松平慶永まつだいらよしなが (松平春嶽 A.D.1828〜A.D.1890)
号は春嶽。越前国福井藩主。将軍継嗣問題では一橋派として活動。安政の大獄で隠居謹慎となったが、1862年の文久の改革では政事総裁職に任じられた。
松平慶永
号は春嶽。越前国福井藩主。将軍継嗣問題では一橋派として活動。安政の大獄で隠居謹慎となったが、1862年の文久の改革では政事総裁職に任じられた。
橋本左内らを抜擢し藩政改革を進めた福井の名君
御三卿から親藩大名へ 人材発掘に天性の才能
松平慶永(春嶽)は、藩主就任後、藩財政の立て直しにあたり、教育係だった中根雪江や藩医の橋本左内を起用し、藩政改革を推進した。ブレーン集めは藩内にとどまらず、重商・富国政策を唱えていた横井小楠を顧間とし、小楠の薫陶を受けた由利公正に殖産興業を実践させ、成果を上げさせている。
ペリーが来航してくると、春嶽は鎖国攘夷を唱える。しかし老中である阿部正弘との意見交換や左内らの助言もあって開国通商論に転じ、開国したうえでの国家の独立自存と防衛の方策を考えるようになった。慶永は次期将軍に一橋慶喜を擁立しようとするが、紀州の徳川家茂を推す大老・井伊直弼に不時登城を理由に隠居・謹慎の処分を下される。直弼が桜田門外で非業の死を遂げると、慶永は大老に相当する重職である政事総裁職として幕政に復帰。将軍家茂の実現を拒んで隠居させられたはずが、家茂を将軍とする幕閣の代表格となつたのだから、皮肉なことである。だが、それまで蚊帳の外にいた長州藩が過激な攘夷運動に乗り出し、慶永が唱える公武合体論を呑み込みながら、時代の趨勢は尊攘論へと流れていった。
幕藩体制の動揺
幕府の衰退
経済近代化と雄藩のおこり
改革が比較的うまくいった薩長土肥など西南の大藩のほか、伊達宗城(1818-92)の宇和島藩、松平慶永(春嶽、1828-90)の福井(越前)藩などでも、有能な中下級藩士を藩政の要職に抜擢し、三都の商人や領内の地主・商人と結びついて積極的に藩営貿易などを行い、藩権力を強化した。これらの諸藩は、危機に直面して有能な中下級藩士を藩政に登用し、藩の財政難打開のために強引な方法で借金を整理し、さらに藩自身が商業や工業に乗り出して富裕化をめざし、それにより軍事力の強化をはかって藩権力を強化しようとした。これらの藩はのち雄藩として、幕末の政局に強い発言力と実力をもって登場することになる。
藩政改革
薩摩(鹿児島) | 藩主:島津重豪 調所広郷 島津斉彬 | 500万両の負債を無利息250年という長期年賦返済で棚上げ。 | 奄美3島(大島・徳之島・喜界島)特産の黒砂糖の専売制を強化。 | 琉球王国との貿易増大。 島津斉彬は洋式工場群(集成館)を建設。 |
長州(萩) | 藩主:毛利敬親 村田清風 | 銀8.5万貫(約140万両)の負債を37年賦返済で棚上げ。 | 紙・蝋の専売制を改革。 | 下関に越荷方をおいて、廻船の積荷の委託販売をして利益を得る。 |
肥前(佐賀) | 藩主:鍋島直正 | 均田制を実施し、本百姓体制を再建 | 陶磁器の専売制を進める。 | 日本で最初の反射炉を築いて大砲製造所を設けるなど藩権力を強化。 |
土佐(高知) | 藩主:山内豊重 改革派「おこぜ組」 吉田東洋 | おこぜ組が財政緊縮による藩財政の再建につとめるが失敗。 | 吉田東洋が紙・木材などの専売を強化する。 | |
水戸 | 藩主:徳川斉昭 藤田東湖 会沢安 | 全領の検地、弘道館を設立。 | 藩内保守派の反対で改革派不成功。 | |
宇和島 | 藩主:伊達宗城 有能な中下級藩士 | 紙・楮・蝋の専売強化。 | 村田蔵六を招いて兵備の近代化を図る。 | |
越前(福井) | 藩主:松平慶永(春嶽) 橋本左内 由利公正 | 教育の普及や軍備改革を行い、貿易振興策によって財政を再建 |
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
開国
