レコンキスタ
A.D.718〜A.D.1492
イベリア半島を支配したイスラームに対し征服された国土を回復しようとする主としてキリスト教徒スペイン人の約780年にわたる民族的運動。(国土回復運動)
711年、ウマイヤ朝による西ゴート王国の征服とそれに続くアストゥリアス王国の建国から始まり、1492年のグラナダ陥落によるナスル朝滅亡で終わる。
レコンキスタ
イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の発展
西方イスラーム世界
モロッコにおこったムワッヒド朝(1130〜1269)は、ムラービト朝を倒すとマラケシュに首都を定め、さらにイベリア半島南部を支配下におさめた。経済の基礎は貿易路の支配にあったが、皮革をはじめとする手工業の発達も著しく、哲学・医学・文学などイスラーム文化が大いに栄えた。
イブン・ルシュドが、哲学者・医学者として活躍したのもこの王朝の時代である。しかし、このころイベリア半島では、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が高まり、ムワッヒド朝はナバス・デ・トロサの戦いで手痛い敗北を喫した。
ムワッヒド朝の敗退後、イベリア半島では、最後のイスラーム王朝となったナスル朝(1230〜1492)が、わずかにグラナダとその周辺地域を保っていた。しかし1479年、アラゴンとカスティーリャの統合によってスペイン王国が成立すると、イスラーム教徒に対するレコンキスタの圧力はさらに強まった。そして1492年にスペイン王国がグラナダに入城し、イスラーム教徒の多くは北アフリカに引き揚げた。これによって、800年余にわたって続いたイベリア半島のイスラーム時代は終わりを告げた。
彼らが残したアルハンブラ宮殿は、華麗な建築様式と繊細なアラベスク模様によって、イベリア半島における末期イスラーム文化の美しさを今に伝えている。
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ中世世界の変容
スペインとポルトガル
711年、ムーア(ベルベル)人により西ゴート王国が征服( アラブ人の征服活動 – 世界の歴史まっぷ)されて以来、イベリア半島の大半がイスラーム教との支配を受けた。初めの300年ほどは後ウマイヤ朝(756〜1031)の支配下に統一を保ち、都のコルドバや西ゴートの都であったトレドを中心に経済・文化が発達し、西ヨーロッパ屈指の繁栄を誇った。
レコンキスタの前進基地には多数の城塞を築いたところから、カスティリャ(ラテン語で城の意)と呼ばれ、10世紀にはカスティリャ王国が成立、まもなくそのフェルナンド1世(カスティーリャ王)はレオン王国を併合した。
他方ピレネー山脈地方でも、9世紀にナバラ王国が成立、サンチョ大王(サンチョ3世(ナバラ王))(位1000〜1035)のもとでバルセロナまで征服し、その子ラミロ1世(アラゴン王)によりアラゴン王国が建設された(1035)。このカスティリャとアラゴンという新興両王国を中心に、その後のレコンキスタは展開された。
そのころ、後ウマイヤ朝は滅亡し(1031)、イスラームのイベリア支配は20余りの小王国の時代を迎えたが、レコンキスタとの関わりで重要な位置を占めたのは、サラゴサ・セビリャ・グラナダの3王国である。アラゴン王国の歴代の王はサラゴサを攻め、教皇の呼びかけによる連合軍も結成された(1064)が失敗に終わり、その占領は12世紀初頭にまでもちこされた。
他方、アルフォンソ6世(カスティーリャ王)(位1072〜1109)はトレドを占領(1085)、ついでセビリャを攻めたが、アフリカからベルベル人のムラービト朝軍が来援、失敗した。13世紀初頭、カスティリャ・アラゴン・ナバラの連合軍はムラービト朝にとって代わったムワッヒド朝軍に決定的勝利をおさめ、コルドバ・セビリャを相次いで回復した。その結果13世紀半ばには、イスラーム勢力はグラナダ1国を残すのみとなった。ナスル朝のグラナダ王国(1230〜1492)は、カスティリャ王国に貢納しながらも独立を保ち、集約的農業と交易により栄えた。学芸が保護され、アルハンブラ宮殿も建設された。
すでにカタルーニャ・バレンシアとの連合王国を形成していたアラゴン王国は、その後地中海に向けて発展、13世紀後半にシチリア島、14世紀にサルデーニャ島、そして15世紀前半にナポリ王国を征服して絶頂期に達したが、国内では貴族や都市との抗争に苦しんだ。
一方、カスティリャ王国では14〜15世紀をつうじて王権が強化され、貴族との対立が激化した。また、小農経営を無視した牧羊業の推進と牧羊者組合(メスタ)の保護は農業の荒廃をもたらし、農民一揆や反ユダヤ暴動を引き起こした。
しかし、1469年アラゴン王子フェルナンド(フェルナンド2世(アラゴン王))とイサベル1世(カスティーリャ女王)が結婚、1479年には両国が統一されてスペイン王国が誕生すると、混乱は次第に収拾に向かった。
そして1492年、両国によりグラナダは陥落( 西方イスラーム世界 – 世界の歴史まっぷ)し、レコンキスタは終了した。同時にコロンブスによりアメリカ大陸への道が開かれ、スペインは西ヨーロッパの強国になっていく。
