明(王朝)(
A.D.1368〜A.D.1644)
漢民族の中国の王朝。紅巾の乱で頭角を現した朱元璋が1368年、金陵(のちの南京)を都として皇帝位につき、元号を洪武と定めて明を建国(洪武帝)。元朝の勢力をモンゴル高原に追いやり(北元)、江南を根拠地として中国統一した、ただ一つの王朝。永楽帝の代に南京から北京へ遷都、紫禁城を造営し全盛期となる。1644年、李自成の乱により滅亡。
明(王朝)
アジア諸地域の繁栄
東アジア・東南アジア世界の動向
14世紀の東アジア
ヨーロッパにおける気候の寒冷化や飢饉、さらには黒死病(ペスト)の流行などに見られるように、14世紀に入ると世界各地では自然災害や疫病などが多発した。
中国でもこのころ政権内部の内紛が続き、さらには自然災害や飢饉が多発して、元朝の支配にかげりが見え始めた。当時元朝では、貴族の贅沢な宮廷生活やチベット仏教への熱狂的信仰のために莫大な経費を必要とし、国家財政が窮乏した。その対策として元朝は交鈔を濫発したので、物価の騰貴を招き、民衆の生活が次第に苦しめられていった。これに加え元朝は専売制度の強化を行い、それが黄河の氾濫をはじめとする自然災害や飢饉と相まって民衆の生活を苦しめた結果、生活に困窮した農民は各地で暴動をおこした。この農民反乱はやがて全国に波及していき、中でも宋代から始まる弥勒仏下生を中心とする仏教系結社である白蓮教を主体とした紅巾の乱(白蓮教徒の乱)がもっとも大規模なものであった。
紅巾の乱の一武将で、安徽省濠州の貧農出身であり、かつて僧侶でもあった朱元璋は、次第に頭角を現していき、儒学の素養を持つ知識人の協力を得ながら江南地方の穀倉地帯を手に入れ、その経済力をもって周辺地域の群雄を勢力下に吸収していった。彼は1368年、金陵(のちの南京)を都として皇帝位につき、元号を洪武と定めて明(1368〜1644)を建国した(洪武帝 太祖)。洪武帝はその年、大都(現北京)に残る元朝を攻めるべく軍を派遣し、ついに元の勢力をモンゴル高原に追いやった(北元・韃靼)。さらに1381年には、雲南地方に残るモンゴル勢力を一掃した。ここに明朝は全国統一を完了したのであり、江南を根拠地として中国統一した、ただ一つの王朝である。
明初の政治
明朝の建国によって、中国は約240年ぶりに漢族の統一国家として復活した。洪武帝は、そうした民衆の民族意識を利用しながら、支配体制の確立と国土の再建に努めた。
明では唐代の府兵制にならった衛所制をおこなった。衛所制は、軍戸ごとに徴発された正丁(成人)112人をもって百戸所を構成し、10の百戸を千戸所、5つの千戸所(5600人)を1衛とし、それぞれの省の都指揮使に属し、府・州・県に配置された。また、衛所内には屯田をおいて、自給自足の兵農一致をはかった。これらの軍戸は世襲であった。
このほか洪武帝は、朱子学( 宋代の文化)を官学として科挙制を整え、またそれまで行われていた唐律にかえて新たに明律・明令を制定した。
対外的には、中国人の海外渡航を厳禁して、民間貿易を制限するとともに、朝貢貿易以外の外国との取引を禁止した。こうした海禁政策は明代中期以後まで続き、倭寇(後期倭寇)の発生を引き起こす原因となった。
里甲制
里甲制は、明を立てた朱元璋が実施した、村落の自治組織。110戸を1里とし、その中で経済的にも裕福な富戸10戸を選んで里長戸とし、残りの100戸をさらに10の甲(1甲10戸)に分け、各甲の中から甲首戸1名を置いた。里長戸と甲首戸は毎年輪番で選ばれる仕組みになっており(10年で一巡)、里甲内部の徴税や治安維持に当たった。
賦役黄冊と魚鱗図冊
賦役黄冊は、里甲制を実施するにあたり作成された戸籍簿であると同時に、租税を徴収するための基本台帳も兼ねた。10年ごとに各里の里長、甲首が作成し、州・県・府・布政使をへて戸部に提出された。黄冊とは、黄色の紙を使用したためにそう呼ばれる。
