三条実美 さんじょうさねとみ( A.D.1837〜A.D.1891)
公卿。八月十八日の政変で失脚、長州に逃れた(七卿落ち)。王政復古後、議定となり、1871〜85年太政大臣。征韓論収拾に苦慮。1884年に公爵となる。1885年以後に内大臣。
三条実美
公卿。八月十八日の政変で失脚、長州に逃れた(七卿落ち)。王政復古後、議定となり、1871〜85年太政大臣。征韓論収拾に苦慮。1884年に公爵となる。1885年以後に内大臣。
七卿落ちで辛酸をなめた尊攘派公家の中心
王政復古による復活 明治の太政大臣
三条実美の父実万は、安政の大獄で処罰された尊攘思想のもち主だった。父の意思を継ぐように、実美も尊攘派公家の中心人物として成長していく。1863年(文久3)8月18日、公武合体派によるクーデター(八月十八日の政変)で朝廷内の攘夷派は一掃され、実美も七卿落ちのひとりとして長州に追われる。1864年(元治1)の禁門の変で長州が朝敵になると、翌年、実美らは筑前国大宰府に移されて幽閉生活を送ることとなる。悲運の月日は3年に及んだ。実美が悶々と暮らす間にも時局は激変を続け、王政復古の大号令とともにようやく幽閉が解かれた。明治の始まりとともに、実美は岩倉具視と並んで政治の表舞台に返り咲く。新政府における要職への復帰は、実美の門地だけでなく、尊攘派時代に示した指導者としての能力の高さによるものであった。内閣制度の導入によって太政官が廃止されると、実美は内大臣となる。これは「三条処遇のための名誉職」ともされたが、黙して引き受け、宮中に入って明治天皇の側近として輔弼
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
公武合体と尊攘運動
真木和泉
明治維新と富国強兵
中央集権体制の強化
官制改革
藩閥政府の形成
正院 | 太政大臣 | 三条実美(公家) | 参議 | 木戸孝允(長州) 西郷隆盛(薩摩) 板垣退助(土佐) 大隈重信(備前) |
左院 | 議長 | ー | 副議長 | 江藤新平(肥前) |
右院 | 神祇卿 | ー | 大輔 | 福羽美静(津和野) |
外務卿 | 岩倉具視(公家) | 寺島宗則(薩摩) | ||
大蔵卿 | 大久保利通(薩摩) | 井上馨 (長州) | ||
兵部卿 | ー | 山県有朋(長州) | ||
文部卿 | 大木喬任(肥前) | ー | ||
工部卿 | ー | 後藤象二郎(土佐) | ||
司法卿 | ー | 佐佐木高行(土佐) | ||
宮内卿 | ー | 万里小路博房(公家) | ||
開拓長官 | 東久世通禧(公家) | 次官 | 黒田清隆(薩摩) |
版籍奉還の直後、中央官制に大きな改革が行われ、神祇
新政府への反乱
明治維新に活躍した人々
氏名 | 出身 | 生没年 | 大政奉還時の年齢 |
---|---|---|---|
勝海舟 | 幕臣 | 1823(文政6)〜1899(明治32) | 45 |
大村益次郎 | 長州藩 | 1824(文政7)〜1869(明治2) | 44 |
岩倉具視 | 公家 | 1825(文政8)〜1883(明治16) | 43 |
山内豊信 | 土佐藩 | 1827(文政10)〜1872(明治5) | 41 |
西郷隆盛 | 薩摩藩 | 1827(文政10)〜1877(明治10) | 41 |
大久保利通 | 薩摩藩 | 1830(天保元)〜1878(明治11) | 38 |
吉田松陰 | 長州藩 | 1830(天保元)〜1859(安政6) | (30) |
木戸孝允 | 長州藩 | 1833(天保4)〜1877(明治10) | 35 |
橋本左内 | 越前藩 | 1834(天保5)〜1859(安政6) | (26) |
坂本竜馬 | 土佐藩 | 1835(天保6)〜1867(慶応3) | 33 |
井上馨 | 長州藩 | 1835(天保6)〜1915(大正4) | 33 |
榎本武揚 | 幕臣 | 1836(天保7)〜1908(明治41) | 32 |
徳川慶喜 | 将軍 | 1837(天保8)〜1913(大正2) | 31 |
三条実美 | 公家 | 1837(天保8)〜1891(明治24) | 31 |
後藤象二郎 | 土佐藩 | 1838(天保9)〜1897(明治30) | 39 |
山県有朋 | 長州藩 | 1838(天保9)〜1922(大正11) | 30 |
高杉晋作 | 長州藩 | 1839(天保10)〜1867(慶応3) | (29) |
伊藤博文 | 長州藩 | 1841(天保12)〜1909(明治42) | 27 |
立憲国家の成立と日清戦争
国家体制の整備
1885(明治18)年12月、政府機構の改革が行われ、太政官制が廃止となり、それにかわって近代的な内閣制度が創設された。すなわち、これまで皇族及び公家・大名出身者をもってあてていた太政大臣・左大臣・右大臣や、「藩閥」政治家の有力者が就任していた参議の職を廃し、各省の行政長官を国務大臣として、新しく内閣総理大臣をおき、その統轄のもとに各国務大臣をもって内閣を構成し、政治運営の中心とした。これは国会開設に備えて行政府の強化・能率化·簡素化をはかるとともに、責任体制を確立するのが目的で、これによって主に薩長出身の藩閥政治家たちが名実ともに実力者として、政治の中枢部を占めることになった。また内閣制度の制定に伴い、天皇の側近にあって相談相手(常侍輔弼