アクロポリス
アクロポリス

ポリス


ポリス Polis

古代ギリシアの都市国家・共同体。1000以上のポリスが存在したが、国制などは各々異なり、ギリシア全土が統一されることはなかった。城壁を持つ中心市と周囲の村落からなり、住民には自由人の市民と奴隷の区別があった。成立当初は一部の有力者による貴族政がおこなわれていた。

ポリス

古代ギリシアの都市国家・共同体。1000以上のポリスが存在したが、国制などは各々異なり、ギリシア全土が統一されることはなかった。城壁を持つ中心市と周囲の村落からなり、住民には自由人の市民と奴隷の区別があった。成立当初は一部の有力者による貴族政がおこなわれていた。

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オリエントと地中海世界

オリエントと地中海世界 ポリス
オリエントと地中海世界 ©世界の歴史まっぷ

ギリシア世界

エーゲ文明 暗黒時代
紀元前1200年から紀元前1100年にかけて、アテネなどを例外として王宮は炎上し、諸王国は次々と滅んでいき、ミケーネ文明は消滅した。彼らを滅ぼしたのは、この時代に遅れて南下してきたギリシア人の一派ドーリア人たちだと考えられている。しかし最近ではこのほかに、王国内部の反乱や、ちょうどこのころ東地中海に現れてヒッタイトを滅ぼし、エジプトなどを攻撃した「海の民」がミケーネをも滅ぼしたのではないかとする説も出されている。
エーゲ世界では文化的生活が姿を消し、文字も忘れられ、各地に混乱が続いて交易も途絶え、生活は貧しくなった。王国を追われた人々は部族的な小グループをなして移動した。ドーリア人はペロポネソス半島に落ち着いたが、一部はクレタ島やロードス島にも進出した。ドーリア人に追われた他のギリシア人も押されて移動せざるをえなくなり、アイオリス人はボイオティア・テッサリアから小アジア北西岸やレスボス島に、イオニア人はアカイアからアッティカ、さらに小アジア西岸中央部に定着した。
ギリシア人の南下と定住地図
ギリシア人の南下と定住地図 ©世界の歴史まっぷ
アッティカとはギリシアの東南の半島で、ここの一角にアテネがある。のちにアテネはこのアッティカ全域を支配することになる。

これらの種族はその方言によって、すでにギリシア人のなかで分かれていたものである。ペロポネソス半島の一部には北西方言群の人々がとどまった。このような混乱はやがておさまったが、ギリシアの歴史を明瞭に知りうるようになるまでにはほぼ400年間を要した。この時代を暗黒時代と呼ぶ。

エーゲ文明 – 世界の歴史まっぷ

ポリスの成立

暗黒時代とはいえ、この時期にギリシア、エーゲ世界には鉄器が普及し、ギリシア語アルファベットも、フェニキア文字を手本に考案された。ギリシア人たちは混乱がおさまるうちに新しい社会の形態をつくりだしていった。

ホメロスの叙事詩が描いたギリシア社会

紀元前800年ころ成立したホメロスの叙事詩はトロイア戦争の結末とそのあとのギリシア人たちの帰還の運命をうたっているが、そこに描かれた社会や生活はミケーネ時代のものではなく(たとえば王は宮殿で華やかに暮らしてはおらず、その富も豊かではない。またミケーネ時代には知られなかった鉄器が用いられている。)、暗黒時代からホメロスの時代までの社会をうつしだしているとかんがえられる。
その社会では王は軍事指揮権を持ち、祭祀をつかさどる貴族たちの力が強く、王は強力な権力者ではない。貴族たちは血統をほこり、一族でグループをなし、多くの土地や家畜をもつ。戦争において貴族は敵と一騎打ちで戦い、英雄的なふるまいを栄誉と考える。平民たちは富や戦いで貴族に圧倒され、彼らに従っているが、裁判のときなどに貴族の裁判官たちが下す判決の可否を決定する権限を持ち、受動的なかたちではあるが民会らしいものに参与しているシーンもある。
したがってここにはミケーネ王国の社会とはかなり異なる、のちのポリスを思わせる社会が生まれつつあることがうかがえるのである。

ミケーネ文明の崩壊後人々は王や貴族に率いられ、一体となって行動しなくてはならなかった。貴族も平民たちを共同体の一員として不可欠のものと感じていたのであろう。このような条件がやがて定着して、成長してくるポリス社会のあり方に影響を及ぼしたと考えることができる。

ポリス

紀元前8世紀になると、ギリシア本土と小アジア西岸にポリスが生まれたことが確認できる。ポリスは海岸に比較的近い平野の丘をとりでとし、祭祀の場所として(アテネではアクロポリス)ふもとの広場(アゴラ)を政治や経済活動の場とし、人々の居住する地域を城壁で囲んだ都市であった。

