マルクス・アウレリウス・アントニヌス
マルクス・アウレリウス・アントニヌス像 Source Wikipedia

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

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マルクス・アウレリウス・アントニヌス (A.D.121〜A.D.180)
ローマ帝国ネルウァ=アントニヌス朝(五賢帝)第5代皇帝。
11歳でストア派哲学者として知られた。辺境で異民族の侵入や動乱が増えたため、治世の大部分を陣営で過ごした。名著『自省録』を執筆。(ビジュアル百科 世界史1200人 1冊丸わかり!

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

古ゲルマン社会

ゲルマン社会では、農業の進歩とともに人口が増大し、耕地が不足するとローマ帝国領内に移住するものが現れた。その多くは小規模の平和的な移住であったが、中には武力を持って部族単位で侵入し、ローマ軍と衝突することもあった。
9年に、ケルスキ族はウァルス将軍率いるローマ軍をトイトブルク森の戦いで破っている。
こうしたゲルマン人の動きに対し、1世紀末のドミティアヌス(ローマ皇帝)はライン・ドナウ両河の間に長城(リメス limes)を築いて防戦に努めた。

2世紀後半のマルクス・アウレリウス・アントニヌス(ローマ皇帝)は、マルコマニー族をはじめとするゲルマン人の侵入に対抗するため、別のゲルマン諸部族の応援を求め、その代償としてドナウ流域の帝国領内への安住を許可することになった。
こうして大移動の前からゲルマン人とローマ人との接触はさかんに行われた。平和的に移住したゲルマン人の多くは、ローマ軍傭兵・家内奴隷・コロヌス(農奴的小作人)・手工業者・下級官吏などとしてローマ社会に同化していった。
とくに傭兵になるものは多く、帝政末期にはローマ軍のほとんどがゲルマン人傭兵で占められるほどになり、帝国のゲルマン化を進めることにもなった。

ストア哲学

2世紀では奴隷出身の哲学者エピクテトスと、哲人皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスがストア哲学の最後に位置している。その著『自省録』はゲルマン人との戦争のさなか、静かな思索とこの世への深いあきらめの念をもって書かれている。

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ミトラ教

ミトラ教はイランに起源をもつといわれ、太陽神と同一視された。牛を屠ほふる儀式を特徴とした。ミトラ教側の系統の太陽神とともに密儀宗教としては例外的にローマの皇帝、軍人に崇拝者をえ、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝やフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス帝が熱心にミトラのために牛を屠ったと伝えられている。ミトラ教は唯一神でありキリスト教と競合することが多かったと思われるが、キリスト教の勝利ののち弾圧された。コンスタンティヌス1世は別系統の太陽神を早くから信じ、彼はその太陽神とキリスト教の神を一致させていったのではないかと考えられる。

フォロ・ロマーノ

アントニヌス・ピウスとファウスティナ神殿

141年(建設開始)
アントニヌス・ピウス帝が皇后ファウスティナ(大ファウスティナ)を偲び建造させた。アントニウス・ピウスが死去した後、後継のマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝によりアントニウス・ピウスと大ファウスティナを共に祀る神殿とされた。凝灰岩で造られた高床の上に建てられており、建物に刻まれた碑文にはDivo Antonino et Divae Faustinae Ex S.C.(日本語意訳:元老院から、神君アントニヌスとファウスティナに捧ぐ)と書かれていた。

コンスタンティヌスの凱旋門

コンスタンティヌスの凱旋門の装飾は古い建築物からの転用材で、南北面の円形浮き彫りはハドリアヌス帝の時代の建築物から、最上層(アティック)の8枚のパネルは176年に建設されたマルクス・アウレリウス・アントニヌスの凱旋門からはぎ取られたものである。やはり最上層にある8体の彫像と南北面のパネル、中央の門の両側にあるパネルは、トラヤヌス帝が建設したトラヤヌスのフォルムからの転用材である。8本の黄色大理石の円柱も、由来不明だが、どこかの建物からもたらされたものと考えられている。これら以外の彫刻は、コンスタンティヌスの時代のものである。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝時代の浮彫

