ヤン・フス (1370頃〜1415)
ボヘミアの宗教改革者。南ボヘミアのフシネツ村に貧農の子として生まれる。プラハ大学で神学を修め、1398年に同大教授に就任する。このころイギリスのジョン・ウィクリフの改革思想に強く共鳴し、救霊預定説を唱え、聖職者、教会の土地所有、世俗化を厳しく非難した。1402年にはプラハのベツレヘム礼拝堂の主任司祭兼説教師に任命され、チェコ語による彼の説教は、民衆の心を巧みにつかんだ。彼は同時に聖書のチェコ語訳を行い、チェコ語の正字法も手がけるなど、チェコ人の民族教育にも力を注いだ。コンスタンツ公会議でフスを異端として焚刑に処した。
ヤン・フス
破門にひるまず教会批判を続ける
14世紀後半、教会大分裂(大シスマ)が起こるなど、教会と国家権力が結びつき、教皇庁の俗化が目立つと、教会改革を目指す動きが活発になった。
農民の子として生まれたフスは、プラハ大学の神学教授になり、ジョン・ウィクリフ説に賛同、教皇の世俗的権力を批判した。フスは破門され、説法も禁止されたが、『教会論』などの著作による活動を続けた結果、民衆に広く支持されるに至った。
コンスタンツ公会議に召喚されたフスは、ここでも教会批判をやめなかったため、「悪魔」として火あぶりに処された。この事件は波紋を呼び、地元のベーメンで、フス派が教皇と皇帝に対し反乱を起こし(フス戦争)、鎮圧まで17年かかった。
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ中世世界の変容
教会勢力の衰微
教会の世俗化や腐敗はますます進み、各地で教会の改革を求める運動が起こってきた。14世紀後半、オクスフォード大学の神学教授ジョン・ウィクリフ(1320頃〜1384)は、教皇権を否定するとともに、教会が世俗的な富を追求することを厳しく攻撃し、教会財産の国庫への没収を是認した。そして、イングランドの教会及び国王の教皇からの独立を主張した。また教義面では聖書主義を唱え、聖書の英語訳とその普及に努めた。彼の教えは異端とされたが、ランカスター公の保護下に生き延び、国内ではロラード派と呼ばれる人々に信奉され、国外ではベーメンのフスの運動に大きな影響を与えた。
ウィクリフの説に共鳴したヤン・フス(1370頃〜1415)は、プラハ大学の神学教授として教会の土地所有や世俗化を厳しく非難、聖書のチェコ語訳に努めるとともに、チェコ語による説教により民衆の心をつかんだ。だが、ローマ教皇の贖宥状販売を批判して破門され、ドイツ皇帝ジギスムント(神聖ローマ皇帝)の提唱したコンスタンツ公会議に召喚されることになった。この会議では、統一教皇の選出により教会大分裂を終結に導いたが、フスを異端として焚刑に処した(1415)ためフス派の怒りをかった。そして、ジギスムント(神聖ローマ皇帝)がベーメン王を兼ねると、フス派を中心とするプラハ市民は反乱に立ち上がった(フス戦争 1419~1436)。
こうしたウィクリフヤフスの思想と行動は、のちの宗教改革の先駆となった。
フス戦争
フス派にはプラハの都市貴族、大学を中心とした穏健なウトラキスト派と、農民・職人・下層騎士などからなる過激なターボル派があったが、当初はカトリック教会や皇帝軍に共同で対処し、度々皇帝軍を打ち破り(1420〜1431)、一時は国外にも進撃する勢いを示した。しかし、カトリック側がバーゼル公会議で妥協的な和平案を出すとしだいに対立するようになり、結局ターボル派はウトラキスト派とカトリック教会連合に敗れ、1436年穏健派と教会の間で和約が成立した。このフス戦争は、ドイツの支配に対するチェコ人の民族運動としての性格をもっていた。