ササン朝 (A.D.224〜A.D.651) アルダシール1世がパルティアを倒してクテシフォンを都に建国。ゾロアスター教を国教に定め中央集権制の確立をはかった。3世紀シャープール1世のときクシャーナ朝を滅ぼして領土を広げ、シリアに遠征してローマ軍を破り、軍人皇帝ウァレリアヌスを捕虜とした。6世紀ホスロー1世は東ローマ帝国ユスティニアヌスと戦い、突厥と結んでエフタルを滅ぼして最盛期を現出、ホスロー2世のとき領域は最大になった。642年ニハーヴァンドの戦いでイスラム軍に完敗しやがて滅亡した。
ササン朝
首都:クテシフォンオリエントと地中海世界
古代オリエント世界
ササン朝
ササン朝(224年〜651年)は、アルダシール1世がパルティアを倒してクテシフォンを都に新しく開いた王朝である。ササン朝の王朝名は、アルダシールの祖父ササンの名に由来する。ササン家はゾロアスター教の祭司の家柄であった。
アケメネス朝の根拠地であったフォールス地方のペルセポリス付近からおこって、農耕イラン人を勢力基盤としていた。アケメネス朝治下のペルシア帝国の復興をめざし、イラン民族の伝統宗教であるゾロアスター教を国教に定めて、国家の統一と中央集権制の確立をはかった。その目標を実現に移したのがシャープール1世で、「イラン人および非イラン人の諸王の王」と称し、東方ではクシャーナ朝滅ぼしてインダス川西岸まで領土を広げ、西方ではシリアに遠征してローマ軍を破り、260年には軍人皇帝ウァレリアヌスを捕虜とした。
以後ササン朝とローマは、とくにアルメニアの帰属をめぐって一進一退の死闘を繰り返すことになる。
アクスム王国は1世紀中ごろの作と思われる『エリュトラー海案内記』に、初めてその名が現れる。
ペルシア商人とアクスム商人
6世紀の東ローマ帝国の歴史家・プロコピオスの伝えるところによると、ササン朝をつうじて、シルク・ロード経由で中国の絹を入手することを嫌ったユスティニアヌス帝は、同盟国のアクスムの王に、インド経由で絹を輸入してくれるよう依頼した。しかしその当時インド西岸の諸港においては、ペルシア商人の勢力がアクスム商人のそれを上回っていたため、絹はペルシア商人によって買い占められ、ユスティニアヌスは海路によって絹を入手することができなかったという。マズダク教とは、マズダク(5,6世紀頃)を開祖とする新興宗教で、ゾロアスター教の異端のひとつとも、マニ教の流れをくんでいるともいわれる。極端な禁欲と平等を主張した。
これを収拾したのがササン朝最大の英主といわれるホスロー1世である。ホスロー1世は東ローマ帝国ユスティニアヌスと対抗して西方での戦いを優勢に進める一方で、トルコ系遊牧民の突厥と同盟を組んで、エフタルを挟撃して滅ぼした。またマズダク教を弾圧し、税制・軍制の改革や官僚制の整備といった内政にも力を注いだので、国力は回復しササン朝は最盛期を迎えるにいたった。
ホスロー1世の死後、一時分裂状態に陥ったササン朝であったが、ホスロー2世という征服者の出現によって、その領域は最大になった。彼は小アジアの大部分、ロードス島、パレスチナ、エジプト、それに南アラビアまでも支配下におさめた。しかし彼の軍費調達は重税を招き、ティグリス川はまれにみるほどの大氾濫をおこすなど、国内的には危機が高まっていた。7世紀の半ばにアラブのイスラム軍が来襲したとき、ペルシア領内は内乱状態であり、最期の王・ヤズデギルド3世は642年にニハーヴァンドの戦いでイスラム軍に完敗し、651年には逃亡先のメルヴ近くで暗殺されて、ついにササン朝は滅亡した。
アラブの進出
ラクダ遊牧民としてのアラブは、すでに紀元前9世紀のアッシリアの記録に現れる。 北アラビアからシリアへかけての砂漠にいたアラブは、しだいに周辺のオアシスに定着し、隊商貿易に従事して有力な都市民となるものもでてきた。南から波状的に押し寄せる新しい移住者を迎え入れ、彼らの勢力は次第に強大となり、従来はアラム人が優勢であった地域も徐々にアラブ化されていった。 アラブの代表的な隊商都市としてペトラ、パルミラ、ハトラなどをあげることができる。 経済的な理由で始まった南アラビアから北へ向けての民族移動は、4世紀以降一層その勢いを増したので、ササン朝にとってもローマにとっても大きな脅威となった。やがて両帝国はみずからの武力でこれを撃退するよりも、金銭を与えてその一部を懐柔し、砂漠の国境警備を肩代わりさせる方法をとった。しかしイスラムの旗のもとに終結するアラブの前に、いずれの帝国も撤退することになる。パルミラ
