琉球王国
琉球王国の行政の中心・首里城(世界遺産) Wikipedia

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琉球王国( A.D.1429〜A.D.1879)

14世紀、沖縄本島では北山・中山・南山の三つの小国が抗争していたが、1429年中山王尚氏によって統一され琉球王国となり、明朝の冊封体制に入り、東シナ海貿易で繁栄した。。1609年に島津氏の侵入を受け、薩摩藩の支配下に入り、日中両属の体制となった。明治政府はその帰属を問題とし、1872年に琉球藩を設置、79年には廃藩して沖縄県設置を強行した(琉球処分)。

琉球王国

  • 琉球:沖縄諸島の別称。15世紀以降の琉球王国を指すことも多い。14世紀、沖縄本島では北山・中山・南山の三つの小国が抗争していたが、中山王が統一して明朝の冊封体制に入り、中継貿易で繁栄した。『明書』に記録された朝貢回数は171回と、朝貢国のなかでもっとも多かった。17世紀に薩摩島津氏に制圧され、日中両属の体制となった。
  • 1429年に中山王尚氏によって統一され琉球王国となり、東シナ海貿易で繁栄した。1609年に島津氏の侵入を受け、薩摩藩の支配下に入ったが、中国との冊封関係も続いた。明治政府はその帰属を問題とし、1872年に琉球藩を設置、79年には廃藩して沖縄県設置を強行した(琉球処分)。
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世界史

諸地域世界の交流

海の道の発展

東アジアの海洋世界

明王朝で靖難の役に勝利した永楽帝えいらくていが即位した時期は、朝鮮半島では李成桂りせいけいが朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建国し(1392)、日本では室町幕府3代将軍・足利義満あしかがよしみつが南北朝の合一(統一)を実現(1392)した直後であった。永楽帝は、洪武帝こうぶていが目指した海禁朝貢貿易を基礎にした中華帝国による秩序の再編の意図を継承し、拡大した形で推進した。朝鮮と日本は、明の冊封さくほうを受けることで、これに加わった。これ以後、倭寇は次第に禁圧された。永楽帝による鄭和ていわの南海遠征も海洋を通じての秩序再編とその維持のためのものであった。

朝貢国の施設であることを確認するために発給された勘合符を用いたので、勘合貿易と呼んでいる。勘合符は明から50余国に発給された。日本では諸大名、寺社、境や博多の商人が実質的に勘合貿易を担った。

南海遠征終了後も継続された海禁政策のもとで中国人の海上進出は停滞した。この間に、東シナ海交易圏と南シナ海交易圏の接点に位置する琉球王国が、明との朝貢関係を利用した中継貿易で繁栄した。

琉球が明に入貢した回数は171回におよぶ。入貢回数2位の安南あんなんは89回であり、朝鮮は30回、日本は19回であった。

首里城しゅりじょうを中心とする琉球王国は、沖縄本島が北山・中山・南山ほくざん・ちゅうざん・なんざんにわかれて勢力を争っていた中の中山王・尚巴志しょうはし(1372〜1439)により1422年に統一して成立した。以後、琉球船は東南アジア各地で活発な貿易活動を進め、港の那覇を中心として交易品を東アジアにもたらした。那覇には福建から多くの中国人が移り住んで交易活動を支えた。

東アジアの海洋世界
琉球王国の中継貿易 
琉球王国は中国との朝貢関係を利用して、中継貿易の中心地として繁栄した。図は中国から那覇港に帰国した「進貢船」とそれを歓迎する多くの船を描いたもの (画: ©Public Domain)

