三藩の乱(
A.D.1673〜A.D.1681)
清は、清朝に投降した明朝の武将のうち、清の国内平定に功績のあった者を藩王に封じたが、清朝第4代康熙帝はその勢力削減策をはかったため、雲南の呉三桂(平西王)、広東の尚之信(平南王)、福建の耿精忠(靖南王)の三藩がおこした反乱を三藩の乱という。呉三桂が病死するとその勢力は急速に衰え、1681年、三藩は平定された。
三藩の乱
アジア諸地域の繁栄
清代の中国と隣接諸地域
清朝の統治
李自成によって明が滅ぼされると、長城(万里の長城)の東端に位置する山海関で清軍の南下に備えていた武将の呉三桂(1612〜1678)は清に投降し、対清軍の重要拠点であった山海関の門を開き、清軍を導き入れた(これを「入関」という)。当時清では、ホンタイジのあとをついだ順治帝(世祖 位1643〜1661)が幼少で即位し、叔父の睿親王ドルゴンが摂政として実権を握っていた。山海関を突破することができた清軍は、呉三桂らと共に李自成を破って北京を占領し、清は都を北京に遷して華北支配に着手した。
中国全土がほぼ平定された1661年、順治帝をついで康熙帝(聖祖 位1661〜1722)が即位した。清は中国平定に際して、明から投降した漢人武将をうまく利用した。清は華南の平定が終わると、その功績によって呉三桂を平西王として雲南に、尚可喜を平南王として広東に、耿継茂を靖南王として福建にそれぞれ藩王として封じた。これを三藩といい、彼らは強大な軍事力をもつ半独立政権であった。しかし清にとって中国全土を確実に支配していくためには、これら三藩の勢力は脅威となる存在であった。そこで康熙帝は三藩のとり潰しをはかった。こうした清の政策に対して、1673年、まず呉三桂が反旗をひるがえし、ついで尚可喜の子尚之信、耿継茂のあとをついだ耿精忠もこれに応じた。これを三藩の乱(1673〜1681)という。清はこれら三藩の軍に苦戦したが、呉三桂が病死するとその勢力は急速に衰え、結局三藩は平定された。
経過
- 藩の廃止決定を受けて、1673年11月呉三桂は「興明討虜」を旗印に自ら「天下都招討兵馬大元帥」と称して清に対する反乱を起こし、さらに翌1674年に国号を「周」とし元号「昭武」と定め貨幣の鋳造も行なった。
- 1674年(康熙十三年)、呉三桂は湖南を占領し、ここから軍を東西に分けて西は四川省・陝西省へ、東は広西・福建へ進軍させ、同時に尚可喜・耿精忠に対して呼応の誘いをかけた。
- 1674年2月には陝西で提督の王輔臣が、広西で定南王の娘婿孫延齢が挙兵し、3月には耿精忠も誘いに乗って反乱を起こした。
- 1676年4月に広東の尚之信は反清勢力に包囲される形勢となったため呉三桂に投降した。これに加えて台湾の鄭氏政権も呼応し、一時は長江以南は全て呉三桂らの反清勢力の手に落ちたため、清は危機的状況となった。
- 呉三桂たちは満州族を追い出して漢族の世を取り戻すとの大義名分を掲げていたが、その漢族王朝であった明の亡命政権を南に追い詰めて滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であり、反清勢力の結集は不可能であった。また、呉三桂たちの反乱はもとよりこれと言った方針があったわけではなく、自分達の権益を守るためのものであり、その思惑はそれぞれに異なるものであったことから、統一的な指揮系統を築くことができなかった。これらの弱点により清側も徐々に盛り返し、八旗軍を中心に反乱軍を各個撃破する事に成功した。
- 1676年(康熙十五年)、6月陝西が鎮圧され、10月に台湾の鄭氏政権と対立した耿精忠が、更に12月には尚之信及び広西の孫延齢の後を継いだ孔四貞が清に降伏した。
- 1678年(康熙十七年)3月、劣勢に立たされた呉三桂は意気を上げるために湖南省衡州(衡陽)で皇帝に即位したが、同年8月に病死した。
- 大将を失った反乱軍は呉三桂の孫の呉世璠が皇帝を継ぎ、雲南に撤退したものの、1681年に清軍に攻められて、10月呉世璠は自殺して、乱は終結した。
- 1683年には鄭氏政権が降伏し、国内の反清勢力は一掃された。康熙帝による君主独裁が完成し、康熙、雍正、乾隆の3代皇帝による清の絶頂期がもたらされる事となった。
参考 Wikipedia