魚鱗図冊は、宋代以降、一部の地域で作成されていた土地台帳で、明初になって各地で作成された。一区画ごとに土地の所有者や税の負担が記入されているが、その形が魚の鱗に似ていることから、この名がつけられた。
靖難の役と永楽帝の治
洪武帝には生涯に26人の男子がいたが、彼らすべてを封じ、国内の重要拠点に配置して諸王とし、明王室の守りとした。これら諸王は、ほとんど実権は持っていなかったが、ただ北辺のモンゴルに対する備えから、北平(のちの北京)など数カ所の諸王には軍事権などを与えていた。
洪武帝は、後継者である皇太子の朱標が死去すると、皇太孫の朱允炆を後継者に定めた。これが建文帝(恵帝 位1398〜1402)である。即位後、建文帝は側近の意見に従い各地の諸王の権限を削減する諸王抑圧策をとった。これに反抗したのが、当時諸王の中で最大の勢力を誇っていた北平の燕王朱棣である。
燕王は直ちに軍事行動をおこし、甥の建文帝をあやまらせた側近を排除しようと、「君(建文帝)側の奸をのぞいて帝室の難を靖んず」をスローガンに北平で挙兵し(靖難の役 1399〜1402)、金陵を攻略してここで帝位についた(永楽帝 成祖 位1402〜1424)。
永楽帝は宦官を重く用い、新たに内閣大学士を設置して皇帝の顧問とし、重要な政務に参加させた。またモンゴル族に対抗するため、1421年、首都を金陵から自らの根拠地であった北平に遷し、ここを北京、金陵を南京と改称した。
さらに江南と北京とを結ぶ運河を整え、また(万里の長城)を修築補修して北方民族の南下に備えた。
鄭和の南海遠征
鄭和は、雲南省晋寧県昆陽の代々イスラーム教徒の家に生まれた。
本姓は馬氏。燕王(のちの永楽帝)に仕え、靖難の役で功績をあげ、内官太鑑(宦官長官)に任ぜられ、鄭和の名を賜った。
1405年〜1431年までの間、7回にわたり大艦隊を率いて南海遠征を行なった。第3次までは、東南アジア・インド何西岸などに至り、第4次以降はペルシア湾・アラビア、さらにアフリカ東岸にまで達した。
鄭和もイスラーム教徒であったことから、彼はその部下をイスラーム教の聖地メッカに巡礼させたという。
朝貢貿易
みずからを世界の中心であると考えていた中国は、周辺諸国を文化的に遅れた夷狄とみなし(中華思想)、このため周辺諸国との交易は、中国君主の徳をしたった諸国が「貢物」を献上し、君主はこれにこたえて「回賜」を与えるという、恩恵的な朝貢形式が行われていた。朝貢は中国君主が認めた諸国に限り、さまざまな制限が設けられているのが常であった。明も、日本や南海諸国に対して勘合符を与えて朝貢貿易を行なったが、16世紀から来航したポルトガルをはじめ、スペインなどのヨーロッパ諸国に対しても、朝貢貿易の形式を強制した。続く清朝もヨーロッパ諸国との交易を、従属国からの朝貢と同一であるとの姿勢を崩さず、来航地・品目・数量などを一方的に制限した。こうした交易体制は、19世紀の南京条約まで続けられた。
明朝の朝貢世界
15世紀末のヨーロッパで始まった大航海時代の到来により、次第に世界の一体化が進んだ。16世紀になると諸大陸を結びつけた長距離交易が活発化し、世界各地で国際商業がさかんに展開された。こうした情勢は、16世紀のアジアにおける明朝を中心とした朝貢体制を動揺させることとなった。
インドシナ半島では、14世紀後半メナム川下流にタイ人のアユタヤ朝(1351〜1767)が建国された。ミャンマーでは最初の統一王朝であるパガン朝が1287年に元朝の侵入をうけて滅亡したあと、しばらく分裂状態が続いた。しだいにミャンマー人の勢力が強大となり、16世紀にミャンマー人がトゥングー朝(タウングー王朝 1531〜1752)をたてた。アユタヤ朝とトゥングー朝はともに仏教国として栄えるとともに、港市国家として発展してきたアユタヤ朝は16世紀末には南シナ海とベンガル湾との通商ルートの結節点に位置する地の利を生かした国際的な中継港として知られるようになり、またトゥングー朝も農業と海上貿易によって繁栄した。
