ジャンヌ・ダルク (Joan of Arc)
A.D.1412〜A.D.1431
フランスの農夫の娘として生まれ、神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦して勝利を収め、後のシャルル7世(フランス王)の戴冠に貢献した。異端として19歳で火刑に処せられた。
フランスの国民的ヒロインで、カトリック教会における聖人。「オルレアンの乙女」とも呼ばれる。
ジャンヌ・ダルク
神の声を聞いた少女がフランスを勝利に導く
「フランスを救った少女」ジャンヌ・ダルクは、北フランスのドンレミ村の、中流農家に生まれた。
当時のフランスは、フランスを戦場に、イギリスと百年戦争を戦っている最中だった。
13歳になったジャンヌは、「神の声」を聞いたと記録される。それは「シャルル王太子を即位させ、フランスを救え」という内容だったという。ジャンヌは、覚悟を決めて守備隊長へ申し出、王太子のいる500㎞離れたシノン城へ徒歩で向かった。王太子に奮起の進言をしたジャンヌは、馬と白銀の甲冑を与えられた。軍旗を掲げ数千の兵を率い、オルレアンへ向かう。イギリス軍に包囲された都市である。ジャンヌの勇姿に兵の士気は燃え上がり形勢は逆転。オルレアンは解放された。
さらにジャンヌはランスまで進撃、ノートルダム大聖堂(ランス)で王太子のシャルル7世(フランス王)即位の戴冠式を実現させた。
褒賞として貴族の地位を得たジャンヌであったが、王側近の妬みを買った。そのため反国王派に捕らわれたとき、身代金を払ってもらえなかった。代わりに身代金を払って身柄を拘束したのは、イギリス軍。異端の嫌疑もかけられていたジャンヌは、イギリス軍領・北フランスのルーアンで宗教裁判にかけられる。そして、「異端の魔女」として有罪判決を受けたジャンヌは火刑に処された。
フランスを勝利に導いた「オレルアンの乙女」
「フランスを救え フランスのために立ち上がるのだ」
百年戦争の末期、神のお告げを聞いた少女ジャンヌは、混乱続きの国を救うために行動に出た。廃位を強いられたシャルル王太子のもとに駆けつけ、自ら軍隊を先導してオレルアンを解放。2ヶ月後には、王太子はシャルル7世として戴冠した。快進撃を続けるが、パリ奪回の目前、ジャンヌはブルゴーニュ軍に捕らえられ、イングランド軍に売り飛ばされる。そして宗教裁判にかけられた末、火刑に処せられた。だがこののち、愛国心が芽生えたフランス民衆は立ち上がり、長かった百年戦争にようやく終止符が打たれた。
1429年、ノートルダム大聖堂で行われたじゃるる7世の戴冠式に参列するジャンヌの姿。
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ中世世界の変容
後期百年戦争とフランスの集権化
1415年、ヘンリー5世(イングランド王)はフランスの内乱に乗じてノルマンディーに侵入し、ブルゴーニュ派と結びアザンクールでフランス王軍に大勝(1415 アジャンクールの戦い)、トロワ条約(1420)により自らのフランス王位継承権を認めさせることに成功した。
その結果、1422年ヘンリー5世(イングランド王)とシャルル6世(フランス王)が相次いで没すると、ヘンリーの子ヘンリー6世(イングランド王)は、英仏両国の国王として即位した。
だがその支配地域は北部に限られ、東部はブルゴーニュ公、ロワール川南部はトロワ条約により王位継承権を否認されたヴァロワ家のシャルル7世がそれぞれ支配し、フランスは3分されることになった。
1429年、イギリス軍は南下をはかり、ロワール川中流の要衝オルレアンを攻囲(オルレアン攻囲戦)、持久戦の様相を示していた。ここに登場した少女ジャンヌ・ダルクは、わずかの兵を率いてオルレアンの囲みを解き、いっきに北上してランスを陥れ、シャルル7世(フランス王)の戴冠式を実現させた。
ジャンヌはまもなく敵側に捕らえられ処刑されたが、シャルル7世はブルゴーニュ公とアラスの和約を結びイギリス軍を孤立させていった。
そして1437年には首都パリを、続いてノルマンディー・ギエンヌを回復し、1453年にはついにカレーを除く全国土からイギリス勢力を駆逐して、百年戦争は終結した。
ジャンヌ・ダルクの裁判
イギリス軍の手にわたったジャンヌ・ダルクは、1431年ルーアンでの宗教裁判の結果、異端として火あぶりの刑に処せられた。その理由は、男装・男髪であること、天使や聖女を信仰すること、聖職者の仲介なく信仰すること、父母を見捨てシャルルに王国再建を約束したこと、などであった。1456年、ジャンヌの名誉回復裁判がシャルル7世の命によりおこなわれ、以後は彼女はしだいに神格化されていった。
参考 詳説世界史研究
系図
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