足利義満(
A.D.1358〜A.D.1408)
室町幕府第3代将軍(在職1368〜394)。将軍就任後、有力守護を次々に粛清し、将軍独裁体制を確立。南北朝統一を果たす。京都室町に花の御所、北山第を造営した。出家後も皇統への干渉、日明貿易を開始するなど絶大な権力を振るった。
足利義満
南北朝の合一を実現、室町幕府絶頂期を築く
将軍・足利義満が目指したのは将軍職の地位の向上であった。
まず3か国の守護を兼ね強盛を誇った土岐氏の内紛に乗じて勢力を削ぐ。日本60余州の6分の1にあたる11か国を領し権勢を誇った山名氏を挑発、山名氏を山陰3か国に封じ込めた。
山名の後退によって当面の敵はいなくなり、義満は懸案の南北朝問題に取り組む。有力武将の戦死や寝返りで弱体化しきっていたとはいえ、神器は南朝がもっている。いつ不満分子が南朝と結びつくとも限らない。政権を磐石なものにするためにも、天皇はひとりでなければならなかつた。義満は大内義弘に和睦工作を命じ、「譲国の儀式」による神器譲渡、両統迭立などの条件を南朝側に提示した。
華やかなりし北山第を今に伝える鹿苑寺:足利義満の山荘であり、文化の発信地でもあった北山第の遺構。義満没後に殿舎は移築・破壊され、現在残るのは舎利殿の金閣(京都市北区)のみ。1950年火災で消失したが、再建。世界遺産「古都京都の文化財」
南朝側に拒絶する余力はもはやない。1392年(元中9・明徳3)、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に神器を伝え、南北朝の対立は終わった。
しかし、南北朝合一の功により幕内で重きを成した大内義弘が、明朝との貿易で富を蓄え新勢力として台頭、足利義満の新たな脅威となった。義満は大内を巧妙に挑発、挙兵した義弘は、堺での激しい戦闘ののち、呆てた(応永の乱)。応永の乱の2年後、義満は日明貿易(勘合貿易)を始める。日明貿易によって明が政治的・財政的な後ろ盾となり、義満は国内における超越的な地位を確立することができたといえる。1405年(応永12)に禁中で行われた先帝の13回忌では、義満の清涼殿に着座での儀礼に法皇の待遇が与えられ、翌年後小松天皇の実母が亡くなると自らの正日野康子を准母(天皇の名目上の母)とした。これにより義満は上皇に準じる立場を得た。その3年後、子の足利義嗣を北山第で天皇と対面させ、義嗣の元服のが内裏で挙行された。こうして法皇の座をほぼ手中に収めた義満だったが、義嗣元服の11日後、還らぬ人となった。
1378年、足利義満は室町に新第を造営し、三条坊門第より移住した。室町幕府の名はこの新第に由来するもの。新第は別名「花の御所」とも呼ばれ、四季折々の花が美しさを演出したという。
武家社会の成長
室町幕府の成立
室町幕府
長い間続いた戦乱も、尊氏の孫の足利義満(1358~1408)が将軍職につくころになると、終息の方向に向かった。足利氏の政権は安定し、諸国の武士も幕府が派遣した守護の指揮下に組み入れられていった。南朝側は抵抗する術を失い、幕府との話し合いに応じざるを得なくなった。1392(明徳3)年、南朝の後亀山天皇(在位1383~92)は義満の呼びかけに応じて京都に帰り、北朝の後小松天皇(在位1382~1412)に譲位するというかたちで南北朝の合一が実現した。和平の条件として将来は両統が交互に皇位につくと約束されたが、実現はしなかった。幕府は南朝の皇族をつぎつぎに出家させ、子孫を絶った。南朝の人々は深くこれを恨み、南朝の子孫や遺臣の反乱は、応仁の乱ころまで繰り返しおきていた。
義満は京都の室町小路に面して壮麗な邸宅をつくり、ここで政治を行ったので室町幕府という。この図は義満の時代のものではないが、将軍邸を伝えるもの。四季折々の名木が植えられ、花の御所とよばれた。