中国周辺でも16世紀になると国際商業が繁栄した。15世紀後半のモンゴルでは、勢力の衰えたオイラト部にかわり、ダヤン・ハン(位1487〜1524)の出現によってモンゴル東部のタタール部が勢力をのばしてきた。16世紀に、その孫のアルタン・ハン(1507〜1582)が出現すると、その勢力はさらに増大していき、連年明の北辺を脅かし、1550年には北京を包囲した。また彼は中国西部の青海やチベットをもその勢力下に入れていった。
北方民族の侵入に苦しめられていた明は、南方海上でも倭寇の被害に悩まされていた。倭寇は武装した商人や海賊からなり、すでに元代からみられた。当時はおもに高麗の南岸や中国江南の沿岸を略奪していた。明は国初から倭寇の対策に苦慮し、洪武帝は日本の室町幕府にその対処を求めた。将軍足利義満は、朝貢貿易の利益を目的に、1404年に遣明船を派遣して勘合貿易を開始し、このため倭寇は減少した(前期倭寇)。ところが16世紀になり、室町幕府の勢力が衰えると、再び倭寇が急増した。これに加え、明では永楽帝以後、海禁政策が厳しくなり、民間貿易がおこなわれなくなった。これに不満をもつ中国人が日本人と結託して、さかんに密貿易や海賊行為をおこなうようになった(後期倭寇)。とりわけ嘉靖年間(1521〜1566)にはもっとも多くの倭寇が発生し、その絶頂期を迎えた。こうした増大する倭寇に対して、明は戚継光(?〜1587)を派遣して討伐させると、ようやく倭寇の勢いも衰えた。また日本でも豊臣秀吉が天下を統一し、倭寇を厳重に取り締まったので、16世紀末にはまったくその跡を絶った。
このように16世紀の明朝は北辺と東南海岸とにおいて苦しめられたが(北虜南倭)、これは貿易の利益を求める人々が明の統制政策を打開しようとする動きであり、後期倭寇が象徴しているように、この動きには多くの中国人も参加していた。
こうした新たな動きをうけて明朝は16世紀後半、海禁をゆるめざるをえなくなった。その結果、当時急速に生産量をのばしていた日本銀、ついでフィリピンのマニラを拠点としたスペインによってアメリカ大陸で採掘されたメキシコ銀(墨銀)が貿易の代償として大量に中国に運ばれた。
スペイン:1571年に、フィリピンにマニラ市を建設した。スペインはポルトガルの妨害で直接中国と交易できなかったので、マニラに来航した福建の商人をつうじて絹などの商品を買い付け、その代価をメキシコのアカプルコから運びこんだメキシコ銀(墨銀)で支払った。こうした交易をアカプルコ貿易という。
こうして明の中期以降、国内における銀の流通はいっそうさかんとなり、貨幣経済がすみずみまで浸透していった。これをうけて中国の貿易商人たちは、東南アジア各地に進出していき中国人町を建設していった。
朝貢体制の動揺
琉球
明朝への重要な朝貢国のひとつが琉球であった。現在の沖縄県を中国で「琉球」と呼ぶようになったのは洪武帝時代からである。当時の琉球には北山・中山・南山の3国が鼎立しており、それぞれが明に朝貢していた。15世紀初めに中山王尚氏(第一尚氏 尚巴志王)が他の2国を統合(琉球王国)して琉球の代表となり、中国文化を取り入れる一方で、明への朝貢を続け、それによって得た物資を用いて他国との交易を行なった。その結果、琉球は東シナ海と南シナ海とを結ぶ交易の要となっていった。
マラッカ王国
14世紀末ころマレー半島西南部に建国されたマラッカ王国は、当時タイのアユタヤ王国に従属していたが、15世紀前半に鄭和の南海遠征が行われるとその拠点となり、15世紀半ばには国王がイスラーム教へ改宗してイスラーム世界との結びつきを強めていった。その後マラッカ王国はアユタヤ王国から独立し、明への朝貢貿易を継続しながら、インド洋と東南アジアとの中継地点である地の利を活かし、15世紀中頃以降16世紀初期にポルトガルの進攻を受けてを受けて滅亡するまでの間、ジャワのマジャパヒト公国にかわって東南アジアにおける最大の貿易拠点となった。
朝鮮
