内乱の一世紀 (紀元前133年〜紀元前27年)
紀元前133年のティベリウス・グラックスと元老院の対立によるグラックスの死から、紀元前27年にオクタウィアヌスが「アウグストゥス」の称号を得て実質的に帝政がはじまるまでのおよそ紀元前1世紀の100年間をさす。
内乱の一世紀
オリエントと地中海世界
ローマ世界
内乱の1世紀
紀元前133年〜紀元前121年 グラックス兄弟の改革
兄ティベリウス・グラックスは紀元前133年に護民官となり、土地所有農民層を再建して軍事力を回復するために無産市民への土地配分を行うとした。彼はリキニウス・セクスティウス法を適用して、富者が占有している土地を没収する法を提案した。元老院は激しく反対し、これに対してティベリウスは慣例を破って改革を進めて殺害された。
紀元前123年、弟のガイウス・グラックスが護民官となり、兄の改革を再開した。彼は兄の失敗を繰り返さないため、騎士階級の支持を得ようとして元老院議員で構成されていた不当取得法廷に騎士を加え、アジア属州の徴税請負の任務を与えた。また貧民に対しては安価に穀物を提供する法をつくった。しかし元老院はまたも反撃し、ガイウスも仲間多数とともに殺された。土地の配分は中止され、富者の土地買占めはとめどなく進展し、ガイウスのたてた騎士のための法と貧民への援助策のみは存続して、ローマ社会の貧富の差は拡大するばかりであった。
紀元前112年〜紀元前106年 ユグルタ戦争
ガリア人やアフリカのヌミディア王ユグルタとのユグルタ戦争で軍事力の低下が深刻になり、下層平民出身で有能な将軍のガイウス・マリウス(大マリウス)は無産市民を志願させて訓練し、その兵士を用いてユグルタを破った。この軍制の改革(マリウスの軍制改革)は、将軍が下層民を自分の私兵として権力闘争の道具とする道を開き、一層内乱に拍車をかけた。またマリウスはガリア人と戦うために連続して5年も執政官に選ばれた。
紀元前91年〜紀元前88年 同盟市戦争
ローマの侵略戦争に協力させられていたイタリアの同盟市は、ローマ市民権を持たないために戦利品や土地の分配の利益を与えられず、次第に不満を募らせていた。平民派は彼らへの市民権付与を提案したが閥族派が反対し、ついに紀元前91年、同盟市は一斉に反乱をおこした(同盟市戦争)。ローマはイタリアの全自由民に市民権を与えて譲歩した。ローマはこの結果、全イタリアを領域下におさめることになり都市国家としての性格は失われた。しかしローマ市の民会などの機関は都市国家時代のまま続けられており、遠隔地の市民は実際には政治に参加できないという矛盾が明らかであった。
紀元前88年〜紀元前64年 ミトリダテス戦争
東方ではポントスの王ミトリダテス6世が反ローマの戦争(ミトリダテス戦争)をおこし、これを破ったグナエウス・ポンペイウスが台頭してきた。
紀元前73年〜紀元前71年 スパルタクスの反乱(第三次奴隷戦争)
グナエウス・ポンペイウス、マルクス・リキニウス・クラッススが鎮圧。
最低2〜3人の奴隷すら持てない市民は軽蔑されるほどであったという。奴隷のなかにはギリシア出身の教養のあるものもおり、彼らは主人の家で家庭教師などをつとめ、人間的な扱いを受けた。しかしイタリアやシチリアに最も顕著だったのは、大所領における集団農耕奴隷であった。シチリアでは紀元前135年と紀元前104年の2度にわたって奴隷反乱が生じ、一時は全島に広がった。奴隷はそのほか公共のため、警察や消火の任務にもついたが、市民の見世物とされた剣闘士奴隷の境遇は悲惨であった。
紀元前73年に、その剣闘士たちはトラキア人剣闘士スパルタクスに率いられてカプアの養成所を脱出し、農耕奴隷や貧農をも引き込んで反乱を起こした(第三次奴隷戦争)。一時は数万の奴隷軍がイタリア各地でローマ軍を破るほどであったが、祖国への帰還を果たすことに失敗して多くは処刑された。うちつづく奴隷の反乱は奴隷制に対するローマ人の態度を少しずつ変えていったと思われる。
