ユスティニアヌス1世
ユスティニアヌス1世のモザイク画(ラヴェンナ・サン・ヴィターレ聖堂)

ユスティニアヌス1世


ユスティヌス1世

ユスティヌス2世

ユスティニアヌス1世 A.D.482〜A.D.565
東ローマ帝国ユスティニアヌス朝第2代皇帝(在位527年8月1日 - 565年11月14日)。東ローマ帝国初期の絶頂期を現出。北アフリカのヴァンダル王国を滅ぼし、20年に及ぶゴート戦争の末にイタリアの東ゴート王国を征服、西ゴート王国からはイベリア半島の南端部をかすめ取った。東方では540年以降ササン朝ホスロー1世と戦って地中海の制海権を確保するなど、一時地中海帝国の再現に成功した。首都のハギア・ソフィア聖堂の再建をはじめ多くの教会堂を建立、法学者トリボニアヌスらに命じて共和政以来のローマ法を集大成させた(『ローマ法大全』)。

ユスティニアヌス1世

不眠不休で帝国の再建に努める

「夢よ、もう一度」とばかり、かつてのローマ帝国領を再び奪還したのが、ユスティニアヌス帝である。20年余りゲルマン人との戦闘を続け、ついにイタリアから北アフリカ、スペインに至るローマ領を取り戻したのだ。

大帝と呼ばれた彼の原動力は、踊り子出身で美貌の野心家、皇后テオドラの威勢だったのかもしれない。532年、市民の暴動「ニケの反乱」が勃発し、暴徒たちが皇宮に迫った。逃亡を覚悟した皇帝に向かい、テオドラは「どうして逃亡なさるのですか。帝位は最高の死に装束です」と叱咤激励。妻のひと言により逃げ隠れすることなく、反乱を鎮圧したのだった。

ユスティニアヌス1世
ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク(サン・ヴィターレ聖堂モザイク画) 中央がユスティニアヌス1世 ©Public Domain

イタリア、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂に飾られたモザイク画。中央に描かれているのがユスティニアヌス帝。

参考 ビジュアル 世界史1000人(上巻)

東の憂いを経ちローマ帝国を復興する

農民出身だが、出世して伯父の東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝初代皇帝・ユスティヌス1世の養子となる。伯父の死後44歳で東ローマ帝国の帝位を継いだ。即座にホスロー1世率いるササン朝ペルシアの侵攻を受け、以後18年間の戦乱を続けた。しかし、ローマ帝国再建を夢見るユスティニアヌス1世は、ホスロー1世と和睦し、西方への進出に方向転換した。北アフリカのヴァンダル王国、イタリアの東ゴート王国を滅ぼし、さらにはスペイン南部も獲得し、領土復活を実現した。

ユスティニアヌスは、行政機関をすべて皇帝直轄とし、産業育成と公共事業推進に努めた。中国から養蚕ようさん技術を輸入し、絹織物工業を興したのもこのときである。また、「ローマ法大全」の編纂へんさんを行った。これは、古代からの法を集大成したものとして、「ハンムラビ法典」、「ナポレオン法典」と並び、後世の西欧諸国の法に影響を与えた。こうした新政策に反発した市民の反乱も起こるが、王妃テオドラの支えで鎮圧した(ニカの反乱)。

ユスティニアヌスは巨大なハギア・ソフィア大聖堂を建設する。1日あたり5万人の労働者が5年間かけて完成した壮麗な仕上がりを見て、「ソロモンよ、我は汝に勝てり」と感嘆したという。宗教的には、ローマ多神教やギリシア正教を異教として弾圧し、ローマ教会の上に東ローマ皇帝を据える「皇帝教皇主義」の立場をとった。多方面で活躍し、不眠不休王とも呼ばれた。

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ヨーロッパ世界の形成と発展

東ヨーロッパ世界の成立

初期ビザンツ帝国
初期ビザンツ帝国ではローマ的専制君主制が維持され、アドリアノープルの戦い(378)で西ゴート人に大敗を喫したものの、すぐに体勢を立て直し、その後のゲルマン諸部族やフン人・ササン朝などの攻勢をしのいで発展することになった。その初期の絶頂期を現出したのが、ユスティニアヌス1世(ユスティニアヌス朝)である。

ユスティニアヌス1世は、即位5年目におこった首都市民の反乱(ニカの乱)をテオドラ(ユスティニアヌスの皇后)とともに鎮圧すると、将軍ベリサリウス、ナルセスらにゲルマン傭兵を主力とする部隊を率いて西地中海に遠征させ、ゲルマン人により奪われた旧ローマ帝国西半部の再征服を敢行した。

初期ビザンツ帝国 6世紀後半のヨーロッパ地図
6世紀後半のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ
まず、北アフリカのヴァンダル王国を滅ぼし(534 ヴァンダル戦争)、続いて20年に及ぶゴート戦争の末にイタリアの東ゴート王国を征服(555)、さらに西ゴート王国からはイベリア半島の南端部をかすめ取った。また、東方では540年以降ササン朝のホスロー1世と戦って地中海の制海権を確保するなど、一時地中海帝国の再現に成功した。
東ローマ帝国 初期ビザンツ帝国
550年頃のビザンツ帝国 ユスティニアヌス朝 @Wikipedia

