島津久光
島津久光(尚古集成館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

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島津久光 しまづひさみつ( A.D.1817〜A.D.1887)

島津斉彬の弟。薩摩藩主島津忠義の父。国父として藩政の実権を掌握。周旋のため入京。尊攘過激派を抑える一方、江戸に下り幕政改革を推進した。帰途、生麦事件を起こし、薩英戦争の引き金となる。のちに西郷隆盛大久保利通が台頭すると藩政をゆだねた。

島津久光

島津斉彬の弟。薩摩藩主島津忠義の父。公武合体派の中心として1862年に藩兵を率い、幕政改革の勅命を受けて江戸に赴く。独自の公武合体の立場から、文久の改革を推進した。

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公武合体を支持した薩摩藩の最高権力者

島津斉彬の異母弟。国父として藩政の実権を掌握した。1862(文久2)年、公武合体周旋のため入京。尊攘過激派を抑える一方、江戸に下り幕政改革を推進した。帰途、生麦事件を起こし、薩英戦争の引き金となる。のちに西郷隆盛や大久保利通が台頭すると藩政をゆだねた。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

近代国家の成立

開国と幕末の動乱

開港とその影響

金銀の交換比率が、外国では1:15、日本では1:5と著しい差があったため、外国人は銀貨を日本にもち込んで日本の金貨を安く手に入れ、その差額で大きな利益を得ようとした。そのため、10万両以上の金貨が海外に流出した。幕府は金貨の品位を大幅に引き下げた万延小判まんえんこばんを鋳造してこの事態を防ごうとしたが、貨幣の実質価値が下がったため物価上昇に拍車をかけることになり、下級武士や庶民の生活は著しく圧迫された。そのため貿易に対する反感が高まり、反幕府的機運とともに激しい攘夷運動がおこる一因となった。そして、外国人を襲う事件が相つぎ、1860(万延元)年、ハリスの通訳であったオランダ人ヒュースケン(Heusken, 1832〜61)が江戸の三田で薩摩藩の浪士に斬り殺され、さらに翌年、高輪東禅寺のイギリス仮公使館が水戸脱藩士の襲撃を受け館員が負傷した東禅寺事件、1862(文久2)年には、神奈川宿に近い生麦村で、江戸から帰る途中の島津久光しまづひさみつ(1817〜87)の行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩士が斬った生麦事件、さらに同じ年の暮れ、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を高杉晋作(1839〜67)·久坂玄瑞くさかげんずい(1840〜64)らが襲って焼いたイギリス公使館焼打ち事件などがおこっている。生麦事件は、のちに薩英戦争の原因となった。

公武合体と尊攘運動

坂下門外の変で幕府による公武合体策は頓挫したが、11代将軍家斉の夫人が島津重豪しまづしげひで(1745〜1833)の子で近衛家の養女であったことなどから知られるように、朝廷·幕府の双方につながりの深い外様の薩摩藩が、独自の公武合体策の実現に動いた。藩主の父島津久光しまづひさみつは1862(文久2)年、寺田屋事件などで藩内の尊王攘夷派をおさえつつ、勅使大原重徳おおはらしげとみ(1801〜79)とともに江戸に赴き、幕政の改革を要求した。

尊王攘夷運動 八月十八日の政変
尊王攘夷運動の展開地図 ©世界の歴史まっぷ

幕府は薩摩藩の意向を入れて、松平慶永を政事総裁職に、徳川慶喜を将軍後見職に任命した。また、京都所司代などを指揮して京都の治安維持にあたる京都守護職を新設して、会津藩主松平容保まつだいらかたもり(1835〜93)をこれに任命し、あわせて参勤交代を3年に1回に緩和し、西洋式軍制の採用、安政の大獄以来の処罰者の赦免など、文久の改革と呼ばれる改革を行った。

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