義満は1378(永和4)年、京都の室町に花の御所と呼ばれる新邸を営み、 これをもって室町幕府の名称が生まれる。ただ、足利氏の幕府は、鎌倉幕府や江戸幕府という呼び方からすれば、京都幕府と呼ぶべきもので、幕府は商業都市として繁栄していた京都への支配権を朝廷から順次奪っていった。鎌倉時代、朝廷経済に占める都市としての京都の比重は大きく、朝廷は検非違使の活動を通じて、商人の保護と購買者である京中の人々の生活の安定とをはかっていた。幕府は侍所の機能を充実させることで、市中の警察権、市中の刑事・民事の裁判権などを検非違使庁から取り上げていった。都市民の生活を守るものが幕府であることを明らかにしたうえで、1393(明徳4)年には市中商人への課税権を確立した。検非違使の職務を吸収して京都支配が開始され、幕府は名実ともに京都の幕府として歩み始めた。
幕府はこのほかにも、諸国に段銭を賦課する権限や外交を行う権限など、朝廷が保持していた機能を管轄下におき、全国的な統一政権としての実を整えた。将軍の権威も著しい高まりをみせた。義満は将軍として初めて太政大臣に昇り、摂家以下の貴族をもしたがえた。貴族諸家の義満への崇敬はあたかも臣下のごとしと、ある貴族は日記に書き留めている。義満の妻日野氏は天皇の准母(名目上の母)となり、義満の子足利義嗣(1394〜1418)は親王と同等の格式を許された。義満自身もその死後に太上法皇の称号を贈られようとした。このときは幕府側が辞退したために実現しなかったが、義満は天皇・上皇を超える権力を誇り、明(王朝)との交渉では日本国王として振る舞っている。
幕府の機構も義満の時代にはほぼ整った。将軍を補佐するのは管領であり、足利一門の有力守護の斯波・細川・畠山3氏が交代で任命され、三管領と呼ばれた。管領は侍所・政所・問注所を統轄し、将軍の命令を諸国の守護に伝達した。侍所はすでに述べたように京都の警備や裁判をつかさどり、その長官(所司)はおおむね山名・赤松・京極・一色の4氏の守護のうちから任じられた。三管領に対し、これを四職という。政所には実務官僚ともいうべき奉行人が所属し、幕府の財政や事務を担当していた。奉行人は各種の奉行の総称で、飯尾・松田・斎藤・清氏ら、将軍直臣の特定の家々で構成されていた。評定衆や引付もおかれたが、奉行人の働きが盛んになるにつれ、名のみの存在になった。
将軍を支える軍事力の整備も進んだ。古くからの足利氏の家臣、守護の一族、他方の有力武士が集められ、奉公衆という直轄軍が編成された。奉公衆は家臣を率いて在京し、将軍の警備にあたった。幕府は諸国に散在する将軍直轄地、御料所の代官に奉公衆を任じ、低率の年貢を上納させ、残りを彼らの得分とした。直轄地への代官の任命は江戸幕府にも継承されるが、これによって奉公衆は経済的な裏付けを得た。また諸国の守護の動静は、同国の御料所をもつ奉公衆によって牽制された。奉公衆は5部隊からなり、義満のころで3000騎を数えたという。守護が京都に連れて来た兵力が多くて200~300騎であるから、その強大さが想像できる。
優勢な軍事力を背景に、義満は有力守護の統制に乗り出した。まず1390(明徳元)年、美濃・尾張・伊勢3カ国の守護土岐康行(?〜1404)を討伐し、土岐氏を美濃1国に押し込めた(土岐氏の乱)。翌1391(明徳2)年には山陰の雄族の山名氏を討った。山名氏はかつて直義党に属し、足利直冬を奉じて長年幕府と戦った。降伏したのちも発展を続け、11カ国の守護職を有して六分の一殿と称された。義満は山名氏の内紛を利用し、山名氏清(1344〜91)らを滅ぼした(明徳の乱)。山名氏は3カ国の守護に転落した。1399(応永6)年には周防の大内義弘(1356〜99)を討った。義弘は港湾都市堺と博多を掌握し、朝鮮などとの交易で利益を上げていた。義満は謀略によって義弘を追い詰め、堺に立てこもった義弘を攻め減ぼした(応永の乱)。