アジア諸地域の繁栄

東アジア・東南アジア世界の動向

明朝の朝貢世界

鄭和の南海遠征もあって、明に対する朝貢貿易は、東アジアからインド洋にわたる広範囲にかけて活発に行われた。明朝への重要な朝貢国のひとつが琉球りゅうきゅうであった。現在の沖縄県を中国で「琉球」と呼ぶようになったのは洪武帝時代からである。当時の琉球には北山ほくざん中山ちゅうざん南山なんざんの3国が鼎立しており、それぞれが明に朝貢していた。15世紀初めに中山王尚氏しょうし(第一尚氏 尚巴志王)が他の2国を統合して琉球の代表となり、中国文化を取り入れる一方で、明への朝貢を続け、それによって得た物資を用いて他国との交易を行なった。その結果、琉球は東シナ海と南シナ海とを結ぶ交易の要となっていった。

明朝の朝貢世界
明朝の朝貢世界 ©世界の歴史まっぷ

清代の中国と隣接諸地域

清朝と東アジア

明朝への朝貢を続け、それによって他国との交易をおこない、東シナ海と南シナ海とを結ぶ交易の要衝となっていた琉球は、16世紀後半、ポルトガルなどのヨーロッパ勢力が東アジアへ進出してくると、その中継貿易は衰退していった。こうしたなか、1609年に薩摩の島津氏の攻撃をうけ、これに服属した。島津氏は、琉球王国の名を利用して対明貿易をおこない、一方琉球も明、さらに清に対して定期的な朝貢を続けた。こうして琉球は、中国と薩摩藩の両方に服属(「両属」体制)することとなった。こうした中国・日本との関係をもつ琉球では、中日双方の文化の影響をうけ、独自な琉球文化が首里城を中心に形成されていった。日本で明治政府が成立すると、1879年、琉球に沖縄県がおかれ、日本の領有となった。

清の領域地図
清の領域地図 ©世界の歴史まっぷ
1630年代の「鎖国」政策により、江戸幕府は対外関係を厳しく取り締まったが、幕府直轄の長崎における中国・オランダとの交易、対馬藩をつうじての朝鮮との関係、薩摩藩・琉球をつうじての中国との関係、それに蝦夷の松前藩をつうじてのアイヌおよび山丹さんたん地方(黒龍江(アムール川)流域)との関係など、江戸幕府は交易の4ルート(四つの窓口)を確保し、近隣諸国との関係は江戸時代をとおしておこなわれた。
四つの窓口地図
四つの窓口地図 ©世界の歴史まっぷ

アジア諸地域の動揺

東アジアの激動

明治維新

江戸時代まで日本(薩摩藩)と清に両属するかたちをとっていた琉球に対して、その領有権を強く主張し、1872年に琉球藩をおき、1879年には軍隊を派遣したうえでこれを沖縄県に改めた(琉球処分)。また、1874年には清国領台湾に漂着した琉球島民が現地人に殺害された事件を契機に台湾出兵をおこなうなど、おりからの朝鮮半島をめぐる動きとあわせて、しだいに領土拡大と大陸進出をめざす野心を明らかにしていった。

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詳説世界史研究

日本史

武家社会の成長

幕府の衰退と庶民の台頭

琉球と蝦夷ヶ島
琉球の三山分立と道南十二館地図
琉球の三山分立と道南十二館地図 ©世界の歴史まっぷ

沖縄では、このころ北山ほくざん中山ちゅうざん南山なんざんの3勢力の三山さんざんが成立して争っていた。三山はそれぞれに明(王朝)と通交をもち、王国を称していた。これら小国家の実体は、一種の部族連合であったと考えられている。佐敷グスク(城)を拠点とした尚巴志しょうはし(1372〜1439)は、21歳で佐敷按司さじきあじ(地域の領主・豪族の意味)となり、さらに近隣を攻略して父を中山王とした。ついで北山王の攀安知はんあんち(?〜1416?)、南山王のたろみ(?〜1429)を滅ぼして、1429(永享元)年に琉球王国を建国した。琉球は首里しゅりを都とし、明(王朝)や日本と国交を結んで海外貿易を盛んに行った。琉球の船はスマトラ島・ジャワ島・インドシナ半島などに航行し、東南アジア諸国間の中継貿易に従事した。東アジアにおける重要な交易市場となった那覇なはの港には各国の特産品がもたらされ、琉球王国は繁栄した。またこの時代に明から甘薦(サトウキビ)が輸入され、広く栽培された。

