閔妃 (明成皇后
A.D.1851〜A.D.1895)
高宗(李太王)の王妃。大院君を失脚させて政権を奪取。再起を策す大院君や圧力を増す諸外国勢力を相手に20年にわたり強かに戦い続けた。国内の反対勢力に過酷な弾圧を加える一方、日本 → 清国 → ロシアと提携の相手をかえて朝鮮の存立をはかったが、最後は日本公使の策謀により、王宮に乱入した日本人によって暗殺された。
閔妃
高宗(李太王)の王妃。立后後、高宗の父大院君を引退させ、閔氏一族の政権独占を図る。初め親日派と近代化を進めたが、壬午軍乱・甲申事変後は清・露勢力を背景に親日派を圧迫。日清戦争で勢力を失ったが、三国干渉後、ロシアに接近して親日派を追放、政権を握る。1895年に殺害された。
実権を握るも時代に翻弄される
19世紀の李氏朝鮮は、王の外戚である安東金一族が政治の実権を握っていた。これを抑え、11歳の高宗を即位させて政権を奪ったのが、閔妃の姉の夫・興宣大院君であった。
閔妃は高宗の妃に迎えられると、興宣大院君を失脚させ、政権を握った。そして日本海軍が朝鮮軍に砲撃されたこと(江華島事件)を機に、日本が朝鮮に開国を迫ると、閔妃は日本に接近。日朝修好条規を結んだ。
だが、閔妃の専横に対し、反乱(壬午軍乱)が勃発。派兵した清が閔妃を支持すると、閔妃は清に寄った。このため朝鮮では、日本につく独立党と、清につく事大党に別れた。独立党がクーデターを起こす(甲申政変)が、閔妃は清の力を借りて鎮圧。しかし日本が興宣大院君を支持すると、閔妃は、今度はロシアに接近。謀略を予知した日本兵が王宮に乱入し、閔妃は惨殺された。
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
甲午農民戦争と日清戦争
日朝修好条規の締結は、朝鮮の宗主国の立場にあった清を刺激し、清朝側でも李鴻章が中心となって朝鮮に対する干渉政策が推進された。おりしも朝鮮内部では複雑な政治抗争が展開され、これにからむかたちで朝鮮半島における日・清の対立が深まっていった。まず1882年、当初日本に接近して内政改革を進めていた閔妃(1851〜95, 国王高宗の妃)派の政府に対し、保守派の大院君が軍隊を扇動してクーデタをおこし、日本公使館が焼き打ちされるなどした。朝鮮に対する干渉強化の好機とみた清朝は、大軍を派遣して大院君を捕らえ、閔妃政権を復活させた。これを壬午軍乱(壬午政変)といい、この事件後、閔妃派は急速に清に接近するようになった。このように清の勢力下で朝鮮の安全維持をはかる一派を事大党と呼ぶ。これに対し、金玉均(キムオッキュン 1851〜94)ら急進的改革による朝鮮の近代化をめざす一派は独立党と呼ばれ、日本の明治維新をモデルとし、日本との提携をはかっていった。1884年、清仏戦争における清の敗戦に乗じ、独立党は日本の後援下に事大党政権打倒のクーデタをおこしたが、清軍の出動によって失敗に終わった。これを甲申政変(1884, 甲申事変)という ❶。 事件後、日清間に天津条約(甲申政変)が結ばれ、両国の朝鮮からの共同撤兵や、非常時の出兵に際しての事前通告などが約されたが、朝鮮における日本勢力の後退は明らかであった。
こうした状況のなかで、新興宗教の東学が窮乏農民や没落官人の信仰を集めるようになり、1894年4月、東学門下の全琫準(チョンボンジュン 1854〜95)が地方官の暴政に対し農民を率いて挙兵すると、「逐洋斥倭」(洋〈西洋〉と倭〈日本〉を排斥する)をスローガンに掲げる東学のもとに多数の農民が参集し、南部全羅道を中心に大農民反乱へと広がっていった。これを甲午農民戦争(東学党の乱)と呼ぶ。