元来はアラム系の隊商都市であったが、のちにアラブ系の住民が多数を占めるにいたった。3世紀後半にゼノビア女王に率いられて、一時ユーフラテス川からナイル川に渡る地域を占領したが、ローマ軍に敗れて237年に破壊された。
経済的な理由で始まった南アラビアから北へ向けての民族移動
経済の基盤であった中継貿易が、ギリシア系商人のインド洋進出によって不振に陥ったため、灌漑施設の維持管理が困難になって農地も荒廃した。
パルティアとササン朝の文化
ササン朝の文化
ササン朝になると、民族宗教のゾロアスター教が国教とされ、経典『アヴェスター』が編纂されるなどして、アケメネス朝以来のイランの文化的伝統が復活した。しかし一般に王たちが民間の宗教には寛容であったため、国内には仏教徒やキリスト教徒、それにユダヤ教徒もかなりいた。 3世紀にはゾロアスター教・キリスト教・仏教などを組み合わせた独自の救済宗教(マニ教)がマニによって創始された。この宗教はやがて国内では異端として弾圧されたので、地中海世界や中央アジア(とくにウイグル人によって信仰された)、さらには中国(唐)へも伝わった。北アフリカでは青年期のアウグスティヌス(のちの教父)が思想的影響をうけた。また南フランスのキリスト教の異端アルビジョワ派にも、マニ教の影響が認められるという。
キリスト教も一時弾圧されたが、431年のエフェソスの公会議でネストリウス派が異端とされると、ササン朝は敵国ローマの反体制分子としてネストリウス派教徒をうけいれるようになった。このようにササン朝のキリスト教政策は、ローマとの関係に左右されることが多かった。ネストリウス派はこのあと東方への布教を積極的におこなった結果、中央アジアを経て中国(唐朝)にまで伝播して景教と呼ばれる一方で、ペルシア湾を経てインドにまで広がった。
ササン朝時代には建築・美術・工芸の発達がめざましかった。それもアケメネス朝以来のイランの伝統的な様式に、インドやギリシア、ローマの要素が加味されて国際的な性格を備えていた。
磨崖の浮き彫りや漆喰を使った建築にすぐれた手腕を発揮しているが、もっともよく知られているのは工芸美術で、金・銀・青銅・ガラスを材料とする皿、盃、水差し、香炉、鳥獣・植物の模様を織りだした絹織物、彩釉陶器などがとくに優れている。
ササン朝美術の様式や技術は、次のイスラム時代に継承されるとともに、西方では東ローマ帝国を経て地中海地方に、東方では南北朝・隋唐時代の中国を経て、飛鳥時代・奈良時代の日本にまで伝来して、各地の文化に影響を与えた。
日本では、正倉院の漆胡瓶や白瑠璃碗(カットグラス)、法隆寺の獅子狩文様錦などが、その代表例である。
ササン朝と法隆寺の「獅子狩」図案

Source: 染司よしおか工房だより

バクトリアとパルティア
パルティアにとって最大の敵となったのは、東方進出をはかるローマであった。両国間には一進一退の小競り合いが続いたが、パルティアの国力はしだいに衰退し、ついに224年、ササン朝によって滅ぼされた。ローマ世界
専制ローマ帝国
4世紀後半、帝国はササン朝の侵入をうけ、フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス帝は東方遠征中に戦死し、また北方と西方には民族大移動(ゲルマン人の大移動)が生じ、ゴート族などの新興ゲルマン人の侵入がさかんで、378年のハドリアノポリスの戦いではウァレンス帝が戦死した。ガリア・スペインにはバガウダエと呼ぶ貧農の反乱が、北アフリカにはキリスト教の異端キルクムケリオーネスの騒乱がおこるなど、帝国の内憂外患は深刻化していった。ローマ帝国へ
3世紀半ばからは各地の軍団がそれぞれ皇帝をたてて抗争する事態となった(軍人皇帝時代 235〜284)軍事力偏重によって都市が圧迫を受け、ことに西方ではゲルマン人のたびかさなる侵入で荒廃が進んだ。東方でも226年に建国したササン朝ペルシアが国境を脅かし、ウァレリアヌス(ローマ皇帝)はそのために捕虜とされるありさまだった。まさに帝国は「3世紀の危機」を体験していたのである。キリスト教の発展