1853(嘉永6)年にペリーが来航した直後、老中阿部正弘(1819〜57)はペリーの来日とアメリカ大統領国書について朝廷に報告し、先例を破って諸大名や幕臣に国書への回答について意見を提出させた。幕府は、朝廷や大名と協調しながらこの難局にあたろうとしたが、この措置は朝廷を現実政治の場に引き出してその権威を高めるとともに、諸大名には幕政への発言の機会を与えることになり、幕府の専制的な政治運営を転換させる契機となった。また、幕府は越前藩主松平慶永(1828-90)·薩摩藩主島津斉彬(1809〜58)·宇和島藩主伊達宗城(1818〜92)らの開明的な藩主の協力も得ながら、幕臣の永井尚志(1816〜91)·岩瀬忠震(1818〜61)・川路聖謨(1801〜68)らの人材を登用し、さらに前水戸藩主徳川斉昭(1800〜60)を幕政に参与させた。
政局の転換
ハリスから通商条約の調印を迫られていたころ、幕府では13代将軍家定(1824〜58)に子がなかったため、その後継を誰にするのかという将軍継嗣問題が大きな争点となっていた。越前藩主松平慶永・薩摩藩主島津斉彬・土佐藩主山内豊信ら雄藩の藩主は、「年長・英明」な将軍の擁立をかかげて徳川斉昭の子で一橋家の徳川慶喜(1837〜1913)を推し、譜代大名らは幼年ではあるが血統の近い紀伊藩主徳川慶福(のち徳川家茂、1846〜66)を推して対立した。
慶喜を推す一橋派は、雄藩の幕政への関与を強めて幕府と雄藩が協力して難局にあたろうとし、慶福を推す南紀派は、幕府の専制政治を維持しようとし、朝廷も巻き込んで激しく争った。結局通商条約をめぐる朝廷と幕府の対立、将軍継嗣問題をめぐる大名間の対立という難局に対処するため、南紀派の彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印するとともに、一橋派を押し切って慶福を将軍の継嗣に定めた。
通商条約の調印は、開港を好まない孝明天皇の激しい怒りを招き、幕府への違勅調印の非難は高まったが、井伊は一橋派を厳しく取り締まり、公家や大名とその家臣、さらには幕臣たち多数を処罰し、弾圧した。この安政の大獄では、徳川斉昭・徳川慶喜・松平慶永らは蟄居・謹慎などを命じられ、越前藩士の橋本左内(1834〜59)・長州藩士の吉田松陰(1830〜59)・若狭小浜藩士の梅田雲浜(1815〜59)・頼山陽の子三樹三郎(1825〜59)らが処刑されるなど、処罰を受けた者は100名を超えた。しかし、この厳しい弾圧に憤激し、水戸藩を脱藩した浪士たちは、1860(万延元)年、井伊を江戸城桜田門外に襲って暗殺した。
この桜田門外の変の結果、幕府の専制的な政治によって事態に対処しようとする路線は行き詰まり、幕府の独裁は崩れ始めた。
公武合体と尊攘運動
幕府による公武合体策は頓挫したが、11代将軍家斉の夫人が島津重豪(1745〜1833)の子で近衛家の養女であったことなどから知られるように、朝廷·幕府の双方につながりの深い外様の薩摩藩が、独自の公武合体策の実現に動いた。藩主の父島津久光は1862(文久2)年、寺田屋事件などで藩内の尊王攘夷派をおさえつつ、勅使大原重徳(1801〜79)とともに江戸に赴き、幕政の改革を要求した。幕府は薩摩藩の意向を入れて、松平慶永を政事総裁職に、徳川慶喜を将軍後見職に任命した。また、京都所司代などを指揮して京都の治安維持にあたる京都守護職を新設して、会津藩主松平容保(1835〜93)をこれに任命し、あわせて参勤交代を3年に1回に緩和し、西洋式軍制の採用、安政の大獄以来の処罰者の赦免など、文久の改革と呼ばれる改革を行った。
幕府の滅亡
新政府は、幕府はもちろん朝廷の摂政・関白も廃止し、天皇のもとに総裁・議定・参与の三職を設置した。ここに260年余り続いた江戸幕府は否定され、「諸事神武創業の始」に基づくことをかかげた、天皇を中心とする新政府が樹立された。総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には皇族・公卿と松平慶永や山内豊信らの諸侯10名、参与には公家からは岩倉具視、雄藩の代表として薩摩藩からは西郷隆盛・大久保利通、土佐藩からは後藤象二郎、福岡孝弟(1835〜1919)、ついで長州藩から木戸孝允・広沢真臣(1833〜71)らが任じられ、雄藩連合のかたちをとった。
その日の夜、京都御所の小御所で三職による小御所会議が開かれて徳川氏の処分が議論され、岩倉具視・大久保利通らの武力倒幕派が、松平慶永・山内豊信らの公議政体派を圧倒し、徳川慶喜に内大臣の辞退と領地の一部返上(辞官納地)を命じることを決定した。このため、慶喜は大坂城に引きあげ、新政府と対決することになった。