マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス (小カト)
紀元前95年-紀元前46年4月。共和政ローマの政治家、哲学者。高潔で実直、清廉潔白な人物として知られる。ポエニ戦争の時代に活躍したマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(大カト)の曾孫にあたり、曾祖父と区別するためウティカのカトまたは小カトと称される。セルウィリア・カエピオニスは異父姉、マルクス・ユニウス・ブルトゥスは甥で婿に当たる。
マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス
元老院議員となったカトは頑固な性格であり、元老院の会議は全て出席した上で、会議の席で政敵を批判した。カトは元老院議員となった当初からオプティマテス(閥族派、元老院派)に所属したが、オプティマテスに属する人物の多くがスッラに繋がるものであったに対して、カトはオプティマテスが元老院を中心とした政体維持を主目的としている為に属したのであった。なお、カトは若い時よりスッラを軽蔑していた。
年表
- 紀元前95年 – ローマで生まれる。幼少期に両親を失い母方の叔父に預けられる。
- 紀元前91年 – 同盟市戦争で叔父ドルスス戦死。
- 紀元前70年代 – ストア派の哲学を学ぶ為、叔父の家を出る。
- 紀元前67年 – マケドニア属州で軍務に就き陣頭指揮をとる。この時期にカエピオ(異父兄)が死去。
- 紀元前65年 – クァエストル(財務官)に選出される。職務に必要な知識、特に税金に関連する法を勉強し、任期中に不正に国庫の資金を流用したクァエストル経験者を告発した。
- 紀元前63年 – 護民官に選出される(コンスル:マルクス・トゥッリウス・キケロ)。カティリナ事件で活躍。カティリナ一派を死刑にするように提案、カティリナに関るあらゆる人間を告発する。
ガイウス・ユリウス・カエサルはカティリナ一派が有罪であることには同意したが、死刑とすることには反対し、財産を没収した上で一連の騒動が鎮静するまで獄に繋ぐべきと論陣を張ったが、キケロによる裁断で、カティリナ一派に対する死刑が決定し、元老院はカティリナ一派へ「セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム」を決議したため、生涯の政敵となったカエサルとの関係はこの時から始まった。
カトは、カエサルがカティリナ一派と共謀して国家転覆を企んでいたとしてカエサルを激しく追及した。 - 紀元前61年 – シリア・パレスチナ等をローマの属州としたグナエウス・ポンペイウスは、凱旋式をローマで行う為に、執政官の選挙を凱旋式終了まで延期するように元老院へ依頼しが、カトはこれに反対した。ポンペイウスは関係作りのために自身より遥かに若輩であったカトの娘を自らの妻へ迎えたいと申し込んだが、カトはこれに一切取り合わなかった為、ポンペイウスは人気を落とした。これらの仕打ちによってポンペイウスは元老院への不満を持つことになる。
ヒスパニア・ウルステリオル属州総督の任期を終えたカエサルもポンペイウスと同様の内容を元老院へ依頼したが、元老院はこれを拒否し、カトは元老院で日が暮れるまで長時間に及ぶ演説を行うことで議事進行の妨害行為を行った為、カエサルは凱旋式を諦めて、ポンペイウス及びマルクス・リキニウス・クラッススと政治同盟(第一回三頭政治)を結び、紀元前59年の執政官選挙でカエサルは三頭政治の密約の通りに執政官に当選した。カエサルの同僚の執政官はマルクス・カルプルニウス・ビブルス(カトの娘ポルキアの最初の夫)であったが、オプティマテス(閥族派、元老院派)はカエサルへ対抗するためにビブルスへ進んで資金を提供した。清廉で知られたカトも必要悪としてこの買収を認めたと伝わっている。 - 紀元前59年 – 反カエサル、反三頭政治の筆頭として活躍。
カエサルは農地法案を提出したが、カトは農地法案の成立を長時間の演説によって阻止しようとしたため、カエサルはリクトルに命じてカトを元老院の議場から強制退場させた。
一部の元老院議員が「カエサルと元老院にいるよりは、カトと共に牢獄にいる方が良い」と宣言し、多くの元老院議員もこの強制行為に対して異議を申し立てた為、カエサルはカトへの強制退場を解除させざるを得なかった。
カエサルは農地法案を反対の多かった元老院ではなく、市民集会へ提案した。ここでもカトやビブルスは反対の論陣を張ったが、市民から激しい抗議を受けたことからトーンダウンし農地法は成立した。ビブルスは農地法成立以降は自宅に引き篭り、職務を放棄した。 - 紀元前58年 – キプロスへ属州総督として赴任。
カエサルがガリア属州総督としてガリアに赴任すると、三頭政治側で護民官に当選したプブリウス・クロディウス・プルケルが頭角を現し、カトをキプロス併合のためにプロプラエトル(前法務官)格の総督として派遣することを提案し可決された。
カトは豊かなキプロスを属州化してローマを潤わせ功績を上げた。 - 紀元前56年 – ローマへ戻ったカトは、その年に三頭の間で行われたルッカ会談でポンペイウスとクラッススが紀元前55年の執政官に就くと密約したのに反発して、妹ポルキアの夫であったルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスを執政官選挙に擁立したが敗北。
- 紀元前54年 – ドミティウスがコンスルに当選し、カトもプラエトル(法務官)に選出される。
- 紀元前52年 – クロディウスが暗殺されて混乱状態に陥ったローマを治めるために、ポンペイウスへ単独で執政官に就くように要請。
- 紀元前51年 – コンスルの選挙に立候補したものの落選。
- 紀元前49年 – ローマ内戦が開始。シキリアに向い、後にギリシアへ逃れる。
- 紀元前48年 – ファルサルスの戦いで敗北し、北アフリカへ向う。
- 紀元前46年 – タプススの戦いで敗北。ウティカで自害。
カト自死
タプススで勝利を収めたカエサルはウティカを包囲してカトに降伏を迫ったものの、「カエサルによって許されるのは王者の徳を受け入れるもの」としてこれを拒み、自害して果てた。
死の直前に、プラトンの『パイドン』を読み霊魂とイデアの不滅を自ら言い聞かせた。右図:ルーブル美術館の『カト全身像』はこれをモチーフにしたものである。
カトが刃を自らに突き刺したのを発見したカトの奴隷の1人は医者に連絡して傷口を縫合したが、カトは誰もいなくなったのを確認すると、包帯と縫合を引き剥がして、自ら腸を引抜いて絶命したと伝わっている。
ウティカでのこのエピソードもあって、カトはウティカのカトと称されるようになった。カトの死後、キケロはカトを賞賛した『カト』、カエサルはそれに反論する『反カト』をそれぞれ執筆したが、いずれも現在は散逸している。
カトの死から2年後の紀元前44年3月にカエサルを暗殺したマルクス・ユニウス・ブルトゥスは異父姉セルウィリアの息子で甥に当たり、娘ポルキアと再婚していた。カトはダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』に登場し、煉獄篇で煉獄山の門番となっている。
マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスが登場する作品
ザ・ローマ帝国の興亡
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ROMA [ローマ]
ROME[ローマ] 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