ネストリウス派はササン朝をへて唐代の中国に伝えられ、景教と呼ばれた。また東方ではキリストが神的性質と人間的性質を完全にひとつの本質としてもつと主張する単性説も盛んになり、カルケドン公会議(451)で異端とされたが、それ以後もエジプトのコプト派はエチオピア・シリア・アルメニアの一部で単性説を奉じた。アジア・アメリカの古代文明
インドの古代文明
西北インドの情勢
クシャーナ朝は3世紀にササン朝に圧迫されて衰え、一時復興したが(キダーラ朝)、5世紀末ころ新たにおこったエフタル民族のために滅ぼされた。内陸アジアの変遷

遊牧民とオアシス民の活動
内陸アジアの新動向
突厥ははじめ柔然に服属していたが、優れた製鉄技術(アルタイ山脈は鉄鉱の産地であった)や「草原の道」の交易の利によって力を蓄え、木汗可汗のとき柔然を滅ぼし(555)、ササン朝のホスロー1世と結んでエフタルを滅ぼして(567)、モンゴル高原からカスピ海にいたる大帝国を樹立した。以後、突厥およびこれにかわったウイグル(回鶻)と、内陸アジアの草原地帯はしばらくトルコ民族の制圧するところとなり、中国の強敵として隋、唐帝国(唐王朝)と交戦を重ねることになった。
ヨーロッパ世界の形成と発展

東ヨーロッパ世界の成立
初期ビザンツ帝国
初期ビザンツ帝国ではローマ的専制君主制が維持され、アドリアノープルの戦い(378)で西ゴート人に大敗を喫したものの、すぐに体勢を立て直し、その後のゲルマン諸部族やフン人・ササン朝などの攻勢をしのいで発展することになった。その初期の絶頂期を現出したのが、ユスティニアヌス1世(ユスティニアヌス朝)である。まず、北アフリカのヴァンダル王国を滅ぼし(534 ヴァンダル戦争)、続いて20年に及ぶゴート戦争の末にイタリアの東ゴート王国を征服(555)、さらに西ゴート王国からはイベリア半島の南端部をかすめ取った。また、東方では540年以降ササン朝のホスロー1世と戦って地中海の制海権を確保するなど、一時地中海帝国の再現に成功した。

東アジア世界の形成と発展

東アジア文化圏の形成
隋唐の社会
東西貿易
唐は中央アジアにおいて、最初はササン朝、のちにウマイヤ朝やアッバース朝と領土を接したため、陸路による東西貿易が発達した。そしてソグディアナ地方出身のイラン系のソグド人が中継商人として活躍した。また海路からはアラビアなどのムスリム商人が来航し、その貿易の窓口となった広州には、彼らの居留地区(蕃坊)がつくられたほか、貿易管理局として市舶司が設置された。唐代の文化
外来宗教
唐(王朝)文化の国際性を示すものに、「唐代三夷教」と呼ばれる祆教・景教・マニ教とイスラーム教の流入がある。祆教・景教・マニ教はいずれも西アジアのササン朝で信奉されていた。しかしササン朝の滅亡によって、新しい拠点を東方に求めねばならなかった。またイスラーム教は、ムスリム商人とともに伝わったものである。 ササン朝において、マニ(216〜276)がゾロアスター教をもとに、キリスト教・仏教などの諸要素を融合させて創始した宗教である。則天武后のころに伝来し、漢訳経典もつくられ、マニ教を信奉するウイグルとの友好関係を維持する目的もあって、唐では保護政策をとった。イスラーム世界の形成と発展
イスラーム帝国の成立
預言者ムハンマド
ササン朝と東ローマ帝国が長い間に渡って戦争を続けたために、シルクロードは両国の国境で途絶え、戦争によって東ローマ帝国の国力が衰えると、その支配下にあった紅海貿易も次第に衰退した。 このためシルクロードや海の道によって運ばれた中国やインド産の商品(絹織物、陶磁器、香辛料など)は、いずれもアラビア半島西部を経由してシリア方面にもたらされるようになった。 ジャーヒリーヤ時代(イスラム以前の無明時代)のメッカは、毎年多くの巡礼者を集めて賑わっていたが、この町の商人は新しくおこった 中継貿易を独占して莫大な利潤を上げていた。アラブ人の征服活動

イスラーム世界の発展
産業と経済の発展
西アジアを中心に広大な領域を支配したイスラーム国家は、東ローマ帝国の金貨とササン朝の銀貨を継承し、ディナール金貨とディルハム銀貨を正式な流通貨幣とする二本位制を定めた。イスラーム文明の特徴