李氏朝鮮では15世紀初めの第3代太宗(朝鮮)の時、明の制度を取り入れて集権官僚国家体制を整えた。さらに高麗時代からの仏教勢力を排除して朱子学を国家の指導理念とした。次の第4代世宗(朝鮮)は、当時さかんとなった金属活字による印刷術の発達によって、高麗王朝の歴史書である『高麗史』をはじめとして多くの書籍を出版させた。また世宗は、朝鮮語を漢字で表記するのには不便があったので、1446年、新しい音標文字である訓民正音(19世紀以降ハングル文字と改称)を制定し、文化の普及と発展に役立てた。
日本
明朝は日本の室町幕府に対して倭寇の取り締まりを要求した。さらに明は1402年、第3代将軍足利義満に国書を与え、「日本国王」に封じた。これを受けて義満は、1404年に遣明船を派遣して勘合貿易を開始した。このため、倭寇の活動は減少した。
ベトナム
ベトナムでは陳朝が国内の混乱で滅ぶと、永楽帝は陳朝復興を口実に軍を派遣してベトナムを一時支配した。しかしベトナム人は抵抗を続け、陳朝の武将であった黎利は明軍を破ることに成功し、1428年ハノイ(東京トンキン)において即位し(太祖 位1428〜1433)、黎朝(1428〜1527, 1532〜1789)を開いて国号を大越とした。明から独立した黎朝ではあったが、改めて明と朝貢関係を結び、朱子学をはじめとして明の制度を取り入れ、支配を確かなものとしていった。
モンゴル
1368年、洪武帝によって中国を追われた元朝の最後の皇帝である順帝(トゴン・テムル)は、モンゴル高原に退き、その後、一族は北元(1371〜1388)として残った。北元は、高麗や雲南地方に残るモンゴル勢力と連絡して中国の奪回をはかった。しかし順帝の子昭宗(アユルシリダラ)のとき、洪武帝の攻撃を受けて1388年に滅んだ。
その後、明の内部では靖難の役がおこり、そのためモンゴルに対する圧力が弱まると、モンゴルでは東に北元系のタタール部、西北にオイラト部がおこり、互いに勢力を争った。両者の対立をうまく助長してモンゴルの統一を妨げようとした永楽帝は、5回のモンゴル遠征を行なった(1410〜1424)。最後の遠征の帰還途中に永楽帝は死亡するが、このモンゴル親政は一時的な効果を上げた。
ところが、15世紀中ごろオイラト部にはエセン・ハーン(?〜1454)が現れ、全モンゴルを従え、強大な勢力を背景になんかして明に交易を要求し、北辺に侵入した。このため第6代正統帝(英宗(明)位: 1435〜1449, 1457〜1464)は、自ら軍を指揮して討伐に向かったが、明軍は土木堡で全滅し、正統帝は捕虜となった(土木の変 1449)。
明は新たに弟を即位させ(景泰帝 位: 1449〜1457)、北京防衛に努めた。エセン・ハーンはその後北京まで迫ったが、容易に落とせないと見ると和議を結び、正統帝を釈放して引き上げた。
正統帝の復位を巡って朝廷内部は対立したので、明の対外政策は守勢に転じ、北方の長城(万里の長城)を改修してモンゴルの侵入に備えるなど、その政策はますます消極化していった。
明後期の社会と文化
商工業の発達
国際商業の活発化は、中国国内における商工業の発達を促すこととなった。
長江下流域の穀倉地帯の経済力を背景に全国統一を成し遂げた洪武帝は当初、元来の混乱で荒廃した土地の私有を認めたり、労働人口が不足している土地に農民を移住させたりして、耕地の拡大と農業生産力の回復に力を注いだ。また桑や綿花を植えることなども奨励した。そしてその一方で奴隷や佃戸(小作農)をもつ大地主や富豪を弾圧したが、大地主などへの帰省は一部にとどまり、依然として長江下流域の江南を中心として大土地所有者と佃戸制は存続した。
品種改良など農業技術の進歩にともない、華中・華南では米の二期作もおこなわれ、長江下流域の江南デルタ地帯は稲作の一大中心地となった。また15〜16世紀ころから、長江下流の農村や都市では綿織物や生糸などの家内制手工業がさかんとなっていった。綿花は唐代ころから栽培され、元代には各地に広まっていた。明朝では、光武帝の奨励もあって綿花栽培は中国全土に普及したが、とくには中期以降、江南デルタ地帯の松江を中心に飛躍的な発展をとげた。また同じころ、蘇州や杭州を中心に絹織物もさかんとなった。
