元老院( A.D.1875〜A.D.1890)
日本史:1875年の大阪会議の結果、左院を廃して設けられた立法機関。1876年に憲法取調局を設け、80年にイギリス風の憲法草案「日本国憲按」を作成。帝国議会の開設により1890年に廃止された。
(世界史:senatus:公職経験者の終身議員から構成される、最高の諮問機関。国政全般にわたる諮問権を持ち、コンスルなど公職者に助言を与えた。前3世紀までは、民会での決定には元老院の承認が必要とされていた。)
元老院
senatus:公職経験者の終身議員から構成される、最高の諮問機関。国政全般にわたる諮問権を持ち、コンスルなど公職者に助言を与えた。前3世紀までは、民会での決定には元老院の承認が必要とされていた。
1875年の大阪会議の結果、左院を廃して設けられた立法機関。1876年に憲法取調局を設け、80年にイギリス風の憲法草案「日本国憲按」を作成。帝国議会の開設により1890年に廃止された。
日本史
近代国家の成立
立憲国家の成立と日清戦争
自由民権運動の始まり
征韓論が入れられずに辞職した板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らは、政府関係者の間に立憲政治論が広まるなかで、1874(明治7)年1月愛国公党を結成するとともに、民撰議院設立の建白書を左院に提出した。これは政府の政治のやり方をひと握りの有司(上級の役人)による専制政治であるとして非難するとともに、納税者には当然国政に参与する権利があるとし、民撰議院(国会)を設立して国民を政治に参与させ、官民一体化をはかることによって、はじめて国家・政府が強力になることができる、と主張するものであった。建白への賛否をめぐって国内には活発な論争(民撰議院論争)がおこり、世の知識人たちは国会開設問題についての関心を深め、ここに自由民権運動の口火が切られたのである。
板垣退助は建白後、まもなく郷里土佐(高知)に帰り、片岡健吉(1843〜1903)・林有造(1842〜1921)らの同志を集めて1874(明治7)年4月に立志社を結成し、自由民権思想の普及につとめた。ついで翌年、立志社を中心に全国の民権派結社(政社)の代表が大阪に集まって愛国社を創立した。
政府はこのような動きに対処して、1875(明治8)年、大久保利通が大阪において板垣退助及び木戸孝允(台湾出兵に反対して下野していた)と会合して協議を進め(大阪会議)、板垣・木戸を政権に復帰させて政権の強化をはかるとともに、「漸次ニ国家立憲ノ政体ヲ立テ」ることを約束する立憲政体樹立の詔を発布し、立法諮問機関である元老院と司法機関である大審院を設置した。さらに政府は、府知事・県令を集めて地方官会議を開いて地方議会を設ける方針を定め、1878(明治11)年には、大久保利通の意見に基づいて郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則のいわゆる地方三新法を制定した。これにより、廃藩置県後に設けられた大区・小区という行政区画が廃止になり、旧来の郡町村が行政単位として復活し、府県・郡区・町村の行政的体系化をはかるとともに、町村の自治が部分的に認められた。また、地方官会議開催の前後から府県知事の独自の判断で、一部に民会が設置されていたが、府県会規則の制定によって全国的に統ー的規則がつくられ、1879(明治12)年、全国いっせいに公選による府県会が開催された。府県会の権限は限定されたものであったが、府県の地方税によって支弁される予算案の審議権が認められ、豪農・地主など地方有力者が地方政治にかかわる機会が開かれた。こうして政府は自らの主導権のもとに立憲政治への準備を進めた。しかし一方では、新聞紙条例などによって、民権派などの反政府的言論活動を厳しく取り締まった。
世界史
オリエントと地中海世界
ローマ世界
共和政ローマ(身分闘争)
ローマでは任期1年の2名の執政官(コンスル)が貴族から選挙で選ばれ、軍民の最高官となり、このほか法務官や財務官などの政務官がおかれた。従来から長老たちの会議として存在していた元老院(セナートゥス)は次第に役職経験者の終身議員から構成されるようになり、執政官を監督指導して国政の実権を握っていた。平民は政治から締め出されていたが、自律的農民で、上層は重装歩兵として戦争にも参加したから、不満を持つようになった。また貧しい平民は借財に陥り、こうしては平民は貴族との間に身分闘争をおこして政治的権利の獲得を目指した。
貴族は国防上の必要を考えて譲歩し、紀元前5世紀初めに平民の権利を守って身体を神聖不可侵とされる護民官の制度を認め、平民会の設置をも許した。紀元前450年ころには最古の成文法として十二表法も設定されて平民の権利が法によって守られるようになり、やがて貴族と平民の通婚も可能になった。
そして紀元前367年に制定されたリキニウス・セクスティウス法は貴族など有力者による公有地の占有を制限する一方、執政官の一人を平民から出すことを定め、以後ほとんどの政務官職が平民に解放されていった。
こうして紀元前287年のホルテンシウス法によって、それまでは国家の正式な民会ではなかった平民会の決議が、元老院の承認を経なくともただちに国法となることが定められて身分闘争は一応終わった。しかしこのころには平民のうちの有力者が執政官になり、元老院に入って新貴族(ノビレス)となり、政権に参加していたから、元老院が権威と実権を持つ貴族寡頭政治的なローマの政治体制は維持されており、アテネにみられたような民主政はローマでは実現しなかった。
- 共和政ローマ(身分闘争) – 世界の歴史まっぷ
ローマ社会の矛盾
しだいに発展を続けるローマの社会では、市民の間の階層差が大きくなっていた。元老院議員は政治軍事指揮を担当し、戦争や属州統治によって大きな富をきずき、イタリアの公有地占有や農民からの土地の買い占めで大土地経営を行った。所領には戦争捕虜などの奴隷を投入して過酷な集団労働を行わせ、商品作物を生産した。このような大土地所有をラティフンディアと呼ぶ。