幕藩体制の確立

幕藩体制の成立

朝鮮と琉球・蝦夷地

琉球王国は、16世紀後半のポルトガルなどヨーロッパ勢力が東アジアヘ進出したことによって、中継貿易なかつぎぼうえきを衰退させてはいたが、日本の統一政権の力が及ぶこともなかった。しかし、1609(慶長14)年、薩摩藩は琉球漂流民を送還したのに謝意を示さなかったという理由で、3000名の兵を送って軍事的侵入を敢行した。薩摩藩は、琉球の土地にも検地·刀狩を行い、石高制を導入して、農村支配を確立させ、そのうえで尚氏しょうしを沖縄ならびに周辺諸島8万9086石の王位につかせた。

1655(明暦元)年、清が琉球に冊封使を派遣するとの動きを察知した薩摩藩は、幕府に伺いを立て、清の要求を拒絶して、清船を追い払うかどうかの指示を仰いだ。これに対する幕府の老中松平信綱から薩摩藩主島津光久(1616〜94)への回答は、清から冊封のほか辮髪べんぱつや衣裳など風俗の強制があっても、これにしたがい、決して日中間で戦端を開くことがないようにとのことであった。1663(寛文3)年、清の康熙帝こうきてい(1654〜1722)は琉球に遣使し、尚質王を「琉球国中山王」に冊封した。ただし、辮髪の強制はなかった。琉球は以後、薩摩藩の支配を受けつつも、清の冊封を受けるかたちでの、二重の外交体制を保つことになった。

琉球は以後、朝貢のための使節を中国に派遣した。船で福建の港町にある琉球館に向かい、そこから陸路、北京に向かって琉球使節は進んだ。同様に1609(慶長14)年以来、琉球を支配する薩摩藩に対しても、琉球は年頭に年賀の使節を派遣し、鹿児島城下に設けられた琉球館に滞在した。琉球館には、通常は琉球中山王府の役人が常駐して、琉球からの品々の搬入の管理などにあたっていた。

琉球が清との朝貢貿易によって得た中国の産物(薬種など)のほか、琉球産の砂糖なども上納した。

琉球からは北京同様に、遠く離れた江戸幕府にも使節が派遣された。1634(寛永11)年、将軍家光就任を祝う琉球の慶賀使けいがし二条城に赴いた。これ以後、将軍の代がわりごとに慶賀使は江戸に下った。また1644(正保元)年からは、琉球の中山王が即位するたびに、江戸幕府に即位を感謝するという意味の謝恩使しゃおんしと呼ばれる使節を送った。両使節が同時に派遣されることもあったが、幕末まで都合21回の使節が派遣された。薩摩藩に引率されるかたちの琉球使節の服装は、揃って中国風であり、演奏する楽器もまた中国楽器であった。あえて中国風をとらせ、異国の使節が江戸に朝貢し、上野東照宮に参詣する姿を街道や江戸の人々にみせることで、幕府や将軍の権威が遠く東アジアの異国にも及んでいるものと思わせたものであろう。

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歴代国王

第一尚氏王統

  • 尚巴志王1422-1439 / 尚忠王1440-1444 / 尚思達王1445-1449 / 尚金福王1450-1453 / 尚泰久王1454-1460 / 尚徳王1461-1469

第二尚氏王統

  • 尚円王1469-1476 / 尚宣威王1477 / 尚真王1477-1527 / 尚清王1527-1555 / 尚元王1556-1572 / 尚永王1573-1588 / 尚寧王1589-1620 / 尚豊王1621-1640 / 尚賢王1641-1647 / 尚質王1648-1668 / 尚貞王1669-1709 / 尚益王1710-1712 / 尚敬王1713-1751 / 尚穆王1752-1794 / 尚温王1795-1802 / 尚成王1803 / 尚灝王1804-1834 / 尚育王1835-1847 / 尚泰王1848-1872
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