ポルトガル王国は1143年、ローマ教皇の仲介でカスティリャ王国から分離独立する(アフォンソ1世(ポルトガル王))(位1139〜1185)と、13世紀半ばまでにレコンキスタを完了した。
十字軍の背景
古代末期以来のキリスト教の普及とともに、ヨーロッパの人々の間に聖地巡礼熱が高まった。なかでも11〜12世紀ころには、ローマ、イェルサレム、サンティアゴ・デ・コンポステーラが三大巡礼地として人気を集めた。
だが、それらの地域への巡礼はいずれもイスラーム勢力との緊張関係をはらむものであった。すでに、東方における東ローマ帝国やイスラームとの戦いは長期化していたが、西方のイベリア半島でも、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼熱と相まって10世紀頃からキリスト教徒の国土回復運動(レコンキスタ)が盛んとなり、イスラームとの戦闘により北部の各地にキリスト教の小王国、公国が自立していた。当時のヨーロッパで、この聖地巡礼とレコンキスタを積極的に奨励したのが、教会(修道院)改革運動の中心をなすクリュニー修道院であった。またイタリア半島南部でも、定着したフランス系ノルマン人がイスラーム統治下のシチリア島を征服(1061〜1091)、さらに東地中海に進出してイスラームや東ローマ帝国との間に戦いを引き起こしていた。
- 十字軍の背景 – 世界の歴史まっぷ
ヨーロッパ主権国家体制の展開
ヨーロッパ主権国家体制の形成
スペイン絶対王政の確立
イベリア半島では、1479年にカスティリャ王国とアラゴン王国が合併して、スペイン王国が成立した( スペインとポルトガル)。この国では、フェルナンド5世(カスティーリャ王)(フェルナンド2世(アラゴン王))とイサベル1世(カスティーリャ女王)(「カトリック両王」という)のもとで、封建貴族に対抗して都市と手を結んだ王権が強力になった。
以後歴代国王は、ローマ・カトリック教会の勢力をも背景に、異端審問など厳しい宗教政策を展開した。1492年には、最後に残ったイスラーム教徒の拠点、ナスル朝の首都グラナダを陥落させ、1492年にはユダヤ人、1502年にイスラーム教徒を、それぞれ追放した。数世紀におよんだ国土回復運動(レコンキスタ)が、ここで完成したということができる。
他方ポルトガルは、早くも12世紀にレコンキスタの過程でカスティリャから独立し、13世紀にはレコンキスタを完了した。15世紀初めにはエンリケ航海王子のもとで、アフリカのセウタを占領し、アフリカ西海岸を中心に対外進出に乗りだしていた。
グラナダ陥落によってようやくレコンキスタを完了したスペインは、このポルトガルとともに1493年、教皇名による分解線を設定、翌年、教皇抜きでこれを修正したトルデシリャス条約によって世界の2分割をはかった。さらにこうしてスペインは、対外的にも広大な植民地を獲得して世界帝国となっていった。
近代ヨーロッパの成立
ヨーロッパ世界の拡大
ポルトガルの東インド航路の発見
新航路開拓の事業を諸国に先駆けて進めたのは、イベリア半島のポルトガル・スペイン両国であった。イベリア半島ではキリスト教勢力により、イスラーム勢力を半島から駆逐するレコンキスタ運動( スペインとポルトガル)が11世紀ころから継続されてきた。半島西部でイスラームを駆逐し、いち早く中央集権化を完成させたポルトガルが、15世紀前半アフリカ西海岸の探検事業に乗りだした。航海王子と呼ばれたエンリケ航海王子(1394〜1460)は、サグレス岬に研究所をつくり、航海術や天文学の研究を進め、航海者を養成し、西アフリカ海岸探検・東インド航路探検に彼らをつぎつぎと派遣した。ポルトガルの船乗りは、マデイラ島・ヴェルデ岬をへて、1447年にはアゾレス諸島に達している。
新大陸の発見
1492年はコロンブス(1451〜1506)が大西洋を横切りインド諸島に到達、すなわちアメリカを「発見」した年である。カスティリャとアラゴンの結合により成立したスペインは、この年の1月、半島におけるイスラーム勢力最後の拠点グラダナを陥落させ、半島におけるレコンキスタ運動を完了させていた。これにひきついでイサベル1世(カスティーリャ女王)(位1474〜1504)は、コロンブスに支援を与えたのである。スペインの海外進出は、十字軍( スペインとポルトガル)的情熱で領土拡張をめざしたレコンキスタ運動が海外へと連続して拡大したものという見方もできる。
アジア諸地域の繁栄
トルコ世界とイラン世界
オスマン帝国下の社会
オスマン帝国は、イスラーム教徒以外のキリスト教徒やユダヤ教徒に対し、それぞれの宗教共同体(ミレット)の存在を認め、各共同体の長が内部の規約や紛争に関しては責任を負い、政府に対する徴税に協力するかたちで自治を認める体制をとった。これは、キリスト教徒やユダヤ教徒を同じ一神教の「啓典の民」として保護するイスラーム国家の伝統をひきつぐもので、厳しい異端審問をおこなったキリスト教の国家とくらべ、むしろ寛容さの表れといってもよい。このことは、15世紀中ごろ以降、レコンキスタ運動の進展によってイベリア半島を追われたユダヤ教徒が、イスタンブルやテッサロニケなどの都市に移住し、商人として重要な役割を果たしたことに表れている。またバルカンの諸民族の村落共同体に対しても、一定の自治を許容する体制をとった。