ポリス:アテネなどではアクロポリスと呼んだが、別の呼び方をするポリスもあり、スパルタのように中心の丘をもたないポリスもあった。
城劇の外には村落と耕作地・牧草地などがあり、そこに農民の多くは住んでいた。

国家を形成するのは男性平民であり、そのなかに貴族と平民の別はあったが、ともに自由民として共同体を構成した。
市民のみが私有地(クレーロス)をもち、みずから農業をおこなった。市民の多くは奴隷を所有していた。ポリスは市民となる人々が意図的に成立させたもので、アテネのように散在して村落に住んでいた人々が貴族の指導下に集住シノイキスモス)して都市をつくるのが典型的なかたちであった。
ポリスはミケーネ王国などよりもさらに小さい国家で、最大の領域を有したスパルタでも日本の広島県程度、アテネは佐賀県程度の大きさしかなかった。

プラトンソクラテスの口をかりて、理想的なポリスは市民が互いに顔見知りであるくらいの規模がよく、仮の数字として市民5040(1x2x3・・・x7)人をあげている。

最初のポリスはおそらく小アジアに渡ったギリシア人によってつくられたと思われる。居住に適し、良港のある土地に定着しようとした場合、そこには先住民がいたであろうから、集住して防御的なポリスを営むことが不可欠であったろう。またすでにオリエントでは早くから都市国家が生まれており、ことに東地中海沿岸にフェニキア人が植民市を多数建設していたから、ギリシア人がそれにならったということも推定される。小アジアのポリス建設は速やかにギリシア本土に伝播したものと思われる。
しかしどこでも同じようなポリスが建設されたわけではない。最近の研究によってポリスの形態を分類してみると次のようになる。

ポリスの形態

1貴族中心のシノイキスモス(集住)アテネなど
2侵入したギリシア人のシノイキスモス。先住民を隷属させるスパルタ
3シノイキスモスの中心市が広い領域の村落を結合し支配するアテネ、スパルタ
4一定地域の小集落がそれぞれ独立したポリスとなるクレタなど
5集落群が穏やかな連合のかたちをとり、中心市が生まれないロクリスなど
6* 古い部族的な村落の集合にとどまりポリスを形成しないマケドニア、テッサリア、アカイアなど
* 6の地域のギリシア人はポリスが衰えてゆく時代に発展を始める。

ポリスは地中海世界に適合的な社会となり、その後もギリシア人の植民活動で増え続け、最大時には1500ほどであったと推定されている。
ポリスは独立の国家で、市民共同体であり、市民は守護神をまつり、共通の宗教意識を基とする強い連帯感をもち、他のポリスとは日常的に戦争をおこない、戦士共同体としての性格がこかった。しかしポリス間の経済的・文化的交流は盛んであり、ギリシア人であることの共通意識は極めて強かった。

ポリスはまず市民団であることが自覚されていた。彼らは自分たちの国を「アテネ人たち」「ラケダイモン(スパルタ)人たち」などという表し方で呼んだ。

それは、ギリシア人がみずからをギリシア語を話す「ヘレネス(英雄ヘレーンの子孫)」と自覚し、多民族を「バルバロイ(聞き苦しい言葉をしゃべる人)」と称して区別したこと、共通の神々と神話、ホメロスなどの詩、神託がえられる神域、競技大会などをどのポリスも共有したことなどに示される。
こうしてデルポイの神託には全ギリシアのポリスがこれを求めて集まり、オリンピア競技の開催中は休戦する習わしとなったのである。
また、有名な神域などを中心に幾つかのポリスが「隣保りんぽ同盟(アンピクティオニア)を結ぶこともあった。

隣保同盟(アンピクティオニア):デルポイの神託を中心とする同盟が有名で、スパルタをのぞくほとんどのポリスが参加していた。その他、エーゲ海域にはイオニア同盟があった。
デルポイの神託

デルポイは、ボイオティアの急峻きゅうしゅんな山地のポリスで、デルポイのアポロン神域は、すでに紀元前9世紀から崇められていた。しだいに神託の権威が高まり、ことに植民市建設がさかんになって出発前に適当な土地について尋ねることが習わしとなった。おそらく各ポリスから集まる人々から各地の情報がデルポイの祭祀にもたらされ、神殿は一種の情報センターでもあったと推測されている。神託は月1度厳かな儀式をもって巫女・シビュラが伝え、それを祭祀が通訳して依頼者に教えた。多くは謎めいた韻文いんぶんであった。デルポイには神託の成就に感謝するポリスからの奉献物が捧げられ、小アジアの異民族の王国からも依頼があった。

