太祖(朝鮮) 李成桂 A.D.1335〜A.D.1408
朝鮮王朝の建国者(在位1392)。倭寇撃退などの功績から元を支持する高麗政府の命で明軍討伐の指揮官となったが、遠征途中で軍を引き返して権力を握り、1392年に新王朝を開いた。儒教(朱子学)を柱とした国家の基礎を築いた。
太祖(朝鮮)
朝鮮王朝の建国者(在位1392)。倭寇撃退などの功績から元を支持する高麗政府の命で明軍討伐の指揮官となったが、遠征途中で軍を引き返して権力を握り、1392年に新王朝を開いた。儒教(朱子学)を柱とした国家の基礎を築いた。
略歴
- 高麗の将軍として反乱軍を撃退
- 明建国をきっかけに李氏朝鮮を創始
- 官僚制中心の国づくり
高麗軍の武将から自ら国王に
14世紀の朝鮮半島は高麗王朝が支配していた。高麗は中国の征服王朝・元(王朝)の冊封体制(冊封体制: 中国,歴代王朝が東アジア諸国の国際秩序を維持するために用いた対外政策。中国の皇帝が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結んで彼らにその統治を認める(冊封)一方,宗主国対藩属国という従属的関係におくことをさす。-百科事典マイペディアより)にあった。しかし、衰えた元では、宗教結社を中心とした紅巾の乱が勃発。明王朝が成立した。
このとき紅巾の乱の反乱軍の一部が高麗に攻め入る。これを撃退したのが、高麗軍の武将・李成桂だった。李成桂は元の残党勢力を一掃し、当時暴威を振るっていた日本の海賊・倭寇も討伐し、名声を得た。李成桂は高麗王を廃し、「李氏朝鮮」を創始。明から朝鮮国王に封じられた。
李成桂は古い土地台帳を焼却。高齢時代の貴族の土地を没収した。拡大した公田を、新しく制定した科田法に基づき、官僚に支給した。同時に明にならって朱子学を官学として各地に学校を設立した。科挙を広く実施し、官僚体制を整えた。首都は漢城(現・ソウル)に置いた。内治に努めたが、晩年は後継者争いを機に退位し、定宗に譲位すると、仏門に入った。
14世紀の東アジア
蒙古襲来後の日本では鎌倉幕府が1333年に倒され、南北朝の争乱期となり、京都に室町幕府が成立した。しかし国内は南北朝の騒乱で統制がとれず、西日本の海賊集団は朝鮮半島南岸や中国江南の沿岸を略奪する倭寇となり、活動も次第に活発になった(前期倭寇)。
こうした朝鮮半島南岸における倭寇の活動に対して、高麗はその対策に苦しんでいた。明が元を中国から追い払うと、元の服属国であった高麗では、モンゴル高原に逃れた北元と結んで明を攻撃する計画が持ち上がった。倭寇の撃退などで名声を高めていた武将の李成桂は軍を率いて鴨緑江まで進んだが、高麗軍に戦意はなく明軍と敵対することに迷い、ついに彼は反転して首都の開城に入り、国王を廃して王子をたて、政権を握ることに成功した(1388)。彼は都を漢城(漢陽 現ソウル)に遷し、それまでの親元派から親明派政策に切り替え、また科田法を採用して田制の改革を実行した。こうして李成桂は1392年、部下に推されて王位についた(太祖)。国号を朝鮮と改めたことから李氏朝鮮(李朝)ともいう。
李氏朝鮮 歴代王一覧
横にスクロールします
李氏朝鮮国王一覧
姓・諱 | 廟号 | 日本読み | 朝鮮読み | 在位開始 | 在位終了 | 作品 | 党派 | 乱 | 父 | 母 | 封号 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
李氏朝鮮 | 第1 | 李成桂 | 太祖 | たいそ | 1393 | 1398 | 勲旧派 | 李子春 | 永興崔氏 | 権知高麗国事 | |||||||||
第2 | 李芳果 | 定宗 | ていそう | チョンジョン | 1398 | 1400 | 太祖 | 神懿王后 | 次男 | ||||||||||
第3 | 李芳遠 | 太宗 | たいそう | テジョン | 1400 | 1401 | 太祖 | 神懿王后 | 五男 | ||||||||||
1401 | 1418 | 朝鮮国王 | |||||||||||||||||
第4 | 李裪 | 世宗 | せいそう | セジョン | 1418 | 1450 | 太宗 | 元敬王后・閔氏 | 三男 | ||||||||||
第5 | 李珦 | 文宗 | ぶんそう | ムンジョン | 1450 | 1452 | 王女の男 | 世宗 | 昭憲王后・沈氏 | 長男 | |||||||||
