エーゲ文明 古代ギリシアにおける最古の文明。エーゲ海とその周辺で繁栄した青銅器文化の総称。 紀元前2000年頃から クレタ文明 開放的・自然主義 紀元前1600年頃から ミケーネ文明 好戦的 紀元前2600年頃から トロイア文明
エーゲ文明
オリエントと地中海世界
ギリシア世界

ミノア文明
エヴァンズはホメロスの詩に現れる伝説的なクレタの王・ミノスの名をとって、これをミノア文明と呼んだ。彼らは絵文字と線文字Aを考案したが、それらは今なお解明されていない。
したがってクレタ王国の社会についてはよくわかっていない。クレタ島にはクノッソス・マリア・ファイストスなどの小王国があり、なかでクノッソスが有力で、紀元前2000年頃にはクレタ島を統一したらしい。その王宮は巨大で、動物、とくにイルカなどの海洋動物や人間たちをいきいきと描いた壁画(大きな牛を飛び越える曲芸や、「パリジェンヌ」と呼ばれる女性の絵などが知られる。)にはオリエントにない開放性がみられ、王宮が城壁を持たなかったのも、この文明の平和的な性格を示している。しかしクレタ人は強力な艦隊をつくってエーゲ海の航行権を握り、エジプトや南イタリアなどとの交易もさかんにおこなっていた。クレタ島の北のテラ島(現在のサントリーニ島)にも同様の文明が栄えていた。
テラ島は紀元前1500年ころ火山の噴火で大半が水没した。この出来事がプラトンなどが論じたアトランティス大陸伝説を生んだと推測されている。


©public domain Source: Wikipedia

©public domain Source: Wikipedia

ミケーネ文明
紀元前2000年の少し前ころ、インド・ヨーロッパ語系民族がバルカン半島や小アジアに侵入してきた。彼らがギリシア人の祖先であり、その一部のアカイア人がミケーネなどに王国をつくった。
彼らは丘陵に石造りの堅固な王の城塞をきずいた。また小アジアに侵入したギリシア人は、クレタ文明の一角をなしていたトロイアをも占領した。
やがてミケーネ人たちはクレタに進出し、その文明に触れて線文字Bをつくった。しかし結局ミケーネ人はクレタ文明を滅ぼし、以後250年間ギリシア本土のミケーネ・ティリンス・ピュロス・オルコメノスなどの王国が繁栄した。代表的な王国の名をとって、これをミケーネ文明と呼ぶ。
アテネもこの時代に小王国をつくり、ミケーネ文明の担い手になっていた。
ミケーネの巨大な王墓からは陶器、武器、青銅器、それに王の仮面などおびただしい黄金製品が発見され、王国がきわめて豊かで繁栄していたこと、地中海の東西の広い地域と交易していたことがわかった。それだけではなく、宝石類の中にはバルト海沿岸で産する琥珀がたくさんあり、また青銅器をつくるためにはブリテン島の錫を購入したと思われる。紀元前2000年紀のヨーロッパには、このような物資を中心に取り引きする交易路が開けていたのである。
ピュロスの線文字B文書からは、王が巨大な権力を持って支配下の村落に役人を派遣して農民に貢納をおこなわせていたことがわかる。王宮は戦士である貴族、王の従士たちが居住していた。奴隷もほとんどは王の所有であった。
ミケーネの諸王国はオリエントに比べて領域はずっと小さく、最も強力であったと思われるミケーネも他の王国を統合するにはいたらなかった。しかし各王国には強力な王とこれに隷属的な農民がおり、オリエント的な小専制王国とも呼ぶべきもので、このような社会がポリスの生まれるまえのギリシアに現れていたことが注目されるのである。
ピュロス王国の村落の農民は、わずかながら自分たちの私有地をもっていたことが明らかである。彼らはまだ王とその直轄下の村落共同体に縛られてはいたが、のちのポリス市民のさきがけをなす人々であったといえるかもしれない。
ミケーネ諸王国は紀元前1300年ころから衰退の兆しをみせはじめ、また城壁を強化するなど、外部からの攻撃におびえるようになったらしい。しかし彼らは、紀元前1260年から紀元前1250年ころ総力をあげて小アジアに遠征しトロイアを滅ぼした。
この戦争はエーゲ海と黒海を結ぶ交易路をめぐる争いであったと推定されている。その後まもない紀元前1200年から紀元前1100年にかけて、アテネなどを例外として王宮は炎上し、諸王国は次々と滅んでいき、ミケーネ文明は消滅した。彼らを滅ぼしたのは、この時代に遅れて南下してきたギリシア人の一派ドーリア人たちだと考えられている。しかし最近ではこのほかに、王国内部の反乱や、ちょうどこのころ東地中海に現れてヒッタイトを滅ぼし、エジプトなどを攻撃した「海の民」がミケーネをも滅ぼしたのではないかとする説も出されている。
線文字B文書

暗黒時代
エーゲ世界では文化的生活が姿を消し、文字も忘れられ、各地に混乱が続いて交易も途絶え、生活は貧しくなった。王国を追われた人々は部族的な小グループをなして移動した。ドーリア人はペロポネソス半島に落ち着いたが、一部はクレタ島やロードス島にも進出した。ドーリア人に追われた他のギリシア人も押されて移動せざるをえなくなり、アイオリス人はボイオティア・テッサリアから小アジア北西岸やレスボス島に、イオニア人はアカイアからアッティカ、さらに小アジア西岸中央部に定着した。
アッティカとはギリシアの東南の半島で、ここの一角にアテネがある。のちにアテネはこのアッティカ全域を支配することになる。
これらの種族はその方言によって、すでにギリシア人のなかで分かれていたものである。ペロポネソス半島の一部には北西方言群の人々がとどまった。このような混乱はやがておさまったが、ギリシアの歴史を明瞭に知りうるようになるまでにはほぼ400年間を要した。この時代を暗黒時代と呼ぶ。参考資料