興宣大院君 こうせんだいいんくん (フンソンデウォングン A.D.1820〜A.D.1898)
高宗の生父。高宗の摂政として朝鮮の鎖国政策を推進したが、高宗の親政が始まると、王妃閔氏の一族に権力を奪われた。壬午軍乱に乗じて閔氏勢力の一掃を企てたが、清軍の介入で失敗。日清戦争後、日本の支援で親日政権を作ったが、短期間で失脚。
興宣大院君
高宗(朝鮮)の生父。高宗の摂政として朝鮮の鎖国政策を推進したが、高宗の親政が始まると、王妃閔氏の一族に権力を奪われた。壬午軍乱に乗じて閔氏勢力の一掃を企てたが、清軍の介入で失敗した。日清戦争後、日本の支援で親日政権を作ったが、短期間で失脚した。
朝鮮の王族。国王高宗の生父として権力を握り、鎖国攘夷策をとる。閔妃の台頭で一時失脚した。壬午軍乱でクーデタを起こして失敗。1895年、閔妃殺害後に一次政権に復帰したが失脚した。
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
朝鮮の開国
17世紀以降、清の従属国の立場にあった朝鮮王朝では、19世紀になると官僚間の党争や権門による政治独占など、政治的動揺が続いた。農村では貧富の差の拡大や相次ぐ災害などにより、社会不安が高まっていた。1811年におこった洪景来の乱は、不平を抱く官人層に指導された大規模な農民反乱であった。こうした状況のなか、1860年代になると、欧米列強は従来からの鎖国政策を続ける朝鮮にも開国を迫るようになった。列強の開国要求に対し、当時の朝廷の実権者大院君(1820〜98, 国王高宗(朝鮮)の父)は、強硬な攘夷政策をとってこれを拒否した。やがて明治維新後の日本政府も、朝鮮に対して開国を要求するようになった。そこでの西郷隆盛(1822〜77)、板垣退助(1837〜1919)らの征韓論はひとまず退けられた。1875年におきた江華島事件を契機に、日本政府は、朝鮮に強い圧力をかけ、翌76年、釜山・仁川・元山の3港の開港のほか、領事裁判権や日本側に一方的な無関税特権など、不平等条項を含む日朝修好条規(江華島条約)を結んだ。
興宣大院君 略年表
- 1863年 大院君政権成立
- 12月8日 – 安東金氏による権勢政治の中、哲宗が後嗣なく死去。
- 12月13日 – 安東金氏に対抗する豊壌趙氏の神貞王后と孝明世子の養子として自己の第2子李命福(当時11歳、後の高宗)を世子とし、自ら大院君となって摂政政治を開始
- 1865年
- 景福宮の重建工事のために営建都監(国家的建設を担当した臨時官庁)を置く
- 重建工事の費用捻出のため願納銭を広く大規模に集める
- 1866年
- 2月 – 天主教を大弾圧開始(絶種断族の刑)
- 興宣大院君の夫人閔氏の推挙で閔妃を王妃とする
- 9月 – ジェネラル・シャーマン号事件 ラ・ゲリエル号などフランス艦隊7隻、江華府城を約1カ月間占領
- 10月 – 丙寅洋擾(ベルヌー司教等外国人宣教師10名処刑)
明成皇后 第9話
- 11月6日 – 景福宮の重建工事の費用のために当百銭(1867年6月17日に中止)鋳造(物価の急激な上昇)
明成皇后 第10話
- 1968年
- 4月 – 英国商戦とドイツ人商人のオッペルトが来航し、開国を求めたが頑なに拒否されたため、興宣大院君の父、南延君の墓を荒らした。大院君は激怒して天主教徒が内通したとして迫害し、鎖国・攘夷政策を強化した。
- 書契問題
- 1869年
- 6月 – 蔚山などに外国船打ち払いの砲台砲軍をおく
- 1871年
- 5月9日 – 軍布法を廃止して戸布法を実施
- 6月 – 米国ジェネラル・シャーマン号事件の報復として江華島侵攻(辛未洋擾)
- 斥和碑(斥洋碑)を全国八道四都に設置
明成皇后 第18話
- 1871年
- 朝鮮大飢饉
- 1873年 大院君追放/閔氏政権の成立
- 11月3日 – 崔益鉉(チェ・イクヒョン)、大院君政治を批判する「上疏」
明成皇后 第25話
- 高宗親政、大院君失脚(摂政の座を降りる)(癸酉政変)
- 閔氏が政権を取る。大院派の人々は追放・流配・処刑等で追放。
- 閔氏一族の官吏30数名高官に。
- 12月10日 – 閔妃の宮殿に仕掛けられた爆弾が爆発
明成皇后 第38話
- 1874年
