藤原秀衡 (不明〜
A.D.1122〜A.D.1187
平安時代末期〜鎌倉時代初期の陸奥の豪族。奥州藤原氏第3代当主。奥州の金と馬によって蓄えられた財力により奥州藤原氏の絶頂期現出。源頼朝の挙兵後、陸奥守に任じられ、頼朝追討を命じられたが中立を保った。平氏滅亡後、頼朝と対立した源義経を平泉にかくまったが、秀衡の死の2年後、奥州藤原氏は源頼朝に滅ぼされた。遺骸はミイラとなって現在も中尊寺金色堂須弥壇に納められている。
藤原秀衡
奥州に栄えた独立王国の王者
源頼朝が恐れた北方の王者
平安末期、奥州平泉を中心とした一大勢力が誕生した。奥州藤原氏である。藤原秀衡は1157年(保元2)、父・藤原基衡の死後、奥州藤原氏の三代目となる。
奥州藤原氏の基礎を築いたのは藤原清衡であるが、その孫秀衡の時代に絶頂期を迎える。その繁栄は、奥州名産の金と馬によって蓄えられた財力による。その豊富な経済力は平泉の繁栄をもたらした。多数の人口を擁し、寺塔40余、僧坊300余といわれる中尊寺など京に匹敵するほどの寺院が建てられた。中でも堂の内外を金箔で覆った燦然たる金色堂は、奥州藤原氏の黄金文化の象徴であった。
秀衡が規模を拡大した毛越寺跡に残る庭園(岩手県平泉町)世界遺産「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」
一方、源頼朝が挙兵すると、平氏はこれを牽制するため藤原秀衡を陸奥守に任命し、源氏を討たせようとした。しかし秀衡は動かず、あくまで中立を決め込んだ。奥州はさながら独立国家の様を呈していた。
しかし、平氏が減ぶと、源頼朝に対抗しうる勢力は奥州藤原氏以外に残っていない。鎌倉と平泉との緊張が高まろうとするとき、1187年(文治3)、藤原秀衡は死を迎えた。死に際して秀衡は、「義経を主君(大将軍)として、兄弟の和融を保ち、頼朝にあたるべし」と遺言したという。源義経をかくまったことを口実に、頼朝から平泉への圧力が加えられるのは、秀衡の死の2年後、藤原泰衡の時代になってからである。
中世社会の成立
院政と平氏の台頭
院政期の社会
鳥羽方向の時代からは、不輸・不入の権をもつ荘園がさらに一般化し、不入の権の内容も警察権の排除にまで拡大されて、荘園の独立性はいっそう強まった。
源義家の去った後の奥羽地方では、陸奥の藤原清衡の支配が強大となった。清衡はやがて平泉を根拠地として、奥州と出羽の2国に勢力を伸ばし、金や馬などの産物の富によって摂関家や院と関係をもち、京都の文化を移入するとともに、北方の地との交易で独自の文化を育てて富強を誇った。その結果、子藤原基衡・孫藤原秀衡と3代100年にわたる奥州藤原氏の基礎を築いたのである。こうして院政期には、私的な土地所有が展開し、院や大寺社、武士が独自の権力を形成するなど、広く権力が分化していくことになり、社会を実力で動かそうとする風潮が強まった。それらを特徴とする中世社会はこの院政期に始まったのである。
源平の争乱
源頼朝の勢力増大を恐れた後白河法皇は、軍事に優れた源義経を重く用い、頼朝の対抗者にしようと試みた。頼朝は法皇の動向を警戒し、凱旋する義経を鎌倉に入れず、京都に追い返した。法皇は義経と叔父源行家に九州・四国の武士の指揮権を与え、頼朝追討の命令を下した。しかし武士たちは頼朝を重んじて法皇の命令を聞かず、義経は孤立し、奥州平泉の豪族藤原秀衡のもとに落ち延びた。秀衡の死後、その子の藤原泰衡は源義経を殺害して頼朝との協調をはかったが、頼朝は自ら大軍を率いて奥州に進み、藤原氏一族を滅ぼした。1189(文治5)年のことである。これにより、武家の棟梁としての頼朝の地位を脅かすものは誰もいなくなったのである。