ジョン・オブ・ランカスター
ジョン・オブ・ランカスター ©Public domain

ジョン・オブ・ランカスター


ジョン・オブ・ランカスター

1389年6月20日-1435年9月14日。ヘンリー4世(イングランド王)の第3王子。甥のヘンリー6世(イングランド王)(フランス王兼)のフランス摂政として、百年戦争後期のイングランド軍の総指揮をとる。
ジャンヌ・ダルクを処刑したことで悪名高い人物だが、優れた軍人にして、有能な為政者であった。

ジョン・オブ・ランカスター

イングランド王ヘンリー4世とその王妃メアリー・ド・ブーンの三男として生まれる。兄にイングランド王ヘンリー5世、クラレンス公トマス、弟にグロスター公ハンフリーがいる。

系図

ジョン・オブ・ランカスター
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系図の全体図はこちら 百年戦争前後のイングランドとフランスの君主一覧と系図

フランス摂政

1422年 兄・ヘンリー5世(イングランド王)が崩御すると次の王で甥ヘンリー6世(イングランド王)(トロワ条約によるフランス王)が幼君であることから、兄の遺言によりベッドフォード公はフランス摂政としてフランス占領地の行政を、弟グロスター公はイングランド国内の行政を執ることになった。
議会はベッドフォード公を護国卿に指名し、グロスター公はベッドフォード公不在時の代理としたが、ベッドフォード公は兄の遺言通りイングランドの政治については弟に任せ、自身はフランス内のイングランド領であるノルマンディーやパリ(イル=ド=フランス)の統治と百年戦争でのイングランド軍の総指揮に集中した。1423年 ブルゴーニュ派との同盟関係を強化するため、ブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)の妹アンヌと結婚した。
アンジュー帝国の拡大地図
アンジュー帝国の拡大地図 ©世界の歴史まっぷ

彼女はイングランドとブルゴーニュ派の間に生じた問題の解決に何度も尽力してくれた。しかし、同時に挙行されたブルターニュ公ジャン5世の弟アルテュール・ド・リッシュモンと善良公とアンヌの姉マルグリットとの結婚を通してブルターニュとも同盟を結ぼうとしたが、ブルターニュ公は中立を貫き、リッシュモンに至っては後にフランスへ走っているためブルターニュの抱きこみに失敗した。1424年 ヴェルヌイユの戦いでは自らイングランド軍の陣頭指揮をとり、ブールジュのシャルル7世に雇われたスコットランドやロンバルドの傭兵軍団を主力とするフランス軍を破り、イングランド軍の最優勢期を築いた。しかし資金不足でロワール河畔への進軍ができず、この勝利を有効に生かすことはできなかった。

ベッドフォード公の抱える問題はフランスで孤軍奮闘状態になっていることだった。同盟者ブルゴーニュ公はアルマニャック派(シャルル7世勢力)との闘いにはほとんど関心がなく、フランドル政策に熱中していた。イングランド国内でもグロスター公は北部国境スコットランドを危険視してフランス政策に消極的だった。外部からの援助が期待できないベッドフォード公としては、せめてノルマンディ公領をはじめとする占領地からの収入は固める必要があり、そのためにノルマンディ三部会を定期的に開催した。

エノー女伯とブルゴーニュ公の戦い

1425年10月 弟グロスター公とその妻エノー女伯ジャクリーヌがエノー継承権を求めて同地へ進軍し、同じく同地の継承権を主張するブルゴーニュ公と対立した。
ベッドフォード公にとってははた迷惑以外の何物でもなく、これによってベッドフォード公とブルゴーニュ公の同盟関係も怪しくなってしまった。しかし結局弟がジャクリーヌを見捨ててロンドンへ逃げ帰ってくれたので、ベッドフォード公はブルゴーニュ公への圧力を再び強められるようになった。

1426年 海軍司令長官に就任した。
1427年 本国でヘンリー6世の補佐をめぐって弟と義理の叔父ウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォートの対立が深まったため、急遽帰国してその仲裁に当たっている。バット議会を招集することで両者の和解にこぎつけた。

1428年 デルフトでジャクリーヌとブルゴーニュ公の間に協定が結ばれ、ブルゴーニュ公がジャクリーヌのエノー、ホラント、ゼーラントの権利の相続人となった。この際にベッドフォード公はブルゴーニュ公に対してジャクリーヌ支援を放棄する代わりに対フランス戦争に参加するよう求めたが、ブルゴーニュ公は拒否して動かず、中立的立場をとった。