イスラーム帝国は、古代オリエント文明やヘレニズム文明など、古くから多くの先進文明が栄えた地域に建設された。そこに生まれたイスラーム文明は、征服者であるアラブ人がもたらしたイスラーム教とアラビア語を核とし、征服地の住民が祖先から受け継いだこれらの文化遺産を母体として形成された融合文明である。 たとえば、生活の基準となる貨幣制度は東ローマ帝国とササン朝から受け継ぎ、また初期の代表的な建築であるエルサレムの「岩のドーム」は、シリアやイランの建築家、コンスタンティノープルのモザイク師などの多様な技術を集めて建設された。 アラブ文学の傑作とされる『千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)』も、インド・イラン・アラビア・ギリシアなどを起源とする説話の集大成であり、諸文明の融合ぶりをよく示している。『千夜一夜物語』
起源は、ササン朝時代にパフラヴィー語で書かれた『千物語』。これはインド説話の影響を強くうけ、ひとつの枠物語の中に多数の説話が挿入されていた。8世紀後半に、バグダードでアラビア語に翻訳され、イスラームに固有な物語が付け加えられた。『千夜一夜物語』と呼ばれるようになったのは、12世紀の頃である。バグダードの焼失(1258)後は、カイロでさらに多くの物語が加えられ、マムルーク朝の滅亡(1517)時ころまでに、ほぼ現在の形にまとめられた。多数の著書の手をへてつくられ、原作者は不明である。日本には、1875年に英訳からの重役によってはじめて紹介された。イクター制の成立と展開
砂糖
砂糖キビを原料とする砂糖生産は北インドに始まり、ササン朝末期にはイランに導入され、アッバース朝時代にイラク南部からさらにエジプトのデルタ地帯に広まった。12世紀ころには、砂糖キビ栽培はエジプト全土に拡大し、砂糖はヨーロパむけの重要な輸出商品に数えられるようになった。その後、イスラーム世界の製糖技術は、北アフリカをへてアメリカ大陸つに伝えられ、植民地を経営するヨーロッパ諸国は、奴隷労働を用いて大規模な砂糖キビ栽培をおこなった。参考
略年表
208年:バーバクがパールス地方を統一。サーサーン朝の基礎を起こす。 226年:アルダシール1世がパルティア(アルサケス朝)を滅ぼし、イラン・イラクを統一。 240年頃:シャープール1世、クシャーナに遠征し、ガンダーラを奪う。 260年:シャープール1世、エデッサの戦いでローマ軍と戦い、ウァレリアヌスを捕える。 350年頃:シャープール2世、クシャーナを破り、再度征服。 363年:シャープール2世、ユリアヌスを敗死させる。 409年:キリスト教寛容令。 425年:エフタルの侵入。 428年:アルメニア王国を廃絶し、サーサーン朝の知事を置く。 484年:ペーローズ1世、エフタルとの戦いで戦死。 540年:ホスロー1世、アンティオキアを占領。 567年:ホスロー1世、エフタルを滅ぼす。 575年:ホスロー1世、イエメンを占領。 616年:ホスロー2世、東ローマ領のシリア、エジプトを占領。 627年:ニネヴェの戦いで東ローマ・ヘラクレイオス朝のヘラクレイオスに敗れ、クテシフォン近郊への侵攻を許す。 628年:ホスロー2世暗殺、息子のカワード2世はヘラクレイオスと和睦、占領地を奪回される。 637年:カーディシーヤの戦いでイスラム軍に敗れ、クテシフォンを占領される。 642年:ハマダーン近くのニハーヴァンドの戦いで敗北。 651年:ヤズデギルド3世が逃亡先で暗殺され、サーサーン朝滅亡。歴代君主
アルダシール1世
パールス地方の支配権を持った王であったアルダシール1世の父親バーバク(パーパクとも)はパルティアと戦って敗れ、パルティアの宗主権下に納る。 224年、即位したアルダシール1世はパルティアとの戦いに乗り出し、エリマイス王国などイラン高原の諸国を次々制圧した。同年4月にホルミズダガンの戦いでパルティア王アルタバヌス4世と戦って勝利を収め、「諸王の王」というアルサケス朝の称号を引き継いで使用した。この勝利によってパルティアの大貴族がアルダシール1世の覇権を承認するようになった。 230年、メソポタミア全域を傘下に納め、ローマ帝国セウェルス朝の介入を排してアルメニアにまで覇権を及ぼした。東ではクシャーナ朝やトゥーラーンの王達との戦いでも勝利を納め、彼らに自らの宗主権を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことに成功した。以後ササン朝とローマ諸王朝(東ローマ諸王朝)はササン朝が滅亡するまで断続的に衝突を繰り返した。シャープール1世
