徳川家康 とくがわいえやす(A.D.1542〜A.D.1616) 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。江戸幕府の初代征夷大将軍(在位1603〜1605)。幼名竹千代。江戸幕府を創設し、駿府に引退後も大御所として実権を掌握。関ケ原の戦いに勝利し、1世紀以上にもわたった戦国時代を終わらせて江戸に幕府を開く。続いて大坂の陣で豊臣家を滅ばし、元和優武を実現。以後約260年間におよぶ戦乱のない時代をつくった。
目次
徳川家康
江戸幕府の初代征夷大将軍
(在位1603〜1605)
天下を狙う秀吉と虚々実々の駆け引き展開
秀吉に臣従するが影響力は保持
徳川家康は山崎の戦い後、領国駿河にいて、天下人への道を邁進する豊臣秀吉の出方をうかがっていた。そこに織田信長の次男の織田信雄が助力を請うてきた。「ここらで一度、秀吉を叩いておく必要があるだろう」家康は信長の遺児を助けるという大義名分のもとに出兵、小牧・長久手の戦いが開始される。本能寺の変後の伊賀越えのとき、途上の村の地主たちに金を握らせ落人狩りを阻んだのが豪商茶屋四郎次郎。茶屋家はその後、徳川家の御用商人として幕末まで重用される。
徳川家康は豊臣秀吉軍を長久手で散々に打ち破るが、致命的な打撃を与えるにはいたらず、戦いは膠着状態となる。戦いが長引くと天下統一が困難になると判断した秀吉は、家康との正面決戦をさけるべく信雄と和睦。大義を失った家康は撤退した。
しかし、両者は完全に和睦したわけではなかった。そんな中、家康を驚愕させる事件が起こる。重臣の石川数正が大坂へ出奔したのだ。家中の機密が秀吉に漏れてしまつたわけで、家康は軍制の転換などを余儀なくされる。上洛要請になかなか応じない家康を、なんとしても懐柔したい秀吉は、他家に嫁いでいた妹の朝日姫を離縁させ、家康の正室に差し出す。さらに母の大政所まで人質に送ってきたため、これ以上は引き延ばせないと判断した家康は上洛。小牧。長久手から2年を経て、ついに秀吉に臣従したのだった。かくして家康と秀吉の戦いは政略上では秀吉の勝利に終わった。しかし、家康もまた簡単に屈しなかつたことを周囲に示すことで、ゆるぎない地位を確保することに成功。秀吉の死後、天下取りへと動き出すこととなる
参考
ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで時代背景
天下分け目の戦い天下を狙う家康、覇王への道

豊臣秀吉死後、政権掌握をめぐり、徳川家康派(東軍)と石田三成を中心とする豊臣派(西軍)が争った。
豊臣秀吉が死んだとき、子の豊臣秀頼はまだ六歳だった。「五奉行一の実力者」などといわれた石田三成は、五大老・五奉行が秀頼を盛り立てていけば、豊臣政権の世襲でやっていけると考えた。ところが、かつて、織田信長の死後、信長の遺児たちを押しのけて天下を奪い取っていった豊臣秀吉のことを見ていた徳川家康は、「今度は自分の番」と考えたのである。ここに、「天下はまわりもち」と考える徳川家康と、豊臣政権の秀頼への世襲を既定路線とみる三成との対立は必然的なものとなった。実は、この対立の火種となるものは、すでに豊臣秀吉の生前からくすぶっていたのである。秀吉家臣団の武功派、すなわち分断派と、吏僚派、すなわち文官派の対立である。家康はこの両派の対立を上手に使いながら豊臣政権の簒奪に動き始めた。これが関ヶ原の戦いということになる。 関ケ原の戦いは、結果的にみると、1600年(慶長5)9月15日の1日で決着がついている。そのため、「なんで三成は負けるとわかっているような戦いに突っっ込こんでいったのか」と、三成非難の声もあがっているのは事実である。しかし、これは結果であって、東軍・西軍、それぞれに与した武将たちは、それぞれの陣営が勝つと思って参陣しており、実際に戦っている。ただ、家康方の根まわしが勝っていたということになろう。