長江下流域で綿織物や絹織物がさかんになったのは、宋代以降この地が「蘇湖(江浙熟せば天下足る」といわれた中国最大の穀倉地帯であるため、重い税や小作料を負担させられた農民が、その支払いのために副業としたことに始まる。とくに木綿は大衆の衣料として需要が高まり、そこからえられる収入は農民の家計を助けた。さらに清代には南京木綿として、広州からヨーロッパへ、またキャフタを通じてロシアへ、それぞれ輸出された。
綿織物や絹織物が普及したので、その原料となる綿花と養蚕に必要な桑の栽培が必要となった。このため、水稲栽培をやめて、綿花や桑の栽培にきりかえるところが増加した。こうして明初以来、稲作の中心地であった長江下流域の江南デルタでは、しだいに水田が減った。また都市には、手工業の発展にともなって多量の非農民人口が流入したことから、江南の食料は他の地域に頼らざるをえなくなった。こうしたことから16世紀初めには、湖広(現在の湖南省・湖北省)を中心とした長江中流域が新たな穀倉地帯として重要な位置を占めることになり、ついには「湖広熱すれば天下足る」とまでいわれるようになった。
こうして明朝の中期以降、江南の上海・松江の綿織物、蘇州の絹織物などを先頭にして手工業が目覚ましい発展をとげた。とくに江南の諸都市では手工業の規模が大きくなり、なかにはマニュファクチュア(工場制手工業)的生産形態もみられ、商品が多量に生産された。また四川や福建の茶の栽培、景徳鎮の陶磁器などをはじめ、諸地域でも産業が発展した。各地で生産された商品は、国内の需要の増加や流通の拡大によって全国各地に運ばれた。さらに、当時来航していたポルトガルやスペインの商人たちによって、生糸や蘇州の絹織物、景徳鎮の陶磁器などは代表的な国際商品として日本やアメリカ大陸、ヨーロッパに輸出された。
彼らはまた一方で、金融業や運送業、さらにはさまざまな業種にも進出し、海外貿易を営む者も現れた。彼らは同郷出身者や同業者との連帯や共通の利益を図るために団体組織を結成し、共同の施設を設けた。この共同施設を会館・公所といい、北京や南京をはじめ主要な都市に設けられた。
王直
安徽省徽州県出身の王直は、はじめ塩商であったが、事業に失敗すると、1540年に仲間とともに日本や南海方面を相手に密貿易をおこない巨額な富をきずいた。1543年に種子島にポルトガル人を乗せた中国船が漂着し、日本に鉄砲を伝えたが、そのとき日本側と筆談をしたのが王直であったという。しかし彼が根拠地としていた舟山列島が、倭寇の取り締まりで攻撃をうけると、部下を率いて江蘇こうそ・浙江せっこう地域の沿岸部を襲い、後期倭寇の中心的な人物となったが、彼の死後、倭寇の勢力はしだいに衰えていった。
税制改革
商工業の発展により貨幣経済が進展し、銀が広く流通したことにより16世紀には税制改革が必要となった。おおよそ元朝の制度をうけついだ明は当初、宝鈔という紙幣と銅銭とを発行し、金・銀を貨幣として使うことを禁じた。宝鈔は銀と交換できる兌換紙幣ではなかったが、民間では使用を禁止されていた銀が流通していたため、その勢いに対抗できず、しだいに宝鈔の価値は下落していった。
明朝では米や麦・生糸などを租税として徴収し、それを国家の財政や官僚の俸給にあてていた。ところが銀が流通し宝鈔の価値が下落すると、15世紀初め北京の官僚たちは俸給を銀で支給するよう求めた。官僚の俸給を銀で支払うためには、国家の収入も銀に切り替えなければならない。そこで政府は、徴収する租税や徭役(力役)を銀で代納することに決定した。これは政府が銀の流通を認めたことを意味する。