244年、シリア地方の安全保障のためにササン朝が占領していたニシビスなどの都市を奪回すべくローマ皇帝・ゴルディアヌス3世がササン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世はマッシナの戦いでゴルディアヌス3世を戦死させた。そして、新皇帝となったローマ皇帝ピリップス・アラブスとの和平において莫大な賠償金を獲得した。 260年、エデッサの戦いでローマ皇帝・ヴァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収めた。 シャープール1世は馬上のシャープール1世にひざまずいて命乞いをするヴァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。そしてこれ以後、「エーラーンとエーラーン外の諸王の王」(Šāhān-šāh Ērān ud Anērān)を号するようになった。バハラーム1世
シャープール1世が死去すると長男のホルミズド1世(ホルミズド・アルダシール)が即位したが、間もなく死去したので続いて次男のバハラーム1世が即位した。 バハラーム1世の治世ではシャープール1世の時代に祭司長となっていたカルティール(キルデール)が影響力を大幅に拡大していった。 カルティールは王と同じように各地に碑文を残しており、その絶大な権力がうかがい知れる。ゾロアスター教の祭司として宗教活動に勤しんだ彼は異端宗教の排除を主張し、マニ教や仏教、ネストリウス派キリスト教などの排斥を進めた。マニ教の経典によればカルティールは教祖マニの処刑に関わっていたとされる。バハラーム2世
バハラーム1世が死去すると、その弟であったナルセ1世と、息子であったバハラーム2世との間で不穏な気配が流れた。既にバハラーム1世の生前にバハラーム2世が後継者に指名されていたが、ナルセ1世はこれに激しく反発した。しかしカルティールや貴族の支持を得たバハラーム2世が即位した。 バハラーム2世の治世にはホラーサーンの反乱や対ローマ戦の敗北などがあったが、ホラーサーンの反乱は鎮圧した。カルティールは尚も強い影響力を保持し続けた。ナルセ1世
バハラーム2世の死去後、その息子バハラーム3世が更に王位に就いたが、ナルセ1世はこれに強く反対し、またカルティールなどと敵対する中小の貴族の支援を受けバハラーム3世を排除した。 王位についたナルセ1世はメソポタミア西部やその他の州の奪回を目指して東ローマ軍と戦い、西メソポタミアを奪回。 一方でアルメニアを喪失し、両国の間に和平協定が結ばれ、和平は40年間に渡って維持された。シャープール2世
ナルセ1世の死後、ホルミズド2世の短い治世を経てシャープール2世が即位した。 シャープール2世は生まれる前に貴族や聖職者達によって擁立された。ホルミズド2世には多くの息子がいたが、長男は貴族たちによって殺害され、次男、三男は幽閉されて王位から退けられた。そしてまだ生まれてすらいない胎児であったシャープール2世が即位することが決定され、シャープール2世の母親のお腹の上に王冠が戴せられた。こうしてシャープール2世は生まれると同時に即位し、少年時代を通じて貴族達の傀儡として過ごした。 しかし、長じるに順って実権を握りササン朝史上最長の在位期間を持つ王となった。 シャープール2世はスサ(スーサ)の反乱を速やかに鎮圧し城壁を破壊。また前王の死後領内に侵入していたアラブ人と戦ってこれを撃退し、アラビア半島の奥深くまで追撃して降伏させた。 ローマ軍との戦いでは、363年にクテシフォンの戦いで侵攻してきたローマ・コンスタンティヌス朝皇帝・フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスを戦死させ、アルメニアの支配権を握るなどした。 東方のトゥーラーンではフン族の一派と思われる集団が侵入したが、シャープール2世は彼らを同盟者とすることに成功した。 対外的な成功を続けたシャープール2世は、領内統治に関しては数多くの都市を再建し各地に要塞と城壁を築いて外敵の侵入に備えた。また、ナルセ1世以来の宗教寛容策を捨ててゾロアスター教の教会制度を整備し、キリスト教やマニ教への圧力を強めた。こうしてシャープール2世の治世では、ササン朝の統治体制が1つの完成を見たとされる。バハラーム4世