紀元前1世紀のストア哲学者は奴隷への人間的な扱いを主張するようになった。最もローマ人は奴隷の解放はよく行い、ことに主人の下で管理人のような任務を務めた奴隷は経済的にも豊かになり、自由身分を容易に買いとることができた。ローマでは解放された奴隷には市民権が与えられ、社会的に成功する者も少なくなかった。ローマの奴隷制は1世紀までが最盛期で、以後はしだいに衰えるが、古代末期にいたるまで存続した。
紀元前60年〜紀元前53年 第1回三頭政治 ポンペイウス・クラッスス・カエサル
グナエウス・ポンペイウスと共に奴隷反乱を抑えた大富豪のマルクス・リキニウス・クラッスス、天才的な軍人で平民派のユリウス・カエサルも有力になり、元老院が彼らの活動を抑えようとしたために3人は紀元前60年、密約を結んで国政を彼らの手で分担した。
- ポンペイウスは東方で戦った自分の兵士への土地配分をおこなう
- カエサルはガリア統治権を委ねられる
- クラッススはパルティアとの戦争を受けもつ
クラッススは戦死したが(三頭政治崩壊)、カエサルはガリア征服(ガリア戦争)に成功して声望を高めた。
紀元前49年〜紀元前45年 ローマ内戦
元老院はポンペイウスと結んでカエサルを公敵と宣言したので、彼は部下を率いてローマを占領した。エジプトに逃れたポンペイウスは暗殺され、カエサルは東方やアフリカの元老院派をも制圧して独裁権力を確立した(紀元前46年)。
紀元前46年 独裁官カエサル
カエサルは、10年期限のディクタトル(独裁官)に選出される。
紀元前45年 終身独裁官カエサル
ムンダの戦い。かローマ内戦が事実上終結。カエサルは、終身独裁官に選出される。
紀元前44年 カエサル暗殺
カエサルの独裁政治は性急に進められたから、なお生き残っていた共和派は反感を募らせた。ことに紀元前44年にカエサルが終身の独裁官となり、またパルティア遠征をも計画して、そのために「王」の称号を得ようとしていると噂されるにいたって、カッシウス、ブルートゥスらがカエサルを暗殺した。兵士や民衆は彼の死を悲しみ、カエサル派のマルクス・アントニウスがそれを利用してカエサルを神格化し、ブルートゥスらは追放された。
紀元前43年 第2回三頭政治 アントニウス・レピドゥス・オクタウィアヌス
マルクス・アントニウスとレピドゥス、そしてカエサルの遺言でその養子とされた、遠縁で19歳のオクタウィアヌスの3人が国家再建の任を負い、第2回三頭政治が成立したが平和はもたらされず、内乱が再開された。
紀元前31年 アクティウムの海戦
にオクタウィアヌスが、東方に赴いてエジプト女王クレオパトラ7世と結んだマルクス・アントニウスに対してイタリアと西方属州から忠誠の誓いをとりつけて戦いを挑み、紀元前31年アクティウムの海戦で彼らを破り、翌年マルクス・アントニウスらは自殺してオクタウィアヌスはエジプトを併合した。こうしてローマの内乱はようやく終わった。
紀元前30年 プトレマイオス朝エジプト滅亡
オクタウィアヌスがエジプトを併合したことにより、プトレマイオス朝エジプトは滅亡した。
紀元前27年 アウグストゥス即位
オクタウィアヌスは内乱の一世紀の戦争後の処理がすむと、非常時のためゆだねられていた大権を国家に返還する姿勢を示したが、元老院は彼に最高軍司令官の称号を与え、半分の属州の総督命令権をも与えた。そして紀元前27年、彼に「アウグストゥス(尊厳者)」という神聖な意味をもつ称号をも付与した。彼は以来「インペラートル=カエサル=アウグストゥス(神(カエサル)の子)」と名乗り、共和政期の最高の政務官職のほとんどを、一部はその職権のかたちで一手におさめ、軍事・行政・司法の全分野において国政をひきうけ、属州からの税収を自らのものとした。