銀による貨幣経済の浸透や税の代納化によって、税制改革の必要が生じてきた。そこで政府は両税法にかえて新たに一条鞭法を導入した。唐の中期以降、宋代・元代通じておこなわれてきた基本税制である両税法では穀物や生糸・銅銭などで納税されたが、一条鞭法では土地税や人丁(成年男子)に課せられる徭役などのあらゆる税を一本化して銀納させるもので、徴収を簡素化・能率化させた画期的な税制である。16世紀初めに江南の地域ごとにおこなわれていた一条鞭法は、明の後半期の万暦帝時代には全国へ普及していった。
農民の抵抗
長江下流域の水田地帯には、明初から依然として大土地所有と佃戸制がおこなわれていた。江南は人口密度が高く、佃戸(小作農)はせまい土地しか耕作できず、地主の収奪をうけて、彼らの生活は苦しいものであった。明の中期以降の産業・商業の発達によって商人のなかにも地主となる者が現れた。ことに江南地方では、地主でありながら都市に居住する者も多く出現した(城居地主)。そうした各地の都市には、科挙に合格して官僚の資格をもちながら任官しない者や高級官僚を退職して帰郷した者たちがいて、彼らはその地域に対し強い発言力をもっていた。地域社会の指導層となった彼らを郷紳と呼ぶ。
15世紀には銀の流通が農村にまで押しよせたため、銀を手にすることが少ない農民は、商人や高利貸しらの支配を受けるようになり、なかには土地を手放す者も現れた。こうして農民の生活はしだいに窮迫し、ついには農民が地主に対し小作料(佃租)の減免を要求してたちあがるという抗租運動が起こった。15世紀中頃の鄧茂七の乱(1448〜1449)はその最大の抗租反乱であり、こうした抗租運動は江南を中心に、清の初期まで各地で発生した。
鄧茂七の乱
福建省沙県の農民鄧茂七が、1448年に地主の横暴に反対して起こした反乱。当時福建省の建陽県では農民の大部分が「城居地主」のもので、農民は収穫の50〜60%を小作料としておさめていた。沙県では小作料のほか、別に税を地主におさめねばならず、鄧茂七らはこれを廃止するよう地主側に要求したが拒否された。そこで鄧茂七らは実力行使にでたが、宗教的組織をもたず、知識人が参加しない最初の農民反乱で、その後福建や浙江、さらに全国へと波及していった。これは、その後の抗租運動の先駆的位置を占める反乱であった。
明代の学術思想と文芸
洪武帝は朱子学を官学として儒教主義による国家体制の確立に努めた。永楽帝は即位直後の金陵(南京)において各地の学者を動員して『永楽大典』を編纂させた。これは、古今の膨大な文献を分類・編集した類書である。
さらに永楽帝は、従来の朱子学の学説を集大成した『四書大全』『五経大全』『性理大全』も相ついで編纂させた。こうした大規模な国家的編纂事業は、教育の普及や類書・辞典などがさかんにつくられる基となったが、その一方で、朱子学の解釈が統一され、また科挙試験の拠りどころとして使用されたことから、思想が固定化され、新たな学説の発展がみられなくなった。
永楽大典
永楽帝は南京において学者2169人を総動員し、古今の書籍から抜きだした一部または全文を事項別に配列した一大類書を作成させた。全2万2877巻。すべてが手書きされたものであるため、当初一部が作成されただけであった。その後16世紀半ばに副本が作成されたが、正本は明末の戦乱のさい焼失した。副本は清へうけつがれて『四庫大全』の編纂に利用されたが、その後かなりが散逸したり、国外へ流失した。清末のアロー戦争で英仏連合軍が北京に侵入したとき、『永楽大典』を雨でぬかるんだ路上に敷きつめたという。現在では約800巻ほどが中国や日本・アメリカ・イギリスなどに現存している。引用された書籍のなかには、現在では原本自体がみられないものがあり、『永楽大典』は学術面に貴重な書籍の宝庫である。