シャープール2世の跡を継いで379年に王となったアルダシール2世、続くシャープール3世は短命に終わる。バハラーム4世の治世に入るとフン族が来襲したが、バハラーム4世は彼らを同盟した。ヤズデギルド1世
バハラーム4世の死後、ヤズデギルド1世が即位した。ヤズデギルド1世は「罪人」の異名を与えられているが、その真の理由は分かっていない。友人にキリスト教徒の医師がいたためにキリスト教に改宗したからだとも言われ、またヤズデギルド1世の許可の下で410年にセレウキア公会議が開かれたためとも言われているが、ヤズデギルド1世がキリスト教徒に特別寛容であったかどうかは判然としていない。バハラーム5世
ヤズデギルド1世の死後、再び王位継承の争いが起き、短命王が続いた後バハラーム5世が即位した。バハラーム5世はゾロアスター教聖職者の言を入れてキリスト教徒の弾圧を行ったために多くのキリスト教徒が国外へ逃亡した。亡命者を巡ってササン朝とローマ帝国・テオドシウス朝の間で交渉が持たれたが決裂。 422年に戦争に敗北し領内におけるキリスト教徒の待遇改善を約束した。 425年、バハラーム5世の治世に東方からエフタルの侵入があった。バハラーム5世はこれを抑えて中央アジア方面でのササン朝の勢力を拡大したが、以後エフタルはササン朝の悩みの種となる。 428年、アルサケス朝アルメニアが滅亡し、ササン朝アルメニアが成立。ヤズデギルド2世
バハラーム5世の跡を継いだ息子のヤズデギルド2世は、東ローマ帝国のテオドシウス2世と紛争の後、441年に相互不可侵を結んだ。 443年、キダーラ朝との戦いを始め、450年に勝利を納めた。 国内において、キリスト教徒であったアルメニア人をゾロアスター教に改宗を迫り動乱が発生した。テオドシウス朝がアルメニアを支援したが、451年にヤズデギルド2世がBattle of Avarayrで勝利しキリスト教の煽動者を処刑、支配を固めた。 ヤズデギルド2世の治世末期より、強大化したエフタルはササン朝への干渉を強めた。 ヤズデギルド2世は東部国境各地を転戦したが、決定的打撃を与えることなく457年世を去った。ペーローズ1世
ヤズデギルド2世の二人の息子、ホルミズドとペーローズ1世は王位を巡って激しく争いペーローズ1世はエフタルの支援を受け帝位に就いた。 458年、ササン朝アルメニアでゾロアスター教への改宗を拒むマミコニア家の王女が夫のVarskenに殺害されたため、エフタルの攻撃を受け、ササン朝が東方に兵を振り向けていたため、イベリア王国の王・Vakhtang I Gorgasaliがこの争いに介入してVarskenも殺された。 ペーローズ1世はアードゥル・グシュナスプを派遣したが、Vahan I Mamikonianが蜂起してVakhtang I Gorgasaliに合流。アードゥル・グシュナスプは再攻撃を試みたが敗れて殺された。 ペーローズ1世はエフタルの影響力を排除すべく469年にエフタルを攻めたが、敗れてペーローズ1世は捕虜となり、息子のカワード1世を人質に差し出しエフタルに対する莫大な貢納を納める盟約を結んだ。 干ばつにより財政事情は逼迫、484年に再度エフタルを攻めたが敗死した(ヘラートの戦い)。バラーシュ1世
ペーローズ1世の死後、貴族達によってバラーシュ1世(在位:484年-488年)が推挙され帝位に就いた。485年にはVahan I Mamikonianがササン朝アルメニアのMarzbanに即位。カワード1世
人質に出ていたカワード1世(在位:488年–496年、498年-531年)がエフタルの庇護の下で帰国すると、バラーシュ1世から帝位を奪った。しかし、マズダク教の扱いを巡り貴族達と対立したため幽閉されて廃位され、ジャーマースプが皇帝となった。 幽閉されたカワード1世は逃亡してエフタルの下へ逃れ、エフタルの支援を受け再び首都に乗り込んだ。498年、ジャーマースプは抵抗することなく帝位返還に同意、カワード1世が復位した。同年、ネストリウス派キリスト教の総主教がセレウキア-クテシフォンに立てられた。カワード1世は、帝位継承に際して貴族の干渉を受けずにこれを行うことを目指し、後継者を息子のホスロー1世とした。 502年、カワード1世はエフタルへの貢納の費用を捻出するため東ローマ領へ侵攻し、領土を奪うとともに領内各地の反乱を鎮圧した。この戦いがByzantine–Sassanid Wars(502年–628年)の始まりであった。 526年、イベリア戦争(526年–532年)が、東ローマ帝国・ラフム朝連合軍との間で行なわれた。 530年、Battle of Dara、Battle of Satala。 531年、Battle of Callinicum。ホスロー1世