幕府の地方機関としては鎌倉府やいくつかの探題がおかれた。尊氏は鎌倉幕府の基盤であった関東をとくに重視し、足利義詮の弟の足利基氏(1340〜67)を鎌倉公方として鎌倉府を開かせ、関東8カ国と伊豆・甲斐を加えた10カ国を支配させた。鎌倉公方は幕府と同じ組織をもついわば第2の幕府で、京都の幕府に強い対抗意識をもち、しばしば衝突を引きおこした。
室町文化
北山文化
室町時代の文化は、まず武家政権を確立した3代将軍義満の時代に開花した。将軍にして初めて太政大臣にのぼり、名実ともに公家・武家の頂点に立った義満の時代にふさわしく、その文化は武家文化と公家文化の融合という点に大きな特色をもっている。義満は京都の北山に壮麗な山荘:(北山殿)をつくったが、そこに建てられた金閣(鹿苑寺金閣)の建築様式が、伝統的な寝殿造や禅宗寺院の禅宗様など、さまざまな文化を折衷したものであり、この文化の特徴をよく表しているので、この時代の文化を北山文化と呼んでいる。
義満も、祖父尊氏の天竜寺にならって相国寺を建立するなど、臨済宗をあつく保護したほか、寺格の整備にもつとめ、南宋の官寺の制にならって五山・十刹の制を確立した。五山の制は、鎌倉時代末期に北条貞時(1271~1311)が鎌倉の禅寺に導入したのが最初で、その後、後醍醐天皇や足利直義らもそれぞれに五山・十刹を定めたが、義満のときに、南禅寺を五山の上とし、天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を京都五山、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺を鎌倉五山とする体制が固まった。十刹とは五山につぐ官寺のことで、中国では文字通り10カ寺であったが、日本では寺数制限がなく、全国各地に10カ寺以上定められた。さらに十刹についで諸山(甲刹)があったが、その数は中世末期には230カ寺にも達している。幕府は僧録(僧録司)をおいて、官寺を管理し、住職などを任命した。初代僧録には疎石の弟子であった春屋妙砲(1311〜88)が任命されたが、その後僧録は相国寺鹿苑院におかれたので鹿苑僧録とも呼ばれるようになった。
この五山の禅寺を中心に禅俯たちによる中国文化の影響の強い文化が生まれ、武家文化の形成にも大きな影響を与えた。禅僧たちには中国からの渡来僧や中国で学んだ留学僧が多く、彼らは禅だけでなく禅の精神的境地を具体化した水墨画・建築様式などを広く伝えた。水墨画では、南北朝時代にも黙庵や可翁らがすでに活躍していたが、この時代になると、『五百羅漢図』などを描いた明兆(兆殿司 1352〜1431)、妙心寺退蔵院の『瓢鮎図』で知られる如拙(生没年不詳)、如拙の弟子で『寒山拾得図』『水色巒光図』などを描いた周文(生没年不詳)ら、多くの優れた画僧が登場した。また五山の禅僧たちの間で宋学の研究や漢詩文の創作も盛んになり、足利義満のころ絶海中津(1336〜1405)· 義堂周信(1325〜88)らが出て、いわゆる五山文学の最盛期を迎えた。彼らは、中国文化に対する豊富な知識から都府の政治・外交顧問としても活躍し、中国・朝鮮に対する外交文書の起草なども行った。このほか、五山版と呼ばれる禅の経典・漢詩文集などの出版事業も行うなど、中国文化の輸入に禅僧たちが果たした役割はきわめて大きかった。
同時代の人物
永楽帝(1360〜1424)
明王朝第3代皇帝。父王洪武帝のたてた明王朝の燕王となるが、靖難の役で甥の建文帝の帝位を奪う。鄭和の艦隊派遣や外征で国力を高め、南海諸国の朝貢を促すことに成功(朝貢貿易)、明の全盛期を現出した。