内政面でも、往時のローマの勢威を回復すべく、首都のハギア・ソフィア聖堂の再建をはじめ多くの教会堂を建立、また法学者トリボニアヌスらに命じて共和政以来のローマ法を集大成させた(『ローマ法大全』)。

ローマ法大全:法概論・法学説・勅法集の3部よりなり、中世以降ヨーロッパ諸国の法体系に大きな影響を与えた。

また、経済的には国家統制による農業・商工業の振興に勤め、開墾や植民を奨励し、養蚕業を導入した。首都コンスタンティノープルは東西の物産の集散地として栄え、人口100万を数えた。

しかし、広大な西方領土の経営は帝国財政に重い負担となり、過重な課税は現地住民の反発を招いた。ユスティニアヌス1世の死後まもなく北イタリアはランゴバルド人に奪われ、東方では再びササン朝の侵攻が激しさを増し、さらにスラヴ人を従えたアヴァール人のバルカン南下にも苦しむようになった。また、宗教的に単性論派の多い東方諸族州民の反抗が強まり、6世紀末から7世紀初め、帝国は危機的状態に陥った。

単性論派:キリストには人性と神性とが備わっているとする両性論派に対し、キリストを神として人間的属性を認めない立場を単性論派と称し、異端とされた。

ユスティニアヌス1世の時代を最後に、帝国の領土は縮小を重ね、7世紀になるころには、宮廷及び行政の公用語もラテン語からギリシア語へと変わり、しだいにギリシア的・東方的性格を強めた。ここに、ローマを自称しながら、実質的にはコンスタンティノープル(旧ビザンティウム)を中心とする新しいビザンツ社会が形成されていくのである。

ビザンツ文化
美術

ビザンツ文化としては特に名高いのは美術の分野である。ビザンツ美術はキリスト教美術のひとつとして、教会建築と聖堂内壁のモザイク画(材料には七宝や色ガラスを使用)、イコン(聖画像)などに独自の発達をみた。
初期のビザンツ美術は、東方の影響で神秘性がこく、6世紀のユスティニアヌス1世の時代に成熟を遂げた。代表的な教会としては、首都を威圧する大円蓋(ドーム)式バシリカ建築のハギア・ソフィア聖堂や、内部の宗教画モザイク装飾の美しいラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂などがある。

西ヨーロッパ世界の成立

ゲルマン諸国家
東ゴート人

東ゴート人はフン帝国の配下でパンノニアに移住したが、5世紀半ばのフンの瓦解とともに独立した。その後テオドリック(東ゴート王)の指導によりイタリアに侵入し、オドアケルを倒してラヴェンナを首都とする東ゴート王国を建設した。テオドリック時代の東ゴートは、ローマの制度や文化を尊重し、ゲルマン諸国家中最大の繁栄を誇ったが、王の死後東ローマ帝国ユスティニアヌス朝第2代皇帝ユスティニアヌス1世により滅ぼされた。

オリエントと地中海世界

古代オリエント世界

ローマ文化
法学

ローマ人の実際的な能力は法や政治の技術に現れ、中でもローマ法は長く後世の模範となり、近代法にまで影響を及ぼしている。紀元前5世紀に慣習法を成文化した十二表法が生まれたのを起点に、民会立法、政務官や元老院の告示が出され、帝政期には皇帝の勅令なども法源となった。
歴史上初めて法学が生み出され、学者たちによる法や判例の研究と法令の集成が進められた。元来ローマの法は市民のみが対象であったが、市民権が拡大し、ヘレニズムのコスモポリタン思想の影響も加わって、帝国内のあらゆる民族に適用されるべき万民法が意識されるようになった。
4世紀からはキリスト教保護の法が新たに出されるが、立法よりも法令の編纂と集大成が皇帝によって推進され、5世紀になって『テオドシウス法』が成立し、6世紀には東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝のユスティニアヌス1世がトリボニアヌスらの法学者に命じて大規模な『ローマ法大全』を編纂させた。

ササン朝
ペルシア商人とアクスム商人

6世紀の東ローマ帝国の歴史家・プロコピオスの伝えるところによると、ササン朝をつうじて、シルク・ロード経由で中国の絹を入手することを嫌ったユスティニアヌス帝は、同盟国アクスム王国の王に、インド経由で絹を輸入してくれるよう依頼した。しかしその当時インド西岸の諸港においては、ペルシア商人の勢力がアクスム商人のそれを上回っていたため、絹はペルシア商人によって買い占められ、ユスティニアヌスは海路によって絹を入手することができなかったという。

ホスロー1世である。ホスロー1世は東ローマ帝国ユスティニアヌスと対抗して西方での戦いを優勢に進める一方で、トルコ系遊牧民の突厥とっけつと同盟を組んで、エフタルを挟撃して滅ぼした。またマズダク教を弾圧し、税制・軍制の改革や官僚制の整備といった内政にも力を注いだので、国力は回復しササン朝は最盛期を迎えるにいたった。

ギリシア文化

プラトンソクラテスの思想を対話篇で再現しつつ、彼自身のイデア論ポリスの理想的なあり方を説いた(『国家』『法律』など)。彼はアテネに学問所アカデメイアを開いて哲学を教え、シラクサの僭主せんしゅから招かれて現実のポリス改革を行うことも試みた。

アカデメイアはプラトン以後も続けられ、哲学の殿堂であった。古代末期になって東ローマのユスティニアヌス帝によって閉鎖された。
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