明の中期以降の産業・商業の発展により、とくに長江下流の都市を中心とした庶民の生活は豊かになり、音楽・演劇・小説などが流行した。木版印刷による書物の出版も急増し、科挙の受験参考書や小説・実用書などが多数出版され、書物の購読者層は広がっていった。文人や知識人のなかには小説や戯曲を書く者も現れ、とりわけ『三国志演義』(羅貫中)『水滸伝』(羅貫中、原作は元・施耐庵)『西遊記』(呉承恩)『金瓶梅』(作者不詳)などの長編小説(これらを四代奇書という)や、長編戯曲の『牡丹亭還魂記』(湯顕祖)が多くの読者を獲得した。また都市の盛り場や農村では庶民向けの講談や劇が演じられた。
絵画では、元末の四大家が文人画を様式化した南宗画(南画 東西文化の交流と元代の文化)と、宋代元代に流行した院体画系の北宗画(北画)がともに明代ではさかんとなった。南宗画では沈周(1427〜1509)や文徴明(1470〜1559)が、さらに画家であると同時に政治家・書道家としても名高い董其昌(1555〜1636)が現れ、活躍した。北宗画では仇英(生没年不詳)が明の中期に現れ、人物画・風俗画に優れた作品を生みだした。
工芸では、宋代元代に引き続いて発展を見た景徳鎮の陶磁器がとくにすぐれ、明代には藍色の絵模様を描いて焼きつける染付、白磁に5色(赤・緑・青・黒・黄)の釉で文様を描き、特殊な窯で焼く赤絵などの技法が完成され、日本やヨーロッパに輸出されて大きな影響を与えた。ことに陶磁器をはじめとする中国工芸品は、ヨーロッパのバロック式・ロココ式芸術にもとりいれられた。
明初の『四書大全』などの編纂によって朱子学は固定化、停滞にむかったが、これを打破して新たな儒学を提唱したのが王守仁(王陽明 1472〜1528)である。彼は朱子学に反対する立場をとる南宋の陸九淵(陸象山)が唱えた、認識と実践の統一を図る主観的唯心論の影響をうけ、その学説をさらに発展させた。すなわち彼は、無学な庶民や子どもでも本来その心の中に真正の道徳をもっている(心即理)と主張し、人間の心にある良知によって物を正とする「致良知」や、知識と行動とは合一すべきであるとした「知行合一」などを説いた。彼の考えはその著書である『伝習録』に述べられているが、こうした学派を陽明学といい、朱子学に不満をもつ学者のみならず庶民の間にも多くの支持をえ、やがて実践と実用を重んじる気風が高まり、その後に与えた影響は大きい。
たとえば明末に現れた思想家の李贄(李卓吾 1527〜1602)は、陽明学の影響をうけたひとりであるが、彼は仏教をも信じて「童心」を尊重し、ついには孔子や儒教経典を不完全なものと否定してしまった。政府から危険思想視された彼は反逆者として投獄され、そこで自殺した。
明の中期以降の産業や商業の発展、さらにはキリスト教宣教師の来航によって西洋美術が導入され、また陽明学もしだいに空論化の傾向が強まってくると、これらを背景として、知識人の中には現実の社会に役立つ学問を第一とする実学(経世致用の学)がおこった。その結果、古今の薬物に関する総合書である李時珍(1523頃〜1596)の『本草綱目』、徐光啓(1562〜1633)による農政・農業関連の総合書の『農政全書』や西洋の歴訪をもとに作成した『崇禎暦書』、そして産業技術の図解説明書である宋応星(1590〜1650)の『天工開物』、火器の構造などを述べた兵学書である趙士禎『神器譜』、造園の解説書である計成(1582〜?)の『園冶』などといった科学技術書が相次いで出版され、日本をはじめとする東アジア諸国にも影響を与えた。
また儒学の面では、経典の中に確実な証拠を求めて実証的に研究を進めようとする黄宗羲(1610〜1695)や顧炎武(1613〜1682)などの学者が現れ、黄宗羲は『明夷待訪録』を、顧炎武は『日知録』などを著し、清代中期に確立する考証学の基礎をきずいた。
宣教師の来航
明末の科学技術書の出版や儒教経典の実証的研究がおこなわれた背景には、当時中国へ来航したマテオ・リッチをはじめとするイエズス会宣教師がもたらした西洋の知識と技術とがあった。
