東林書院 (東林学院)
明末期、顧憲成が江蘇省無錫で運営した書院(学校)で、反宦官派の官僚である東林派の拠点。かつて宋代の朱子学者揚時が開いた書院を、1604年に顧憲成が再建。朱子学の理念から宦官による政治を批判し、1620年代から激しくなった東林派と非東林派の抗争の中で、1625年に非東林派の魏忠賢によって東林派の重要人物は逮捕され、獄死あるいは追放となり、東林書院は閉鎖された。
東林書院
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16世紀後半から17世紀前半にかけて、北虜南倭に続いて朝鮮半島や東北地方にも戦争が広がると、明朝は軍事費の増加のために財政難に陥った。こうしたなかで10歳の万暦帝(神宗 位1572〜1620)が即位すると、父である隆慶帝の遺命によって張居正(1525〜1582)が国政を担当した。張居正は内閣大学士として全権を掌握し、外交ではアルタン・ハンと講和し、内政では宦官勢力の抑制、行政整理による経費の節約、黄河の治水事業、さらに全国的な検知や一条鞭法の施行によって財政を安定させるなど、目覚ましい活躍をみせ、一時的ではあるが国内は安定した。ところが張居正の死後、万暦帝は宦官を重用し、政務を放棄して贅沢にふけり、そのため綱紀が乱れ、国力は再び衰えた。そうしたなか、いわゆる万暦の三大征や女真族の南下がおきると、その軍事費を捻出するため、鉱山開発や増税をおこなった。このために民衆の生活は困窮していき、各地で反乱(明変)がおき、社会は不安定になっていった。
これに加え、朝廷内部では万暦帝の後継者をめぐり対立がおき、また増税問題で宦官と結んで政界を左右しようとする官僚の一派と、これに反対する一族とが対立するなど、政界は党派争いが熾烈を極めていった。反対派のリーダーであったのが、顧憲成(1550〜1612)である。彼は、時の権力者張居正の政策に反対したため吏部の官を免職となり、出身地の江蘇省無錫に帰郷後、東林書院を復興して講義するかたわら、政府を痛烈に批判した。東林書院には現政府に批判的な官僚らが集まり、東林派を結成して政府への反対勢力となった。これに対し、東林派から批判をうけたグループは宦官と結んで非東林派を結成し、ここに東林派と非東林派との激烈な論争がくりひろげられ、やがて両者の対立は政争へと変わっていった。非東林派の官僚は宦官の魏忠賢(?〜1627)と結託し、万暦年間の末期には魏忠賢のために東林派の重要人物はことごとく逮捕され、獄死あるいは追放となり、東林書院も閉鎖されてしまった。
顧憲成などの在野の東林はメンバーが中心となって、1604年、顧憲成の出身地である江蘇省無錫県において、かつて宋の楊時が開いた書院を再建した。書院とは、宋代以降、公的私的につくられた学校のことである。顧憲成は、東林書院に多くの学生を集め、みずから講義をおこない「講学」という討論会を開いて政策や官僚を批判した。当時の政界に強い影響をおよぼしたため、魏忠賢に憎まれ、1625年、強制的に閉鎖された。
東林派・非東林派の政争が激化し混乱を極めていった明朝では、17世紀前半に即位した崇禎帝(毅宗 位1627〜1644)が、東林派・非東林派の政争を抑え、宦官魏忠賢を排除し、徐光啓らを用いて財政の再建に努めた。しかし、中国東北地方の女真族がヌルハチに率いられて強大となり、これを抑えるために明は軍隊を派遣した。軍事費を捻出するために新税を設けねばならず、また相つぐ飢饉で社会は疲弊し、ついには各地で反乱がおこり、明は内部分裂の状態となった。陜西地方の農民反乱のリーダーである李自成(1606〜1645)は、1644年、北京を陥落させ、崇禎帝は自殺し、ここに明は滅亡した。