甲午農民戦争がおこると、朝鮮政府は清に軍隊の派遣を要請し、清軍が朝鮮に出動すると、これに対抗して日本もただちに出兵をおこなった。ここにいたって、反乱が日清両国の朝鮮侵略を招く危険性を察知した朝鮮政府と東学党は、6月に停戦協定(全州和議)を結んだ。事件を朝鮮半島における勢力挽回の好機と考えた日本政府は、清国に対して甲午農民戦争の日清両軍による徹底鎮圧を提案し、朝鮮政府には内政干渉的要求を突きつけるなど、事態の紛糾と拡大化に努めていった。
日清両軍による甲午農民戦争の徹底鎮圧の提案が清朝側に拒否されると、7月末、日本は清軍に奇襲攻撃をかけ、ここに日清戦争(1894〜95)が勃発した。戦いは9月の黄海海戦で清国海軍の主力北洋艦隊を壊滅させ、同じく9月の平壌の戦いで清国陸軍を朝鮮から撤退させるなど、陸海ともに軍備の近代化で先行していた日本の圧勝に終わり、翌1895年4月、日本全権の伊藤博文(当時首相)・陸奥宗光(同外相)と清国全権李鴻章との間で下関条約が結ばれ、両国は講和した。
閔妃
朝鮮王朝第26代王高宗(朝鮮)の妃であった閔妃は、1873年に実力者大院君を失脚させて政権を奪取してより、再起を策す大院君や圧力を増す諸外国勢力を相手に、20年にわたってしたたかに戦い続けた。閔妃は国内の反対勢力に過酷な弾圧を加える一方、対外的には、日本 → 清国 → ロシアと提携の相手をつぎつぎにかえて朝鮮の存立をはかったが、最後は日本公使の策謀により、王宮に乱入した日本人によって暗殺された。
明成皇后 略年表
- 1851年(満0歳)
- 閔致禄の娘として生まれる。
- 1863年(満12歳)
- 12月 李氏朝鮮第25代朝鮮王哲宗が跡継ぎを残さず32歳で薨去。
高宗(朝鮮)即位。11歳であったためその父・李昰応が興宣大院君として摂政職となる。 - 1866年(満15歳)
- 9月 王妃となる。
- 1868年(満17歳)
- 宮女李尚宮に高宗の長子(完和君)生まれる。
- 1871年(満19歳)
- 閔妃 男子出産、男子は数日後死亡。
- 1873年(満21歳)
- 11月 高宗親政、大院君失脚(摂政の座を降りる)。
閔氏が政権を取る。大院君系列の人々は追放・流刑・処刑等で追放。
閔氏一族の官吏30数名が高官になる。
12月 閔妃の宮殿に仕掛けられた爆弾が爆発。 - 1874年(満22歳)
- 3月 男子出産(李坧、後の純宗)。
完和君を世子とする大院君派と李坧を世子とする閔妃派で争い。
11月 閔氏一族の最高実力者で領議政の閔升鎬(閔妃の義兄)宅が爆発。閔升鎬とその母子が爆死。 - 1875年(満23歳)
- 8月 李裕元を世子冊封使として清へ。李坧が王世子(世継ぎ)として清に認められる(帰国 翌年1月)。
9月 江華島事件→日朝修好条規
11月 大院君の兄李最応の家に火が放たれる。 - 1876年(満24歳)
- 2月27日 日朝修好条規が締結される。
- 1877年(満25歳)
- 高宗第5男子平吉(1891年(満29歳)義和君に封じられる)誕生。
- 1880年(満28歳)
- 側室の李尚宮が急死。その子(高宗の長男)完和君も変死(閔妃による暗殺説が濃厚)。
- 1882年(満30歳)
- 1月 李坧の戴冠式。
閔氏一族の高官閔台鎬の娘が世子嬪(王太子妃)と決まる(後の純明孝皇后閔氏)
7月 壬午事変 閔妃は侍女を囮にして昌徳宮から脱出し、閔応植に匿われるが、甥の閔泳翊は重傷、閔台鎬(純宗の妃 純明皇后の父)と閔永穆等が殺害される。日本公使館包囲、焼き討ち、堀本工兵少尉ら数十名が死傷、花房義質公使ら逃亡→済物浦条約
8月26日 政敵大院君が清へ強制連行される。大院君は天津で幽閉される。
8月30日済物浦条約 - 1883年(満31歳)
- 当五銭を発行。
- 1884年(満32歳)
- 12月 甲申政変 日本軍が王宮を占領する。 閔妃失脚。
閔妃 袁世凱と清軍の助けで政権奪回。日本公使館焼失、居留民被害(→漢城条約、天津条約)。