オリンピア競技

歴史上有名なこの競技は、ペロポネソス半島のエリスというポリスの宗教祭典として始まった。記録では紀元前776年が第1回で4年ごとに開かれた。広く年紀法としても用いられた(第90オリンピアードの第2年というふうに)。
競技は5日間で、種目は次第に増えた。競技が裸体でおこなわれたのはある時期だけのことであったらしい。
代表的な種目は、格闘技のパンクラティオン、短距離走、幅跳び、レスリング、円盤投げ、槍投げの五種競技(ペンタスロン)などであった。優勝者はリストに掲げられ、出身ポリスでは大変な名誉をもって迎えられた。しかし、競技に参加できたのは余裕のある貴族だけであった。オリンピア競技はローマ時代にも続き、最期の競技が行われたのは395年であった。

ポリスの発展

ポリスはその特色を次第に強めながら、経済や文化の進展にともなって発展していった。それぞれのポリスのたどる歴史、とくに政治や社会のかたちの変化は同じではなかったが、総じて市民共同体としてのポリスの歴史がギリシア史の中心をなした。

ポリスははじめ王政であったが王権は小さく、やがて貴族たちが支配権を握った。

スパルタではずっと2人王制が続くが、この王は将軍の役を果たすのみで、実際の権力は貴族が握っていた。

貴族は血統を誇り、土地・家畜・奴隷の所有で平民を圧倒し、馬を所有して戦争時には高価な武具を自弁して戦いの主力となった。ポリスの役職も彼らが独占していた。
ポリスの海上活動は次第に盛んになり、小アジアのイオニアのポリスを先頭に商業が発達し、交易のための陶器製造の手工業も盛んになった。また、貴族間の対立や人口の増加による貧困市民数の過剰などの理由により紀元前8世紀半ばから植民が広くおこなわれ、それら植民市がさらに商業活動に加わった。
紀元前7世紀、小アジアのリディアで始められた鋳造貨幣をイオニアのポリスもとりいれて、経済活動はいっそう刺激された。このため経済の発展から取り残された下層市民が貴族による土地獲得のために土地を失い、借財に苦しむようになり、他方で商業や手工業に携わって富裕化する平民も増えた。

ポリス
photo credit: mharrsch Black-figured Mastos cup with combat scene Greek 530 BCE via photopin (license) 前7世紀頃からポリスの軍隊の装備と戦法の変革が生じた。重い楯を連ねて密集隊を組む戦法で、市民兵士の連帯意識を高めた。のち楯も鎧も軽く、安価になったので中下層市民も参加しやすくなった。

また紀元前8世紀後半から戦闘方法の変革が採用され、それまでの貴族の一騎打ちや白兵はくへい戦にかわって歩兵の密集隊が用いられるようになった。この戦法は紀元前7世紀に確立し、重い楯、兜、脛当てすねあてなどで装備した重装歩兵密集隊(ファランクス)が戦いの主力になった。
以前よりも多くの兵士が必要となり、ポリスの武装は自弁であったから、これを負担できる富裕な平民が重要な役割を果たすようになった。
また、工業の発達により、武具はしだいに軽く、かつ購入しやすくなっていったから、歩兵になる平民の層も広がった。彼らは楯を連ねて市民仲間と一心同体となり、共同体のために戦って市民意識を高めたが、同時に自分たちが貴族のために政治や裁判上支配されていることに不満を抱くようになっていった。

植民市

植民市は各ポリスの内部の危機の解決策であったが、地中海全域にギリシア文化を伝える役割も果たした。植民者は敵地をみつけて、母市と同じようなポリスをつくり、先住民とはあまり融合せずにギリシアの文化や生活を守り続けた。
しかし母市からは独立したポリス(アボイキア=離れた家)であり、対等にオリンピア競技に参加し、また母市と戦争もした。まずミレトスが黒海沿岸に植民し、コリントスはシチリアにシラクサなどをたてた。ビザンティオン・マッサリア(現マルセイユ)・キュレネ・タラス・ネアポリス(ナポリ)などが代表的植民市である。

ペロポネソス戦争とポリスの没落

アテネがしだいに支配権を教化していったのに対して、デロス同盟に加わらず、従来からあったペロポネソス同盟を守っていたコリントスやスパルタはこれに脅威をおぼえ、コリントスとアテネの間の紛争をきっかけにギリシア=ポリスは二大勢力に分かれて長期で大規模な戦争に突入した(紀元前431年〜紀元前404年)これがペロポネソス戦争である。