カワード1世の跡を継いだホスロー1世(在位:531年-579年)の治世はササン朝の最盛期と称される。 ホスロー1世は父帝の政策を継承して大貴族の影響力排除を進め、またマズダク教の活動を抑制して社会秩序を回復、軍制改革にも取り組んだ。とりわけ中小貴族の没落を回避のため、軍備費用の自己負担を廃止して武器を官給とした。一方、宗教政策に力を入れ、末端にも聖火の拝礼を奨めるなど神殿組織の再編を試みた。 一方、東ローマではキリスト教学の発達に伴って異教的学問の排除が進み、529年には東ローマ帝国のユスティニアヌス1世が非キリスト教的な学校を閉鎖する政策を実施したため、アテネのアカデミアが閉鎖された。このために失業した学者が数多くササン朝に移住し、ホスロー1世は学問を奨励して彼らのための施設を作って受け入れた。 それ以前に、エジプトでも415年にヒュパティア(ローマ帝国アエギュプトゥスの数学者・天文学者・新プラトン主義哲学者)(映画『アレクサンドリア』の主人公のモデル)がキリスト教徒により異教徒として虐殺され、エジプトからも学者が数多くササン朝に亡命して来ていた。この結果、ギリシア語やラテン語の文献が多数翻訳された。 ホスロー1世からホスロー2世の時代にかけて、各地のさまざまな文献や翻訳文献を宮廷の図書館に収蔵させたと伝えられている。宗教関係では『アヴェスター』などのゾロアスター教の聖典類も書写され、これらの注釈などのために各種のパフラヴィー語による『ヤシュト』もこの時期に文書化された。『アヴェスター』書写のためアヴェスター文字も既存のパフラヴィー文字を改良して創制され、現存するゾロアスター教文献など一連のゾロアスター教資料群の基礎はこの時期に作成されたものを直接の起源としていると現在考えられている。現存しないが、後の『シャー・ナーメ』の前身となる、古代からササン朝時代まで続く歴史書『フワダーイ・ナーマグ』(Χwadāy Nāmag)は、この頃に編纂されたと思われる。 5世紀前後からオマーンやイエメンといったアラビア半島へ遠征や鉱山開発などのため入植を行わせており、イラク南部のラフム朝などの周辺のアラブ系王朝も傘下に置くようになった。 ホスロー1世は、東ローマ帝国ユスティニアヌス朝第2代皇帝・ユスティニアヌス1世の西方経略の隙に乗じて圧力を掛け貢納金を課し、また度々東ローマ領へ侵攻して賠償金を得た。 ユスティニアヌス朝との間に50年間の休戦を結ぶと、558年に東方で影響力を拡大するエフタルに対して突厥西方(現イリ)の室点蜜と同盟を結び攻撃を仕掛け、長年の懸案であったエフタルを滅亡させた。 一方でエフタルの故地を襲った突厥との友好関係を継続すべく婚姻外交を推し進めたが588年の第一次ペルソ・テュルク戦争で対立に至り、結局エフタルを滅ぼしたものの領土の拡張は一部に留まった。 569年からビザンチンと西突厥は同盟関係となっていたことから、ビザンチン・ササン戦争 (572年-591年)を引き起こすことになった。ホスロー2世
ホスロー1世の死後、息子のホルミズド4世が即位したが、590年、クーデターに遭い、両目を潰された後、処刑された。跡を継いでホルミズド4世の息子ホスロー2世が即位したが、東方でバフラーム・チョービーンの反乱が発生したためホスロー2世は東ローマ国境付近まで逃走し、王位は簒奪された。 東ローマ帝国ユスティニアヌス朝第5代皇帝・マウリキウスの援助を得て反乱を鎮圧したが、602年に当のユスティニアヌス朝で政変が起こりマウリキウスが殺されフォカスが帝位を僭称すると、仇討を掲げてビザンチン・ササン戦争を開始、フォカスは初戦で大勝を収めたが、610年にヘラクレイオスのクーデターで殺害されヘラクレイオスが皇帝位に即き、東ローマ帝国・ヘラクレイオス朝を興した。 