マニュファクチュア
江戸時代 経済の変化 ©世界の歴史まっぷ

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マニュファクチュア manufacture (工場制手工業)

資本家が工場に労働者を集め、分業の形で手工業により商品を製造する生産様式。資本主義生産の初期的段階。16世紀後半、イギリス毛織物生産の分野で始まり、日本では17世紀摂津の伊丹・池田・灘などの酒造業でみられた。19世紀には大坂周辺や尾張の絹織物業、桐生・足利の綿織物業、川口の鋳物業などにみられた。

マニュファクチュア

(世界史)資本家が工場に労働者を集め、分業の形で手工業により商品を製造する生産様式。16世紀後半、イギリス毛織物生産の分野で始まった。ドイツやフランスでは、国王が主導する特権マニュファクチュアも成立した。

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(日本史)労働者が1ヶ所に集まって、分業に基づく協業組織で、手工業生産を行う形態。資本主義生産の初期的段階。17世紀にすでに摂津の伊丹・池田・灘などの酒造業でみられた。19世紀には大坂周辺や尾張の絹織物業、桐生・足利の綿織物業、川口の鋳物業などにみられた。

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アジア諸地域の繁栄

東アジア・東南アジア世界の動向

明後期の社会と文化

明朝の中期以降、江南の上海・松江の綿織物、蘇州の絹織物などを先頭にして手工業が目覚ましい発展をとげた。とくに江南の諸都市では手工業の規模が大きくなり、なかにはマニュファクチュア(工場制手工業)的生産形態もみられ、商品が多量に生産された。また四川や福建の茶の栽培、景徳鎮けいとくちんの陶磁器などをはじめ、諸地域でも産業が発展した。各地で生産された商品は、国内の需要の増加や流通の拡大によって全国各地に運ばれた。さらに、当時来航していたポルトガルやスペインの商人たちによって、生糸や蘇州の絹織物、景徳鎮の陶磁器などは代表的な国際商品として日本やアメリカ大陸、ヨーロッパに輸出された。

ヨーロッパ主権国家体制の展開

危機の時代の主権国家

ルイ14世の政治

王はまた、商工業の育成をはかって、王権の財政基盤を確立することをめざした。この目的のために、マザランに登用された財政総監ジャン=バティスト・コルベール(1619〜1683)を重用して、王立マニュファクチュア(工場制手工業)を設立するなど、フランス独特の重商主義政策を推進した。

コルベール主義

コルベールが推進した諸政策は「コルベール主義」の名のもとに、フランス重商主義の代名詞となっている。国内に金・銀を多く蓄えることが経済繁栄の道と考えた彼は、国内に鉱山のないフランスとしては、輸出を増やし、輸入を減らすことで金・銀を獲得すべきだとした。このため、特権を与えてゴブラン織りなどのマニュファクチュアを育成し、保護関税政策を展開した。そのほか、造船、海運の奨励にも務め、植民地の確保をめざしたが、軍事支出には反対であった。

しかし、1685年にナントの王令が廃止されると、商工業者の中心を占めていたユグノーたちがイギリスその他の国に亡命し、フランス経済は深刻な打撃をこうむった。17世紀のフランスは、全体に人口も増えず、経済発展の点ではイギリスに遅れをとったとされている。

欧米における近代社会の成長

産業革命

イギリスの産業革命

産業革命は、なぜ最初にイギリスでおこったのだろうか。ひとつの原因は、対外的なものでる。すなわち、七年戦争によってイギリスが世界商業の覇権を握り、広大な植民地帝国を形成したことであった。とくに、イギリスは奴隷貿易を軸に、自国と西アフリカ、カリブ海や北米南部を結ぶ「三角貿易」を形成して、大きな利益をえた。この収益が、産業革命の資本源となる一面もあった。しかもその際、アフリカむけの輸出品には綿布が含まれており、カリブ海からの輸入品には砂糖のほか綿花が含まれていたため、ロンドンとならぶ奴隷貿易の中心、リヴァプールに近いマンチェスター周辺に綿工業が発達したのである。

他方、イギリスの国内事情も有利に作用した。早くから第2次囲い込みや、新農法の導入などの農業改良が進んでいた(農業革命)。このため人口が18世紀中ごろからは急増しはじめ、労働力にも不足がなかった。土壌のぐあいで農業改良がむずかしかった西北部などでは、すでに18世紀中ごろまでに毛織物業を中心に問屋制度による手工業(「プロト工業」という)やマニュファクチュア(工場制手工業)が成立し、工業生産の伝統もきずかれていた。

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幕藩体制の動揺

幕府の衰退

経済近代化と雄藩のおこり

19世紀に入ると、商品生産地域では問屋商人が生産者に資金や原料を前貸しして生産を行わせる問屋制家内工業がいっそう発展し、一部の地主や問屋商人は作業場を設けて奉公人(賃金労働者)を集め、分業と協業による手工業生産を行うようになった。これをマニュファクチュア(工場制手工業)といい、摂津の伊丹・池田・灘などの酒造業では早くからこのような経営がみられた。大坂周辺や京都の西陣、尾張の綿織物業、北関東の桐生・足利などの絹織物業では数十台の高機たかばたと数十人の奉公人をもつ織屋 が登場してきた。農村荒廃の一方で、資本主義的な工業生産の着実な発展がみられるなど、社会・経済構造の変化は幕藩領主にとっては体制の危機であった。

マニュファクチュア
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19世紀に入ると、問屋制家内工業がいっそう発達し、分業と協業による手工業的(資本的)生産をおこなうマニュファクチュア(工業制手工業)がおこなわれるようになった。

農村の荒廃に対しては、小田原藩領・下野桜町領、常陸や日光山領などで行われた二宮尊徳にのみやそんとく(金次郎、1787-1856)の報徳仕法ほうとくしほう、下総香取郡長部ながべ村で行われた大原幽学おおはらゆうがく(1797-1858)の性学などのように、荒廃した田畑を回復させ農村を復興させようとする試みがある。しかし、すでに商品生産や商人資本のもとで賃金労働が行われ始めている段階では、このような方法で資本主義の胎動をとめることはできなかった。これに対して、商品生産や工業の発展に積極的に対応し、それを取り込もうとしたのが、藩営専売制藩営工場の設立であった。

織屋:生産者に技術を教える作業場といわれる。

報徳仕法:尊徳司法ともいうが、一方で領主の年貢収奪を制限し、他方で百姓には勤倹力行きんけんりっこうの生活を説き、生産条件を整備しつつ荒廃した田畑を再開発し、農村を復興させようとした。

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