- 3月 – 閔妃男子「坧」出産(後の純宗)
- 宮女である李尚宮と高宗の長男「完和君」を世子とする大院君派と坧を世子としたい閔妃派で争い
- 11月 – 閔氏一族の最高実力者である義兄・閔升鎬宅に爆弾、彼と母子が爆死
明成皇后 第39話
- 1875年
- 8月 – 閔妃派、李裕元を世子冊封の奏請使として清へ。王世子(世継ぎ)として認められる(翌年1月帰国)
明成皇后 第43話
- 9月 – 江華島事件 日本の軍艦雲揚号と江華島で交戦
- 11月 – 大院君の兄・李最応の家に火が放たれる事件
- 1876年 日朝修好条規
- 江華島事件を口実に朝鮮との修好条約を目的に江華島に日本の軍艦が出現
- 2月27日 – 日本の明治政府と日朝修好条規締結
- 1877年
- 高宗第5男子平吉誕生(1891年義和君に封じられる)
- 1880年
- 大院君が世子候補として推薦した「完和君」(高宗の長男)が変死
明成皇后 第44話
- 1882年
- 1月 – 純宗、戴冠式
- 閔一族の高官閔台鎬の娘が世子嬪(皇太子妃)と決まる(後の純明孝皇后閔氏)
明成皇后 第59話
- 7月 – 壬午事変。 閔妃は昌徳宮から脱出し閔応植に匿われる。日本公使館包囲、焼き討ち、堀本工兵少尉ら数十名が死傷、花房義質公使ら逃亡→済物浦条約(8月30日)
明成皇后 第63話
- 8月26日 – 壬午事変の策動容疑で 大院君、清へ連行
- 1884年
- 12月 – 甲申政変 日本軍、王宮を占領。 閔妃失脚。
- 閔一族の閔台鎬(純宗の妃 純明皇后の父)、閔泳穆、趙寧夏らが殺され、閔泳翊は重傷を負う。
- 閔妃 袁世凱に清軍の助けで政権奪回。日本公使館焼失、居留民被害。(→漢城条約、天津条約)
- 金玉均、朴泳孝、徐載弼らは3日間で失脚 日本へ亡命(家族は服毒自殺、処刑等)
- 1885年
- 1月9日 – 日朝 漢城条約(日本:井上馨、朝鮮:金弘集)
- 4月15日 – 巨文島事件(イギリスが巨文島を占拠)
- 4月18日 – 日清 天津条約(日本:伊藤博文、清:李鴻章)日清両軍の撤退
- 朝露密約。日本 清に大院君の帰還要請。閔妃側 大院君帰国の通達に難色
- 10月3日 – 大院君、清から帰国(仁川)
- 1892年
- 6月 – 閔妃の大院君殺害陰謀(大院君邸内爆弾による火災)
- 1894年
- 3月28日 – 閔政権、上海に刺客洪鍾宇を送り、開化派の金玉均を暗殺
- 金玉均の遺体は清の軍艦威靖により朝鮮に届けられた。遺体は六支の極刑。(父は死刑、母は自殺、弟は獄死、妻の兪氏は、奴婢として売られる)
- 5月31日 – 農民軍全州占領。清と日本は出兵(甲午農民戦争→全州和約(6月))
- 7月 – 日本軍が王宮包囲、開化派中心の政権成立。閔氏政権を倒すクーデター
- 金弘集を中心とする政権 甲午改革
- 8月1日 – 日清戦争宣戦布告
- 1895年
- 3月30日 – 日清休戦条約
- 4月17日 – 下関条約
- 5月4日 – 三国干渉受諾(閔妃、親露政策へ)
- 7月6日 – 閔妃、ロシア公使ウェバーとロシア軍の力を借りクーデターに成功
- 7月10日 – 閔妃に関する謀議の風説の報告 朴泳孝は閔妃殺害計画を謀議したとされと京城を脱出、釜山経由で亡命
- 9月1日 – 三浦梧楼、韓国駐在公使として着任
- 10月7日 – 閔妃派政権、訓錬隊の解散と武装解除を通告
- 10月8日 – 閔妃暗殺される(乙未事変)
- 10月10日 – 大院君の提言で閔妃が王妃の身分を剥奪され平民とされる
- 1897年 大韓帝国成立
- 大韓帝国の成立とともに献懿大院王の尊号を受ける
- 1898年
- 2月22日 – 79歳で死去
興宣大院君 – Wikiwandより抜粋
興宣大院君 私邸
雲峴宮
興宣大院君の登場する作品
明成皇后
李氏朝鮮末期、欧米列強の影響が大きかった時代、第26代王・高宗の妃・明成皇后(閔妃)と、その義父・興宣大院君(高宗の父)との20年以上に渡る権力闘争、改革派(開化派)と守旧派(事大党)の路線闘争、さらに朝鮮半島をめぐる日本の安全保障問題、日本と清の覇権争い、日清戦争後の日本とロシア帝国の覇権争いなど過酷な状況を生きた朝鮮半島の悲しい世界。