ヨーゼフ2世( A.D.1741〜A.D.1790)
- 神聖ローマ帝国ハプスブルク=ロートリンゲン朝皇帝(在位1765年 - 1790年)
- オーストリア大公(在位1780年 – 1790年)
- ハンガリー王(在位1780年 – 1790年)
- ボヘミア王(在位1780年 – 1790年)
フランツ1世(神聖ローマ皇帝)とマリア・テレジアの長男。マリー・アントワネットの兄。ハプスブルク家の男系は母マリア・テレジアまでであり、ヨーゼフ2世らの代からハプスブルク=ロートリンゲン家となる。
ヨーゼフ2世
母マリア・テレジアと共に啓蒙専制君主の代表とされる。農奴解放令、宗教の寛容令、拷問の禁止、修道院の解散など急進的な改革を強行したが、どれも成果をあげることはできなかった。「民衆王」「皇帝革命家」ともよばれる。
生涯
1741年、オーストリア継承戦争時に長男として生まれる。
1760年、同年齢のフィリッポ1世(パルマ公)の娘マリア・イザベラ・フォン・ブルボン=パルマと結婚
1763年、イサベラは天然痘に罹病し、第2子を早産(生後2時間で死亡)した末にあえなく世を去る。
1765年、カール7世(神聖ローマ皇帝)の娘マリア・ヨーゼファ・フォン・バイエルンと再婚。父フランツ1世(神聖ローマ皇帝)の死に伴い皇帝に選出される。母マリア・テレジア以上に徹底した改革を行おうとしたため、たびたび母との間で衝突が起こった。
1767年 ヨーゼファ死去。かつて母の婚約者候補だったフリードリヒ2世(プロイセン王)を崇拝し、その啓蒙主義に傾倒して母を悲しませる。
1772年、母マリア・テレジアの反対を押し切り、第1回ポーランド分割に加わる。
1780年、マリア・テレジアの死により単独統治を開始。
1781年に農奴解放令を発布。これは領主貴族ではなく君主による農民の直接支配を図ったものであり、フランス革命前のヨーロッパで最も革命的な改革であった。また、同年に宗教寛容令を発布して、ルター派、カルヴァン派、正教会の住民に公民権上の平等を認めた。さらに教会への給付金を縮小し、教育や病人看護をしない多くの教団や修道院を解散させ、その財産を国家が掌握することで財政を富ませた。また、行政と司法の改革をして貴族の特権を廃止して弱体化させた。その他に、皇室の料地であったプラーター公園を一般市民に開放したり、小学校を多数建てたり、ウィーン総合病院を開設するなどの政策を行った。貴族勢力と教会の弱体化を図りつつ商工業を発達させ、富国強兵・王権強化を図ったが、その改革の多くは抵抗勢力に阻まれた。
1790年、フランス革命が激化する中で病で死去。父フランツ1世(神聖ローマ皇帝)からトスカーナ大公位を継いでいた弟のレオポルト2世が代わって皇帝位を継いだ(レオポルト2世(神聖ローマ皇帝))。
参考 Wikipedia
ヨーロッパ主権国家体制の展開
危機の時代の主権国家
ポーランド分割
プロイセンとオーストリアの絶対王政
画面右側、椅子に座り指で自分を指している女性がマリア・テレジア。夫フランツ1世(神聖ローマ皇帝)も左手で彼女を指しているが、長男ヨーゼフ2世も同様の仕草をしている。また、この絵には多数の子供が描かれているが、彼女は合計16人を出産した。