連年のホスロー2世率いるササン朝軍の侵攻によって、ヘラクレイオスは即位直後から劣勢となり、613年にはシリアのダマスカス、シリア、翌614年には聖地エルサレムが陥落した(エルサレム包囲戦)。この時エルサレムから「真なる十字架」を持ち帰ったという。 615年、エジプト征服が始まり、619年に第二次ペルソ・テュルク戦争が起こった。 621年、サーサーン朝はエジプト全土を占領し、アナトリアを占領、アケメネス朝の旧領域を支配地に組み入れた。一時はコンスタンティノープルも包囲し、ヘラクレイオス自身も故地カルタゴまで逃亡を計ろうとした。 622年、カッパドキアの戦いでヘラクレイオスが反撃へ転じ、被占領地を避け黒海東南部沿岸から直接中枢部イラクへ侵入した。ササン朝はアヴァールと共同でヘラクレイオス不在の首都コンスタンティノポリスを包囲し、呼応して第三次ペルソ・テュルク戦争も起こったが、コンスタンティノポリスでは撃退される(コンスタンティノープル包囲戦)。 627年、ヘラクレイオスの親卒する東ローマ軍がメソポタミアに侵攻すると、ニネヴェの戦いでササン朝軍は敗北し、クテシフォン近郊まで東ローマ軍の進撃を許す。 ホスロー2世の長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いていた結果、翌628年にクテシフォンで反乱が起こりホスロー2世は息子のカワード2世に裏切られ殺された。カワード2世
カワード2世は即位するとヘラクレイオス朝との関係修復のため聖十字架を返還したが、程なくして病死。ヤズデギルド3世
王位継承の内戦が発生した。長期に渡る混乱の末、29代目で最後の王となるヤズデギルド3世が即位したが、サーサーン朝の国力は内乱やイラク南部におけるディジュラ・フラート河とその支流の大洪水に伴う流路変更と農業適地の消失(湿地化の進行)により消耗していた。そこに新しい宗教イスラームが勃興しササン朝は最期の時を迎えることになる。 アラビア半島に勃興したイスラム共同体は勢力を拡大し東ローマ領に続きササン領へ侵入し始め、633年にハーリド・イブン=アル=ワリード率いるイスラム軍がイラク南部のサワード地方に侵攻(イスラーム教徒のペルシア征服)、現地のサーサーン軍は敗れ、サワード地方の都市の多くは降伏勧告に応じて開城した。 翌634年にハーリドがシリア戦線に去ると、イスラム軍は統率を失い、進撃は停滞、ヤズデギルド3世は各所でこれらを破り、一時、ササン朝によるイラク防衛は成功するかに見えた。 しかし、同年のアブー・バクル(正統カリフ)の死によるウマル・イブン・ハッターブ(正統カリフ)への交代と共に、ペルシア戦線におけるイスラム軍の指揮系統は一新され、636年のカーディシーヤの戦いで敗北、首都クテシフォンが包囲されるに及んでヤズデギルド3世は陥落前に逃亡、サーサーン朝の領国では飢饉や疫病が蔓延していたという。 クテシフォンの北東にあったジャルーラーウでザグロス山脈周辺から軍を召集して反撃を試みたが、イスラム軍の攻撃を受け大敗した。 641年、ヤズデギルド3世はライ、クーミス、エスファハーン、ハマダーンなどイラン高原西部から兵を徴集して6万とも10万とも言われる大軍を編成、対するウマル・イブン・ハッターブも軍営都市のバスラクーファから軍勢を招集する。642年にニハーヴァンドの戦いでサーサーン軍とイスラム軍は会戦、サーサーン軍は敗れた。 敗戦後エスファハーンからパールス州のイスタフルへ逃れたが、エスファハーンも643年から644年にかけてイスラム軍に制圧された。 ヤズデギルド3世は再起を計って東方へ逃れケルマーンやスィースターンへ赴くが、現地辺境総督(マルズバーン)の反感を買って北へ逃れざるを得なくなりホラーサーンのメルヴへ逃れた。しかし、651年にヤズデギルド3世はメルヴ総督のマーフワイフの裏切りにより殺害され、サーサーン朝は断絶した。 国の東方に遠征駐屯していた王子ペーローズとその軍はその地に留まり反撃の機会を窺い、さらに東方の唐(王朝)助勢を求め、自らが首都の長安まで赴いたりもしたが、上手く行かずに終息した。 サーサーン朝の滅亡は、ムスリムにとってはイスラーム共同体が世界帝国へ発展していく契機となった栄光の歴史として記憶されている。