金玉均
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金玉均 きんぎょくきん(キム・オッキュン A.D.1851〜A.D.1894)
朝鮮王朝末期、開化派の指導者として活躍した政治家。壬午軍乱じんごぐんらんの謝罪使として来日し、親日派となる。1884年の甲申事変こうしんじへんをおこし、新政府を組織したが清の反撃で失敗。朴泳孝ぼくえいこうらと日本に亡命した。94年上海で暗殺された。

金玉均

独立党の指導者。壬午軍乱じんごぐんらんの謝罪使として来日し、親日派となる。甲申事変こうしんじへんを起こしたが、失敗して日本に亡命。札幌などに移送されたが、1894年上海へ行き暗殺される。

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朝鮮王朝末期、開化派の指導者として活躍した政治家。1884年の甲申事変で新政府を組織したが清の反撃で失敗し、朴泳孝ぼくえいこうらと日本に亡命した。94年上海で暗殺された。

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1872年
科挙文科に合格。朴珪寿、慶錫らの影響で開化思想を抱く。
1882年2月-7月
日本に遊学。福澤諭吉の支援を受け、慶應義塾や興亜会に寄食する。留学生派遣や朝鮮で初めての新聞である『漢城旬報』の発行に協力。 壬午事変後の済物浦条約締結時に花房義質と帰国。
1883年
朝鮮で最初の近代的新聞「漢城旬報(かんじょうじゅんぽう)」を政府の機関である「博文局」から発行に協力する。
日本の明治維新を模範とした清朝からの独立、朝鮮の近代化を目指す。
借款交渉のため日本へ渡る。
1884年
帰国。
清がベトナムを巡ってフランスと清仏戦争を開始したのを好機と見て、日本公使・竹添進一郎の協力を得て閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こす。
清の介入で失敗。わずか3日間の政権で終了する。
日本へ亡命。逃亡中の日本名は岩田秋作。日本政府は、金玉均の存在は外交上の負担と考えていたため、金玉均は東京、札幌、小笠原諸島などを転々とした。
1894年
「大逆不道玉均」として河原に晒された 金玉均 (1894年)
「大逆不道玉均」として河原に晒された 金玉均 (1894年)

上海に渡った時に、閔妃の刺客・洪鐘宇(ホン・ジョンウ)にピストルで暗殺される。

遺体は朝鮮に運ばれ、凌遅刑に処された。
日本の対応
福澤諭吉: 「古筠院釈温香」という法名を付け、東京朝鮮公使付通官山崎英夫や朴泳孝などを福澤邸に招いて法要を営んだ。
宮崎滔天: 浅草本願寺で葬儀を営んだ。
甲斐軍治: 東京文京区の真浄寺に墓所
犬養毅・頭山満: 東京の青山霊園の外人墓地に墓を建てる。墓碑には朴泳孝の撰文、興宣大院君の孫である李埈鎔(りしゅんよう)の書が刻まれている。

日本の明治維新を模範とした清朝からの独立、朝鮮の近代化を目指した。

朝鮮近代化のために革命を起こすも失敗

金玉均は、科挙に首席合格を果たした秀才。日本を視察し、福沢諭吉、後藤象二郎らと交流。日本の近代化に大いに触発された。帰国後の朝鮮では、閔妃一派が、壬午軍乱を機に清に依存していた。この主流派の「事大党」に対し、金玉金は日本と手を結んで近代化を実現しようと画策。同志を募り、独立党(開化派)を結成した。毎夜遊興にふけり、国費を浪費する閔妃を討たない限り朝鮮の未来は無いと判断した金玉均は、清仏戦争に機会を据え、日本軍の協力のもと、クーデターを起こす。閔妃一派を追放し、革命政府を樹立した(甲申政変)。しかし閔妃を支援する清の攻撃を受け、日本軍も退く。革命は失敗に終わった。金玉金は日本に亡命。日本政府によって匿われたが、閔妃側の放ったスパイの誘いにより、上海へ渡ったところで暗殺された。

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アジア諸地域の動揺

東アジアの激動

甲午農民戦争と日清戦争

日朝修好条規の締結は、朝鮮の宗主国の立場にあった清を刺激し、清朝側でも李鴻章が中心となって朝鮮に対する干渉政策が推進された。おりしも朝鮮内部では複雑な政治抗争が展開され、これにからむかたちで朝鮮半島における日・清の対立が深まっていった。まず1882年、当初日本に接近して内政改革を進めていた閔妃びんひ(1851〜95, 国王高宗の妃)派の政府に対し、保守派の大院君が軍隊を扇動してクーデタをおこし、日本公使館が焼き打ちされるなどした。朝鮮に対する干渉強化の好機とみた清朝は、大軍を派遣して大院君を捕らえ、閔妃政権を復活させた。これを壬午軍乱じんごぐんらん(壬午政変)といい、この事件後、閔妃派は急速に清に接近するようになった。このように清の勢力下で朝鮮の安全維持をはかる一派を事大党じだいとうと呼ぶ。これに対し、金玉均きんぎょくきん(キムオッキュン 1851〜94)ら急進的改革による朝鮮の近代化をめざす一派は独立党と呼ばれ、日本の明治維新をモデルとし、日本との提携をはかっていった。1884年、清仏戦争における清の敗戦に乗じ、独立党は日本の後援下に事大党政権打倒のクーデタをおこしたが、清軍の出動によって失敗に終わった。これを甲申政変こうしんせいへん(1884, 甲申事変)という 。 事件後、日清間に天津条約(甲申政変)が結ばれ、両国の朝鮮からの共同撤兵や、非常時の出兵に際しての事前通告などが約されたが、朝鮮における日本勢力の後退は明らかであった。

独立党の指導者金玉均は日本に亡命したのち、日清戦争直前に上海で閔妃政府の刺客に暗殺され、遺体はソウルに運ばれてさらされた。
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