このあと、家康は念願の征夷大将軍に任命され、幕府を開くことになるが、幕藩体制の基礎を固めるうえでとくに大きな意味をもったのが、関ヶ原の戦い後の論功行賞とセットで行われた大名の配置であった。 西軍に属した大名の改易・減封、東軍に属した大名の加増・転封が進められ、その結果、反徳川の諸大名の力が極端にそがれ、親徳川の大名の力が増幅されることになり、反徳川と親徳川の力関係が、それまでのような相対的なものではなく、絶対的なものとなっていったのである。とくに、新たに創出された親藩・譜代大名が、こののち、徳川幕藩体制に大きな位置を占めることとなる。ところが、徳川家康は、せっかく手にした征夷大将軍の職をたった2年で子の徳川秀忠に譲っている。ふつうに考えれば、若い頃から苦労に苦労を重ねて得た将軍職である。死ぬまでその地位にしがみつきたいところであろう。しかし、家康はあっさり2年で譲ってしまった。政権に執着しなかったわけではない。むしろ逆で、徳川政権永続のための政権委譲だったのである。 周知のように、大坂城には秀頼と淀殿がいた。大坂方では家康の征夷大将軍就任は、秀頼が成人するまでの″つなぎ″と考えていたらしい。成人して、秀吉のときのように関白となるのか、あるいは家康の孫娘を妻としている秀頼がつぎの将軍に就くと考えていたのかわからないという側面があるが、いずれにせよ、家康が死ねば、政権はまた豊臣方に戻ってくるという期待を抱いていたことは確かである。つまり、このときの将軍交代劇は、そうした豊臣方が抱いていた期待をつぶす狙いもあったことになる。したがって、そのあと、家康が大御所となって駿府城に入るわけであるが、その駿府城は、大坂方との戦いとなったき、 江戸に向かって攻め上る豊臣軍をそこでくいとめるための防御の城としての意味あいももたせていた。それまで駿府の町中を乱流していた安倍川の流れを一つにまとめて駿府城下の西に流し、自然の堀としているのである。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、将来の禍根となる豊臣家を滅ぼすことを決意。圧倒的兵力を率いて総攻撃をしかける。
そして、長期政権のための最後の総仕上げとして取り組んだのが大坂の陣であった。豊臣家のような大名を残しておくことは得策ではなく、方広寺の鐘銘に難くせをつけ挑発したのもそのためだったわけである。長き戦乱の世を収めた関ヶ原の戦いと大坂の陣
豊臣秀吉の死後わずか2年で勃発した関ヶ原の戦い
1600年(慶長5)7月、徳川家康は下野国小山にいた。会津の上杉攻めに向かう途上である。そこに「石田三成、挙兵す」の報が届く。家康はほくそ笑んだ。売られた喧嘩なら大義も立つ。だが、この戦いは家康にとっても賭けだった。自分が率いている軍団は自分直属の兵ではない。諸大名からなる連合軍である。中には豊臣恩顧の大名も多く連ねている。今は自分に従っているが、いざ合戦となれば、どちらにつくかわからない。事実上、豊臣家当主の豊臣秀頼とを擁しているのは三成である。家康は急ぎ、諸将を本陣に集める。「大坂にいる皆々の妻子は、三成の人質となった。妻子の安全を図るために大坂に帰るのも、皆々の自由である」。三成挙兵を諸将に告げ、大坂への帰参を促すようにいった。そして、「妻子の安全を確保したのち、志あれば、江戸に参られたい」と続けた。 この家康の言葉に対して、豊臣恩顧の大名である福島正則が、家康とともに戦うことを宣言。三成憎しで集まった諸将の結束は固まり、家康は反転して急ぎ兵を一戻した。三成討伐に軍議が固まるや、ただちに福島・池田輝政のの先発隊が出陣。道中を強行軍で進み、またたくまに福島の居城であった清洲城に到着した。あとは家康の号令を待つばかりとなる。後世、天下分け目の合戦といわれる関ケ原の戦いまで、あと1か月ほどである。信康の死:織田信長の命によって、家康は武田勝頼と内通したという嫌疑で嫡男・信康を自害に追い込んだが、信康と対立した家康がそう仕組んだという説もある。
