松平信綱 まつだいらのぶつな( A.D.1596〜A.D.1662)
江戸時代初期の武蔵川越藩主、幕府老中、伊豆守。松平右衛門大夫正綱の養子。実父は大河内金兵衛久綱。母は深井藤右衛門好秀の娘。知恵伊豆として知られる。慶長9(1604)年徳川家光が生れるとその家人としてつけられ、元和9(23)年家光が第3代将軍の宣下を受けると、その政治に参画することとなった。以後第4代将軍徳川家綱にも仕え、寛永14(37)年の島原の乱や慶安4(51)年の由井正雪の事件(慶安事件)、江戸の大火(明暦の大火)に際して適切な処置をとり、幕府の政治的基礎固めに貢献。島原の乱鎮定の功によって武蔵川越7万5000石の領主となった。
松平信綱
江戸時代初期の武蔵川越藩主、幕府老中。伊豆守。松平右衛門大夫正綱の養子。実父は大河内金兵衛久綱。母は深井藤右衛門好秀の娘。知恵伊豆として知られる。慶長9(1604)年徳川家光が生れるとその家人としてつけられ、元和9(23)年家光が第3代将軍の宣下を受けると、その政治に参画することとなった。以後第4代将軍徳川家綱にも仕え、寛永14(37)年の島原の乱や慶安4(51)年の由井正雪の事件(慶安事件)、江戸の大火(明暦の大火)に際して適切な処置をとり、幕府の政治的基礎固めに貢献。島原の乱鎮定の功によって武蔵川越7万5000石の領主となった。
参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 プラス世界各国要覧 2018
幕藩体制の確立
幕藩体制の成立
禁教と寺社
1637(寛永14)年から翌年にかけて、島原の乱がおこった。この乱は、打ち続く飢饉であるにもかかわらず、島原城主松倉重政(?~1630)父子や天草領主寺沢広高(1563~1633)が領民に苛酷な年貢を課したり、キリスト教徒を弾圧したことに抵抗した百姓の一揆である。島原半島と天草島は、かつてキリシタン大名の有馬晴信と小西行長の領地で、一揆勢のなかにも有馬・小西氏の牢人やキリスト教徒が多かった。小西行長の遺臣益田好次(?〜1638)の子で16歳の天草四郎時貞(1623?〜38)を首領にいただいて、一揆勢3万余りは原城跡に立てこもった。幕府は板倉重昌(1588〜1638)を派遣して鎮定にあたらせたが失敗に終わり、ついで老中松平信綱(1596〜1662)が九州の諸大名ら約12万人の兵力を動員して原城を包囲し、兵糧攻めにした。また、オランダ船による海上からの砲撃を求め、ようやくこの一揆を鎖圧した。
朝鮮と琉球・蝦夷地
1655(明暦元)年、清が琉球に冊封使を派遣するとの動きを察知した薩摩藩は、幕府に伺いを立て、清の要求を拒絶して、清船を追い払うかどうかの指示を仰いだ。これに対する幕府の老中松平信綱から薩摩藩主島津光久(1616〜94)への回答は、清から冊封のほか辮髪や衣裳など風俗の強制があっても、これにしたがい、決して日中間で戦端を開くことがないようにとのことであった。1663(寛文3)年、清の康熙帝(1654〜1722)は琉球に遣使し、尚質王を「琉球国中山王」に冊封した。ただし、辮髪の強制はなかった。琉球は以後、薩摩藩の支配を受けつつも、清の冊封を受けるかたちでの、二重の外交体制を保つことになった。