ジャンヌ・ダルクとの戦い

ベッドフォード公は丁寧に後方を固めることを好む人だったが、戦線の膠着状態が続く中、主戦派の第13代ウォリック伯爵リチャード・ド・ビーチャムや第4代ソールズベリー伯爵トマス・モンタキュートから突き上げられてオルレアン包囲作戦を決定した。面の支配ではなく、オルレアンという点の支配で一気にシャルル7世がいるブールジュの王宮まで侵攻する計画である。また戦局を緊迫化させることでブルゴーニュ公をいやおうなしに対フランス戦争に引きずり込めるという思惑があった。1429年5月 ジャンヌ・ダルク率いるフランス軍にトゥーレル要塞を落とされ、包囲されていたオルレアンは解放された。
1420年頃の勢力範囲地図
1420年頃の勢力範囲地図 ©世界の歴史まっぷ

作戦の失敗を知ったパリのベッドフォード公は、ジョン・ファストルフ率いる援軍をパリから送って第7代タルボット男爵・ジョン・タルボット(後の初代シュルーズベリー伯爵)率いるオルレアン攻囲残党軍と合流させたが、彼らは6月にパテーの戦いで敗れて壊滅してしまった。これによりフランス軍にランスへの道が開かれ、7月にはシャルル7世がジャンヌらを引き連れてランス大聖堂で戴冠式に臨んだ。
8月にはジャンヌ率いるフランス軍がパリに接近してきた。ベッドフォード公はパリ市の壁や市民軍を強化し、忠誠確認などで市内の徹底した思想統制を図って防衛力を強化した。その結果、9月のフランス軍のパリ城壁攻撃を退けることに成功した。

1430年2月にはブルゴーニュ公にイル=ド=フランス東部ブリとシャンパーニュへの統制権を認め、それを餌にしてブルゴーニュ派のコンピエーニュ攻囲への参戦を取りつけた(ブルゴーニュ公としてはイギリスと全面共同作戦を行う意思などなかったが、目下同盟者ベッドフォード公の顔を立てておく必要があったし、ブリとシャンパーニュを手に入れておけばシャルル7世との和解交渉の時に役に立つと考えていた)。

この作戦は1430年夏いっぱい続けられたが、イングランド軍とブルゴーニュ軍の敗北で終わった。
しかしこの戦いの最中の5月23日にブルゴーニュ軍がジャンヌを捕虜にすることに成功した。コンピエーニュを管轄するボーヴェ司教・ピエール・コーションを通じてジャンヌの身柄を買い受け、コーションを裁判長とする宗教裁判に引き渡した。

1431年1月から5月にかけてジャンヌの宗教裁判が行われたが、最終的には獄中で男装したことで戻り異端の罪を犯したとされて、1431年5月29日に世俗裁判権(イングランド)に返還された。ベッドフォード公は重ねて世俗裁判を行わず、5月30日にもジャンヌを火刑に処した。

晩年

ジャンヌを処刑した後、ルーヴィエに攻勢を開始させ、本国からの増援も得て10月に同市を陥落させることに成功した。
さらに12月17日にはヘンリー6世をパリのノートルダム大聖堂でフランス王として戴冠させたが、イングランド軍の劣勢が覆しがたくなりはじめていたため、戴冠式後にはヘンリー6世を早々に帰国させた。

1432年以降 イングランドの敗色が目立つようになり、同年2月20日にはシャルトルをフランス軍に奪還された。
その数か月後にはパリとシャンパーニュの間に位置し、輸送隊を組織するのに重要であったラニ攻囲を撤収する羽目になった。
11月にはブルゴーニュ派との懸け橋の1つである妻アンヌを失った。
1434年 ノルマンディーのベサン地方がベッドフォード公の課した重税に耐え切れずに蜂起を開始した。他のノルマンディー地方もほとんど統制が利かなくなっており、野盗が急増して無法地帯と化していた。

晩年には主戦派であるグロスター公からも戦況悪化の責任を追及されるようになり、1435年9月14日に失意のままルーアンで薨去した。
1週間後の9月21日にはついにブルゴーニュ公とシャルル7世がアラス条約を結んで和睦し、1436年4月にはパリが陥落した。
以後イングランドは劣勢を覆せず、百年戦争の終戦を迎えることになる。

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