秀吉の死がもたらした人生の転機
徳川家康の天下を決定づけた関ケ原の戦いは、突然起こったものではない。そこにいたるまでにいくつかの伏線があった。家康は朝鮮出兵で名護屋には布陣したが、奥州の防衛と関東経営を口実に渡海せず、兵力・財力ともに最小限の被害で食い止めることができた。さらに、朝鮮出兵に不満を覚えた大名たちを取り込むことにも成功する。 1598年(慶長3)、2度目の朝鮮出兵のさなか豊臣秀吉が没すると、五大老筆頭として、家康はたちまち政治の主導権を握った。もっとも、五大老のうち11歳下の毛利輝元と31歳下の字喜多秀家はともかく、前田利家は家康の4歳年上、小早川隆景は9歳年上で、この2人の意見は無視するわけにはいかない。利家は豊臣家と徳川家の緩衝役となっていた人物で、家康に対抗できうる、数少ない大名のひとりであった。ところが、隆景は秀吉よりも先に死去、利家も秀吉を追うように死んでしまった。利家の死は、豊臣家にとっては痛恨事だったが、家康にとっては天佑であった。遺言:徳川家康は死の床で家臣や一族に「天下は一人の天下ではない。秀忠に非道があれば変わってやれ」と伝えた。一方で秀忠には「お前に背く者がいれば一門・譜代であろうと誅殺せよ」といったという。
豊臣政権内では、武断派と文官派による対立が起こっていた。福島正則や加藤清正らの武断派には、自ら戦い、命をかけて功なり名を遂げたという強い白負がある。戦功もなく重用される石田三成ら文官派がおもしろくらない。秀吉死後、豊臣家内部の亀裂は顕著になり、家康はそこをついて揺さぶりをかけた。武断派を懐柔することで石田三成を襲わせたのである。三成は蟄居せざるをえなくなる。
家康は秀吉の遺児である豊臣秀頼との居城大阪城西の丸に入り、ますますその権勢を高めていく。家康に近づく人名もいたが、もちろん家康を快く思わない者もいた。それが三成らであり、会津120万石の太守上杉景勝も同調者であった。景勝は家康からの上洛命令を拒絶し、家康への反抗を示す。家康は景勝が領内の城を改修したことを口実に、謀反の疑いありとして、上杉攻めを宣言。討伐軍を編成すると、そのまま出陣した。
人質仲間:家康が今川家の人質だった頃、人質として隣の屋敷にいtのが北条氏規。氏規は小田原北条氏三代当主・氏康の五男。小田原攻めの際、氏規は幼馴染みのよしみで家康を頼り、助命された。
三成は、家康が大坂を留守にしている今こそ好機であるとして、ついに兵を挙げた。これに対し、家康の号令のもと、清洲にいた先発隊が三成方の岐阜城を攻略、家康は3万余の旗本勢を率いて、江戸を進発、岐阜赤坂を本営とした。1600年9月15日、井伊直政・松平忠吉隊と宇喜多秀家隊との銃撃によって、ついに東西両軍は衝突した。石田隊の予想以上の奮闘によって一時は西軍有利とまでされたが、かねてより内応していた小早川秀秋の裏切りにより戦況は一変、西軍は総崩れとなつて勝敗は決した。
家康は戦後の論功行賞を大々的に行った。宇喜多秀家や長宗我部盛親など敵対した諸大名は没落し、三河以来の譜代の家臣にはその功に報い、黒田長政や山内一豊など味方についた諸大名は大きく加増され、新体制がここに確立された。家康の権勢を阻む者はすでになく、諸大名は完全に家康が天下人になったことを認めた。
家康に残された最後の大仕事
天下の趨勢は決したが、大坂城には秀頼と淀殿が残っていた。関ケ原の戦いののち、畿内の一大名に転落したとはいえ、豊臣家の家名はやはり脅威である。家康は朝廷の権威を借り、征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開くことで、武門の正当な棟梁になった。主従関係は逆転し、家康は常に豊臣家に対して大義を振りかざせる地位を手に入れた。1603年(慶長8)、家康62歳のときである。そして天下は徳川家が世襲することを世間に知らしめるために、わずか2年で将軍職を息子の徳川秀忠に譲り、自身は駿府城に隠居した。豊臣家に政権を戻さないことを明確に示したのである。しかし、豊臣家は一向に徳川に臣従しようとしない。叱られた家康:藤原惺窩の講義を受けたとき、平服で現れた家康を見た惺窩は「聖天子の治国平天下の法則を講じるというのに、何ぞその服装は!」と怒鳴りつけた。さすがの家康も着替えに戻ったそうだ。