ペロポネソス同盟 ペロポネソス戦争 ペロポネソス戦争とポリスの没落 デロス同盟 ペロポネソス戦争地図
ペロポネソス戦争地図 ©世界の歴史まっぷ

はじめアテネは、ペリクレスの指導のもとに優勢であったが、田園への攻撃を逃れて市民を城壁へ籠城させる作戦をとったため疫病に襲われ、人口の3分の1を失い、ペリクレスも病死した。その後も一進一退の戦いが続き、ペルシアも介入して対立をあおった。アテネの政治をリードしたのは富裕な商人や手工業の政治家で、彼らは好戦的な民衆に迎合し、いたずらに戦争を長期化させた。彼らをデマゴーゴス(扇動政治家)と呼び、クレオンやアニュトスなどがそれであった。また貴族のアルキビアデスは無謀なシチリア遠征を提案(アルキビアデス自身はこの遠征前に瀆神とくしんの告発をうけて敵スパルタに亡命し、アテネを破る作戦をさずけた。のちにまたアテネに帰国するなど波乱の生涯を送った。)して、アテネ軍がシチリアで全滅する事態になってついにペロポネソス側が勝利した。降伏したアテネは艦隊を失い、城壁を破壊され、一時は民主政が倒れて寡頭政が成立した。エーゲ海域からシチリアまで、ほとんどのポリスが巻き込まれたこの戦争によって農地は荒廃し、ポリス内部では中下層市民の困窮化が進んだ。

戦争後、スパルタの強大化を嫌ったペルシアはアテネの復興を援助した。速やかに民主政が復活し、農民たちも自営力を回復してアテネはまた指導敵ポリスへの道を歩みだした(アテネでは、ことに富裕な市民が公共奉仕や財産税を負担してポリスに貢献することが求められるようになった。)。一方スパルタはコリントスなどの離反にあい、再びペルシアと和を結んで(紀元前386年、大王の和約)、ギリシアにおける指導権を確保しようとした。しかしテーベがしだいに勢力を強め、ペロピダスと名将エパミノンダスの指揮下にスパルタを破り(紀元前371年、レウクトラの戦い)(この戦いでテーベは斜線陣密集隊と騎兵を組み合わせる新戦術を用いた。)、一時はギリシア最強のポリスとなった。テーベはさらにスパルタ領に侵入してメッセニアを解放し、多数のヘロットを失ったスパルタは一挙に強国の座から転落した。他方アテネは第2次の海上同盟を結び、かつてのデロス同盟のような強力な支配をさけつつ(紀元前377年〜紀元前355年。参加約70市。同盟会議をおいた。金庫はアテネが管理したが、貢納金やアテネが駐留軍を派遣することなどはなかった。)再び勢力を拡大しようとした。しかし同盟市の離反にあってその試みは挫折し、テーベもエパミノンダスが戦死して衰えた。ポリス間の抗争はなおも続き、ポリス世界の混迷と衰退はおおいがたかった。

絶え間ない戦争と、一方での貨幣経済の浸透により、ポリス社会では貧富の差が拡大し、ことにスパルタでは土地所有市民が激減するというありさまであった。多くのポリスでは民主政よりも富者による寡頭政に傾き、民主政を守ったアテネでも公有地が私人の手に渡ったり、在留外国人の土地所有や市民権取得が認められたり、また非市民の不正な市民登録が増えるなど、共同体的性格の衰えが目立ってきた。そしていずれのポリスでも土地所有農民の市民軍が維持できなくなり、傭兵(傭兵になったのは遺族民だけでなく、無産化したギリシア市民たちも多数傭兵として働くようになった。ソクラテスの弟子で歴史家のクセノフォンはペルシア王族に傭兵指揮官として雇われ、敵地から脱出する記録『アナバシス』を書いた。)を用いるようになっていった。ただ、これまでポリスとしての成熟が遅れていたギリシア辺境のアイトリア・アカイアなどに都市同盟が生まれ、活発な動きを示した。そしてされにその北方のマケドニアも、長く未開な部族国家にとどまっていたが、フィリッポス2世のときギリシアに勢力をのばしてきた。
アテネでは、弁論家のデモステネスが反フィリッポスの運動をおこない、アテネはテーベと同盟してフィリッポスと戦ったがカイロネイアの戦い(紀元前338年)で敗れた。フィリッポスはポリスを尊重してコリントス同盟(ヘラス同盟)を組織し、みずから盟主におさまったが、これはマケドニアによるポリス征服にほかならず、各ポリスは不戦と現状の政体や財産所有関係を変更しないことを強制された。

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画像出典: アテネのアクロポリス復元図 野上隼夫画

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