ヘラクレイオス(
A.D.575〜A.D.641)
東ローマ帝国ヘラクレイオス朝初代皇帝(在位610年 - 641年)。ユスティニアヌス1世の死後、ササン朝ペルシアなどに奪われた東ローマ帝国領土を再度奪還し、アヴァール人のバルカン半島南下を阻止して帝国の危機を救った。急速に台頭したアラビア半島のイスラーム勢力にシリア・メソポタミア・エジプト・アルメニアを相次いで奪われ、防衛力の強化を目指して軍管区制と屯田兵制を確立した。
ヘラクレイオス
領土奪還し「テマ制」を創設
東ローマ帝国皇帝。ユスティニアヌス1世の死後、ササン朝ペルシアなどに奪われた東ローマ帝国領土を再度奪還した。防衛のため、領内を軍管区に分けるテマ制をしき、各司令官に行政権も与えた。
ヨーロッパ世界の形成と発展
東ヨーロッパ世界の成立
初期ビザンツ帝国
広大な西方領土の経営は帝国財政に重い負担となり、過重な課税は現地住民の反発を招いた。ユスティニアヌス1世の死後まもなく北イタリアはランゴバルド人に奪われ、東方では再びササン朝の侵攻が激しさを増し、さらにスラヴ人を従えたアヴァール人のバルカン南下にも苦しむようになった。
また、宗教的に単性論派の多い東方諸族州民の反抗が強まり、6世紀末から7世紀初め、帝国は危機的状態に陥った。
ここに登場したヘラクレイオス1世(ヘラクレイオス朝)はササン朝に対して攻勢に転じ、占領された東方所属州を回復するとともに、アヴァール人をも撃破して帝国の危機を救った。
だが、その頃アラビア半島でイスラーム勢力が急速に台頭し、シリア・メソポタミア・エジプト・アルメニアを相次いで奪われた。こうした中で、防衛力の強化を目指して確立されたのが軍管区制と屯田兵制である。
まず、小アジア地方を手始めに、帝国の行政制度を地域的に広大な幾つかの軍管区(テマ)に再編成し、それぞれに軍事・行政の両権を持つ司令官(ストラテゴス)を配置した。同時に、コロヌスを解放したりスラヴ人を移植したりして土地を与え、その代償に兵役義務を課す屯田兵を多数創出し、各軍管区の司令官に所属させた。この両制度により、大土地所有は抑制され、徴兵と徴税の制度が整い、国家体制が安定することになった。
そのあともアラブ人の侵入はやむことなく(ウマイヤ朝)、764年から数年間はコンスタンティノープルも攻囲されたが、「ギリシアの火」と呼ばれる新兵器の出現も手伝って撃退した(678)。
ギリシアの火
イスラーム軍を苦しめた一種の火炎放射器で、一説によるとシリアからやってきたギリシア人技術家カリニコスが発案したものだという。
硫黄・硝石・松ヤニなどを混ぜた油状の液体に火をつけ、サイフォンで吸い上げ、敵船に向けて発射された。これを受けると油が粘りついて炎上し、水では容易に消すことができなかった。火薬の発明(14世紀初頭)以前の時代にあっては恐るべき火器であった。
ユスティニアヌス1世の時代を最後に、帝国の領土は縮小を重ね、7世紀になるころには、宮廷及び行政の公用語もラテン語からギリシア語へと変わり、しだいにギリシア的・東方的性格を強めた。ここに、ローマを自称しながら、実質的にはコンスタンティノープル(旧ビザンティウム)を中心とする新しいビザンツ社会が形成されていくのである。
イスラーム世界の形成と発展
イスラーム帝国の成立
アラブ人の征服活動
第2代正統カリフ ウマル・イブン・ハッターブの時代、イスラームによって統制されたアラブ軍は、カーディシーヤの戦い(636)、ニハーヴァンドの戦い(642)でササン朝の軍隊を破り、シリア方面でもヤルムークの戦い(636)で東ローマ帝国(ヘラクレイオス朝)軍に破滅的な打撃を与えた。642年までには、シリアに続いてエジプトの征服も完了した。ササン朝の滅亡とエジプト、シリアからの東ローマ帝国軍の撤退により、古代オリエント世界は崩壊し、かわって新しい理念によって統合されたイスラーム世界が誕生したのである。