方のていきょうも移住させられたり、あるいは中央政府の力の衰えに乗じて進出したりして、陝西せんせい甘粛かんしゅく地方に多く移住するようになっていた。鮮卑せんぴは匈奴の力が衰えたあとに進出してきたため中国内地への移住は遅れたが、中国での動乱をさけた漢人の亡命者などを取り込んでいた。

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