家康は、豊臣家を完全に潰す以外にはないと考え、豊臣家の莫大な資産を寺社建立などで消耗させながら、徐々に圧力を加えていった。そして、秀頼が再建した方広寺大仏殿の梵鐘の鐘銘に、「国家安康」「君臣豊楽」とあったのを、「家康を二分し、豊臣の繁栄を祈るものである」と言いがかりをつけ、大坂の陣を引き起こした。
1614年11月、家康は20万もの大軍で大坂城を包囲した。対する大坂方の軍勢は10万余。しかし、大坂城は秀吉が築いた当代随一の要害の城で容易に落ちない。家康の側近である僧侶の金地院崇伝が「豊臣軍は日雇同然」とののしった大坂方を、数に勝る徳川方が落とせないようでは世評に響く。家康は講和にふみきった。しかし、家康は講和の約定を違えて堀を埋めてしまうという抜かりのない策略のあと、翌年、再び戦を仕掛けた。
いくら堅固とはいえ、堀を埋められては大坂城は丸裸も同然である。家康は「あのような小せがれを相手に鎧も兜もいらん」といって、平服同然の姿で臨んだともいわれる。3日にわたる激戦の末、大坂城は落城。秀頼と淀殿は自害し、豊臣家はついに滅亡した。
家康はその翌年、75年の生涯を閉じた。生前には隠居後も大御所として「武家諸法度」「禁中並公家諸法度禁中」を制定し、幕府体制の基礎固めを行った。
織田信長が壊した世界を建て直したのが豊臣秀吉だったとすれば、大坂の陣で戦乱の時代を終わらせた徳川家康は、総仕上げ役であった。
家康と本草学:大御所として駿府に入った家康は、久能山の麓に100種類以上の薬草を栽培する薬園をつくり、自分で調薬するほと本草にのめり込んでいた。長寿の秘訣であったのかもしれない。
参考
ビジュアル版 日本史1000人 下巻 -関ケ原の戦いから太平洋戦争の終結まで幕藩体制の確立
織豊政権
豊臣秀吉の全国統一
織田信長の統一事業
東本願寺と西本願寺
織田信長の石山本願寺攻めに際し、石山からの退去を決定した顕如に対し、長男の教如(1558〜1614)は徹底抗戦を主張して父顕如と対立した。その後、両者は和解したもののこの事件は教団内における教如の立場を微妙なものにした。本願寺は豊臣秀吉のときに京都堀川に移されたが(西本願寺)、顕如が死去すると教如は本願寺門主の座を弟の准如(1577〜1630)にゆずり、隠退した。その後、教如には徳川家康から京都七条烏丸に別の寺が与えられ(東本願寺)、ここに本願寺は東西両派にわかれることになった。現在、西本願寺は真宗本願寺派本山として俗に「お西」と呼ばれ、東本願寺は真宗大谷派本山として俗に「お東」と呼ばれている。幕藩体制の成立
江戸幕府の成立
かつて織田信長と同盟し、東海地方に勢力をふるった徳川家康(1542〜1616)は、豊臣政権にくみし、1590(天正18)年に北条氏滅亡後の関東に移封されて、約250万石の領地を支配する大名となった。江戸を拠点にした家康は、江戸城の拡大・整備や神田上水をひくなどの町づくりを進めた。家臣団の配置では、小身の者には江戸城近くに知行地を与え、万石以上の大身は領国周辺部に配置して、江戸の防衛と領国全体の安定を保った。こうして領国経営を充実させる一方、豊臣政権の五大老の筆頭として重きをなし、文禄・慶長の役にも出兵せず、力を蓄えた。参考
同時代の人物
アンリ4世(フランス王)
ブルボン朝初代フランス王。ナバラ国王エンリケ3世。アンリ3世でヴァロワ家が断絶し、ブルボン家のエンリケ3世がアンリ4世(フランス王)として即位した。改宗と「ナントの王令」で宗教戦争を終結。疲弊した国に平和と統一を取り戻したが、アンリ4世は狂信的なカトリック教徒によって刺殺された。