インド航海路の開拓後、ポルトガル商人はさかんに東アジアへ来航した。彼らは1517年、広東付近に来航して以降、明朝と交易を開き、1557年にはマカオに居住権をえた。アジアへ向かうポルトガル商船には、商人ばかりでなくキリスト教宣教師も乗船していた。当時ヨーロッパでは、プロテスタントによる宗教改革がおこなわれていたが、カトリック側では対抗宗教改革(反宗教改革)運動のひとつとしてイエズス会(ジェズイット教団)が結成され(1534)、その重要な活動のひとつが海外布教であった。イエズス会の創立者のひとりであるフランシスコ・ザビエル(シャヴィエル 1506〜1552)は、はじめゴア・セイロン・マレー半島などで布教活動をおこない、その後、1549年日本に初めてキリスト教を伝えた。さらに彼は布教のため中国へ渡ったが、1552年、広州港外の上川島で病死した。
こののちイエズス会宣教師が中国へ来航し、積極的に布教活動をおこなうが、中国で最初に布教活動を認められたのは、マテオ・リッチ(1552〜1610)であった。彼はイタリアに生まれ、イエズス会宣教師として、はじめインドのゴアで布教活動をしていたが、1582年マカオに来航し、中国語を学習しながら江南各地で伝道した。中国人にキリスト教を理解してもらうために、カトリックの競技を漢文に翻訳した『天主実義』を著して布教した。
しかし彼は、布教に成功し信者を増やすためには、なによりも皇帝の許可をえることが重要であると考え、1601年に北京に就き万暦帝に謁見し、自鳴鐘(ヨーロッパ式時計)などを献上して好意をもたれた。そして翌年北京での活動を認められ、中国最初の教会を北京に建設した。リッチは北京での布教の際、まず宮廷内部への接近と、官僚層の信者の獲得をねらっていた。そこで彼は中国の伝統文化との衝突をさけ、官僚たちが来ていた儒学者の服装をまとい、中国語を習得して古典を学び、西洋学術である天文学・数学・地理学・砲術などの紹介・翻訳に努めた。こうした努力の結果、徐光啓(1562〜1633)・李之藻をはじめとする士大夫層の信者をも獲得した。
このようにマリオ・リッチは宮廷や官僚に接近するために、みずから中国語と中国文化を習得する一方で、中国人が興味を示した西洋学術を積極的に紹介した。彼は徐光啓の協力をえてエウクレイデス(ユークリッド)の幾何学を説いた。『幾何原本』を刊行し、さらに中国最初の世界地図である『坤輿万国全図』を李之藻の協力をへて刊行し、当時の中国の人々に初めて世界の大きさを知らせた。この『坤輿万国全図』は日本にも伝えられ、世界観を一変させる。きっかけとなった。
歴代皇帝
- 太祖洪武帝(朱元璋 在位1368年 – 1398年)
- 恵宗建文帝(朱允炆 在位1398年 – 1402年)洪武帝の皇太子朱標の子。
- 成祖(太宗)永楽帝(朱棣 在位1402年 – 1424年)洪武帝の子。建文帝の叔父。
- 仁宗洪熙帝(朱高熾 在位1424年 – 1425年)永楽帝の子。
- 宣宗宣徳帝(朱瞻基 在位1425年 – 1435年)洪熙帝の子。
- 英宗(明)正統帝(朱祁鎮 在位1435年 – 1449年)宣徳帝の子。
- 代宗景泰帝(朱祁鈺 在位1449年 – 1457年)宣徳帝の子。正統帝の弟。
- 英宗天順帝(朱祁鎮 在位1457年 – 1464年)第六代正統帝の重祚。
- 憲宗成化帝(朱見深 在位1464年 – 1487年)正統帝の子。
- 孝宗弘治帝(朱祐樘 在位1487年 – 1505年)成化帝の子。
- 武宗正徳帝(朱厚照 在位1505年 – 1521年)弘治帝の子。
- 世宗嘉靖帝(朱厚熜 在位1521年 – 1566年)成化帝の孫。正徳帝の従兄弟。
- 穆宗隆慶帝(朱載垕 在位1566年 – 1572年)嘉靖帝の子。
- 神宗万暦帝(朱翊鈞 在位1572年 – 1620年)隆慶帝の子。
- 光宗泰昌帝(朱常洛 在位1620年8月 – 9月)万暦帝の子。
- 熹宗天啓帝(朱由校 在位1620年 – 1627年)泰昌帝の子。
- 毅宗崇禎帝(朱由検 在位1627年 – 1644年)泰昌帝の子。天啓帝の弟。
参考 Wikipedia