井上馨 A.D.1835〜A.D.1915
山口出身。外務卿、第1次伊藤内閣の外相として条約改正に尽力。欧化政策をとり、外国人判事(裁判官)任用を改正案に盛り込んで政府内外の非難を浴び、1887年に辞任した。のち農商務相・内相を歴任。以後は元老となった。
井上馨
山口出身。外務卿、第1次伊藤内閣の外相として条約改正に尽力。欧化政策をとり、外国人判事(裁判官)任用を改正案に盛り込んで政府内外の非難を浴び、1887年に辞任した。のち農商務相・内相を歴任。以後は元老となった。
鹿鳴館外交を軸にして文明開化を海外に喧伝
井上馨は高杉晋作らと外国公使襲撃計画や英国公使館の焼き討ちに参加した、長州尊攘派の志士であった。情報収集の才に長け、藩主毛利敬親から「聞多」の名を与えられた。
伊藤博文らとイギリスに渡り西欧との国力差を知ると、いち早く開国論に転じる。ロンドンで下関外国船砲撃事件を知るや急遠帰国、高杉、伊藤とともに講和の使者となった。
明治維新後は、木戸孝允を中心とした開明派グループで開化政策を推進する。政商保護政策を含めた殖産興業政策を展開、やがて「三井の大番頭」と椰楡されるほど、実業界での勢力を拡大していった。高杉率いる奇兵隊の運営資金を調達していたのが井上だった。財政面にはもともと才があったのである。
第一次伊藤内閣の外務大臣時代、井上は欧米との不平等条約の改正を視野に入れた欧化政策を進め、1883年(明治16)に鹿鳴館が落成。諸外国の使節団に近代国家をアピールする狙いであったが、しばしば催される夜会は、識者層から厳しく批判される。また、表面上の欧化主義だけでは諸外国をごまかすことはできず、条約改正もままならなかった。極端な欧化政策鹿鳴館が内外の非難を浴びた井上は辞職した。
大正まで長生きした井上は、政官に通じる財界最大の黒幕として、甥の鮎川義介(日産コンツェルン創始者)を後見するなど日本資本主義の発達をコントロールし続けた。
仮装舞踏会
『貴顕舞踏の略図』(博物館明治村蔵)。鹿鳴館では、連夜のごとく催し物が開かれたという。鹿鳴館外交は外交としては失敗したが、生活の近代化には一定の役割を果たした。
井上の鹿鳴館外交時代、伊藤博文首相官邸で催された仮装舞踏会は、「亡国の兆し」と世論の批判を浴び、勝海舟は「21箇条の時弊」として政府に抗議した。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
幕末の文化
幕府は1862(文久2)年には幕臣榎本武揚(1836〜1908)や洋書調所教官の西周(1829〜97)・津田真道(1829〜1903)をオランダに、1866(慶応2)年には中村正直(1832〜91)らをイギリスヘ留学させ、欧米諸国の政治・法制・経済を学ばせた。諸藩でも、長州藩では1863(文久3)年に井上馨(1835〜1915)・伊藤博文(1841〜1909)ら藩士5名をイギリスヘ留学させ、薩摩藩も1865(慶応元)年に五代友厚(1835〜85)・寺島宗則(1832〜93)・森有礼(1847〜89)ら19名をイギリスヘ送るなど、攘夷から開国へと政策転換するにしたがい、留学生などを外国へ派遣している。
このような動きのなかで、幕府は日本人の海外渡航の禁止を緩和し、1866(慶応2)年に学術と商業のための渡航を許可した。このほか、横浜には外国人宣教師や新聞記者が来日し、彼らを通して欧米の政治や文化が日本人に紹介された。
- 幕末の文化 – 世界の歴史まっぷ
井上馨が登場する作品
ドラマ「明成皇后」
ドラマ「明成皇后」登場人物相関図
楽天TVでも観ることができます。 明成皇后
同時代の人物
ヴィクトリア女王(1819〜1901)
イギリス王国ハノーヴァー朝第6代女王。世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王として知られ、その治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれる。在位は63年7か月にもおよぶ。