第6 | 李弘暐 | 端宗 | たんそう | タンジョン | 1452 | 1455 | 癸酉靖難 | 文宗 | 顕徳王后・權氏 | ||||||||||
第7 | 李瑈 | 世祖 | せいそ | セジョ | 1455 | 1468 | 李施愛の乱 | 世宗 | 昭憲王后・沈氏 | 次男 | |||||||||
第8 | 李晄 | 睿宗 | えいそう | イェジョン | 1468 | 1469 | 世祖 | 貞熹王后・尹氏 | 次男 | ||||||||||
第9 | 李娎 | 成宗 | せいそう | ソンジョン | 1469 | 1494 | 士林派 | 世祖の長男・懿敬世子 | 仁粋大妃 | 次男 | |||||||||
第10 | 李㦕 | 燕山君 | えんざんくん | ヨンサングン | 1494 | 1506 | 戊午士禍 甲子士禍 中宗反正 | 成宗 | 廃妃・尹氏 | 長男 | |||||||||
第11 | 李懌 | 中宗 | ちゅうそう | チュンジュン | 1506 | 1544 | 己卯士禍 | 成宗の次男 | 貞顕王后・尹氏 | ||||||||||
第12 | 李峼 | 仁宗 | じんそう | インジョン | 1544 | 1545 | 中宗 | 章敬王后・尹氏 | 長男 | ||||||||||
第13 | 李峘 | 明宗 | めいそう | ミョンジョン | 1545 | 1567 | 乙巳士禍 | 中宗 | 文定王后 | 次男 | |||||||||
第14 | 李昖 | 宣祖 | せんそ | ソンジョ | 1567 | 1608 | 西人 | 東人 | 文禄・慶長の役 | 中宗の三男・徳興大院君 | 河東府大夫人鄭氏 | 長男 | |||||||
第15 | 李琿 | 光海君 | こうかいくん | クァンヘグン | 1608 | 1623 | 南人 | 北人 | 宣祖 | 恭嬪金氏 | 次男 | ||||||||
第16 | 李倧 | 仁祖 | じんそ | インジョ | 1623 | 1649 | 小北 | 大北 | 宣祖の五男・定遠君(庶子) | 仁献王后 | 長男 | ||||||||
第17 | 李淏 | 孝宗 | こうそう | ヒョジュン | 1649 | 1659 | 仁祖 | ||||||||||||
第18 | 李棩 | 顕宗 | けんそう | ヒョンジョン | 1659 | 1673 | 西人粛清 | 孝宗 | 仁宣王后 | 長男 | |||||||||
第19 | 李焞 | 粛宗 | しゅくそう | スクチョン | 1674 | 1720 | トンイ | 老論 | 少論 | 甲寅礼訴 庚申換局 | 顕宗 | 明聖王后 | 長男 | ||||||
第20 | 李昀 | 景宗 | けいそう | キョンジョン | 1720 | 1724 | 辛壬士禍 | 粛宗 | 禧嬪張氏 | 長男(庶子) | |||||||||
第21 | 李昑 | 英祖 | えいそ | ヨンジョ | 1724 | 1776 | イ・サン | 僻派 | 時派 | 壬午士禍 | 粛宗 | 淑嬪崔氏 | 次男(庶子) | ||||||
第22 | 李祘 | 正祖 | せいそ | チョンジョ | 1776 | 1800 | 功西 | 信西 | 辛酉教獄 | 英祖の次男・荘献世子 | 恵慶宮洪氏 | 次男 | |||||||
第23 | 李玜 | 純祖 | じゅんそ | スンジョ | 1800 | 1834 | 僻派 | 勢道政治 (安東金氏) | 正祖 | 綏嬪朴氏 | 次男 | ||||||||
第24 | 李奐 | 憲宗 | けんそう | ホンジョン | 1834 | 1849 | 純祖の長男・孝明世子 | 神貞王后 | 長男 | ||||||||||
第25 | 李昪 | 哲宗 | てっそう | チョルジュン | 1849 | 1863 | 正祖の弟・恩彦君の子・恩彦君 | 龍城府大夫人廉氏 | 三男 | ||||||||||
第26 | 李熙 | 高宗 | こうそう | コジュン | 1863 | 1897 | 明成皇后 | 江華島事件 壬午事変 甲申政変 東学党の乱 乙未事変 | 英祖の次男・荘献世子の三男・恩信君 の養子・南延君の四男・興宣大院君 | 驪興府大夫人閔氏 | 次男 | ||||||||
大韓帝国 | 高宗 | 1897 | 1907 | 第1代皇帝 | |||||||||||||||
第27 | 李坧 | 純宗 | じゅんそう | スンジュン | 1907 | 1910 | 高宗 | 明成皇后閔氏 | 長男 | 第2代皇帝 |