凱旋門両正面の左右の小さな通路の上のフリーズ部分に掲げられている4対8枚の浮彫は、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝(在位 161年-180年)に献じられた未知のモニュメントから移設されたもので、マルコマンニ戦争(162年- 80年)の場面を描いたものである。

北側面の左側の浮彫

皇帝のアドヴェントス(凱旋)とフラミニア街道で祝福されるプロフェクティオ(出撃)の光景を描いたもの。

北側面左 凱旋・出撃の場面
北側面左 凱旋・出撃の場面
北側面の右側の浮彫

ラルギティオ(勝利の報奨金)を配る皇帝と椅子に座り敗者のゲルマン人代表に引見しクレメンティア(寛容性)を示す皇帝の姿を描いたもの。

北側面右 褒章・寛容の場面
北側面右 褒章・寛容の場面
南側面の左側の浮彫

南側面の右の浮彫からの続きで、皇帝が敗者のゲルマン人代表に引見する姿や捕虜を見分する姿を描いたもの。

南側面 寛容の場面
南側面 寛容の場面
南側面の右側の浮彫

演説(Adlocutio)する皇帝の姿と、豚を犠牲に捧げる儀式ルストラリオを描いたもの。

南側面右 演説・犠牲の場面
南側面右 演説・犠牲の場面

大秦国王安敦

『後漢書』西域伝には、166年、後漢の日南郡(ベトナム中部)に大秦国王安敦の使節と称するものが象牙など南海の産物を持ってやってきたとあり、安敦がマルクス・アウレリウス・アントニヌスであろうとされている。しかし、ローマからの物産が記されていないことから、ローマ皇帝からの本当の使節ではなく、インド方面もしくはローマ東方領の商人などが自称したのではないかともいわれている。

子女

アウレリウスと小ファウスティナは30年間の結婚生活で6男7女を儲けた。女児はドミティアを除いて成人したが、男児は長男ゲメルスから四男ハドリアヌスまでの四人に早世される不幸があった。

  1. 長男ゲメルス・ルキラエ(149年 – 150年):ルキッラとは双子。幼児にて病没。
  2. 次男ティトゥス・アエリウス・アントニヌス:150年以降の生まれで161年死没。
  3. 三男ティトゥス・アエリウス・アウレリウス:150年以降の生まれで161年死没。
  4. 四男ハドリアヌス:152年生まれで157年死没。
  5. 五男ティトゥス・アウレリウス・フラウィウス・アントニヌス(161年 – 165年):コンモドゥスとは双子。幼児にて病没。
  6. 六男ルキウス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニヌス(161年 – 192年):第17代ローマ皇帝
  7. 七男マルクス・アンニウス・ウェルス(162年5月以降 – 169年9月10日):副帝叙任後に病没。
  8. 長女アンニア・アウレリア・ガレリア・ファウスティナ(147年11月30日 – 165年以降):執政官グナエウス・クラウディウス・セウェルスと結婚
  9. 次女アンニア・アウレリア・ルキッラ(149年 – 182年):ゲメルス・ルキラエとは双子。共同皇帝ルキウス・ウェルスと結婚
  10. 三女ドミティア・ファウスティナ:150年以降の生まれで161年死没。
  11. 四女アンニア・アウレリア・ファディッラ(159年 – 211年以降):執政官マルクス・ペドゥカエウス・プラウティウス・クィンティッルスと結婚
  12. 五女アンニア・コルニフィキア・ファウスティナ・ミノル(160年 – 212年) :執政官マルクス・ペトロニウス・マメルティヌスと結婚
  13. 六女ウィビア・アウレリア・サビナ(170年 – 217年以前):執政官ルキウス・ブッルスと結婚

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