藤原清衡 (
A.D.1156〜A.D.1128)
父は藤原経清、母は安倍頼時の娘。前九年合戦の後、母が清原武貞に再嫁して清原清衡を名乗る。清原氏の内紛である後三年合戦経て、安倍・清原両氏の支配地を継承し、藤原姓に復する。平泉に居館を構え、中尊寺金色堂を建立した。
藤原清衡
父は藤原経清、母は安倍頼時の娘。前九年合戦の後、母が清原武貞に再嫁して清原清衡を名乗る。清原氏の内紛である後三年合戦経て、安倍・清原両氏の支配地を継承し、藤原姓に復する。平泉に居館を構え、中尊寺金色堂を建立した。
奥州藤原政権の初代
陸奥国の豪族。父は藤原経清。母は豪族・安倍頼時の娘。前九年の役で父が殺され、母が清原武貞と再婚したため清原氏のもとで成長。後三年の役では源義家に味方し、陸奥6郡と出羽の管領権を握った。
貴族政治と国風文化
荘園と武士
源氏の進出
その後におきたのが後三年合戦(1083〜1087)である。前九年合戦の後に安倍氏にかわって陸奥・出羽両国で大きな勢力を得た清原氏一族に内紛がおこった。清原真衡(?〜1083)が弟の清原家衡(?〜1087)と争い、真衡の死後は家衡が母の連れ子の清原清衡(1056〜1128)と争っていた。
そこに陸奥守であった源義家が介入し、藤原清衡を助けて清原家衡と戦い、苦戦の末に内紛を平定したのである。
中世社会の成立
院政と平氏の台頭
院政期の社会
地方では各地の武士が館を築き、一族や地域の結びつきを強めるようになっていた。諸国の国衙の行政事務を担った在庁官人も多くが武士となり、国司が現地に赴任しなくなったこともあって、諸国の文化の中心は国司の館から武士の館に移っていき、地方の社会の担い手も完全に武士の手に移っていった。
なかでも源義家の去った後の奥羽地方では、陸奥の藤原清衡の支配が強大となった。清衡はやがて平泉を根拠地として、奥州と出羽の2国に勢力を伸ばし、金や馬などの産物の富によって摂関家や院と関係をもち、京都の文化を移入するとともに、北方の地との交易で独自の文化を育てて富強を誇った。その結果、子藤原基衡・孫藤原秀衡と3代100年にわたる奥州藤原氏の基礎を築いたのである。
こうして院政期には、私的な土地所有が展開し、院や大寺社、武士が独自の権力を形成するなど、広く権力が分化していくことになり、社会を実力で動かそうとする風潮が強まった。それらを特徴とする中世社会はこの院政期に始まったのである。
院政期の文化
貴族文化はこの時期に入ると、新たに台頭してきた武士や庶民の活動とともに、その背後にある地方文化を取り入れるようになり、新鮮で豊かなものを生み出した。
この時代には地方の豪族が京都の文化を積極的に取り入れており、各地に宗教文化が広がった。奥州藤原氏は藤原清衡の時に平泉に中尊寺を建て、黄金をふんだんに使った金色堂などの建物を造営し、その子藤原基衡も平泉に毛越寺という大寺院を建立した。