金玉均、朴泳孝、徐載弼らが3日間で失脚、日本へ亡命(家族は服毒自殺、処刑等)。 - 1885年(満33歳)
- 1月 9日 日朝が漢城条約を締結(日本:井上馨、朝鮮:金弘集)。
4月15日 巨文島事件。
4月18日 日清が天津条約を締結(日本:伊藤博文、清:李鴻章)。日清両軍が朝鮮から撤退。
朝露密約、日本が清に大院君の帰還を要請する。閔妃側、大院君帰国の通達に難色を示す。
10月 3日 大院君が清から帰国する(仁川)。 - 1891年(満39歳)
- 玄洋社設立。
- 1892年(満40歳)
- 高宗(朝鮮)29年春、大院君爆殺計画が失敗。
- 1893年(満41歳)
- 閔妃政権、金玉均を暗殺するため、地運永を日本に送るが同年6月22日に朝鮮に送還。
- 1894年(満42歳)
- 3月28日 閔政権が上海に刺客(洪鐘宇)を送る。金玉均が暗殺される。
金玉均の遺体は清の軍艦咸靖で朝鮮に搬送。遺体は六支の極刑(凌遅刑)に処せられる。金玉均の父は死刑、母は自殺、弟は獄死、妻の兪氏と娘は奴婢として売られる。
5月31日 全琫準率いる東学農民軍が全州を占領。清と日本が出兵(甲午農民戦争)。
7月 日本軍が王宮を包囲。開化派中心の政権が成立する(閔氏政権を倒すクーデター)。
金弘集を中心とする政権 甲午改革
閔氏一族の閔泳翊、閔台鎬、閔泳穆、趙寧夏が殺される。
8月 1日 日清戦争宣戦布告。 - 1895年(満43歳)
- 3月30日 日清休戦条約。
4月17日 下関条約。
5月 4日 三国干渉受諾(閔妃、親露政策へ)。
7月 6日 閔妃、ロシア公使ヴェーバーとロシア軍の力を借りてクーデターに成功。
7月10日 閔妃に関する謀議の風説の報告。
朴泳孝に閔妃殺害計画謀議の嫌疑。朴泳孝は京城を脱出、釜山経由で亡命。
9月 1日 三浦梧楼、朝鮮国駐箚公使として着任。
10月 7日 閔妃派政権 訓練隊の解散と武装解除を通告。
10月 8日 閔妃殺害。死体は午前8時30分頃確認され、焼却(乙未事変)。
10月10日 身分を剥奪され平民となる。「大院君の提言による」と『高宗実録』は伝える。
10月11日 王太子の上訴で廃庶人閔氏に嬪を与える。
10月15日 同復儀 22日→成服。
10月17日 三浦公使、解任・召還。(18日)→朝鮮国駐箚小村寿太郎弁理公使
10月19日 朝鮮王朝、閔妃殺害で李周会、尹錫禹、朴鉄及び彼らの一族を処刑(李周会の妻子は田舎に身を隠す。高等裁判所裁判長 張博)。
10月27日 15歳から20歳までの妃の選抜(揀擇)の公示。
11月26日 閔妃を平民とした詔勅が取り消される。→再び王后閔氏に。同日、興宣大院君失脚。趙羲淵、李周會、権濚鎮は免官。
11月28日 春生門事件。
12月3日 この日はじめて閔妃の薨去が公表される(閔妃を平民とする詔勅や王后に復活させる詔勅時、閔妃の死亡は公表されていなかった)。
12月12日 三浦梧楼以下48名、広島地方裁判所にて予審開始(一部軍法会議)。 - 1896年
- 1月20日 三浦梧楼以下48名、証拠不十分で免訴される(広島地方裁判所)。
謀反の怪文書が高宗(朝鮮)に届く。「各大臣が日本兵と共謀して国王を退位させようと計画。ロシア公使館に逃げ加害を免れたし」
2月 ロシア軍が王宮へ突入。高宗と世子、ロシア公使館へ移る(露館播遷)。
閔妃殺害事件史料で特赦された禹範善、李斗鎬、李範来、李軫鎬、趙羲淵、権濚鎭等の処刑の勅令。
5月11日 朝鮮国ニ渡航禁止ノ件
7月27日 成嬪。 - 1897年
- 明成皇后の諡号を受ける。
尚宮嚴氏生下高宗第7子英親王李垠
10月28日 下玄宮・返虞 - 1903年
- 11月24日 禹範善が高永根と魯允明により「王妃を殺害した極悪無道の者」への復讐として広島県呉市で暗殺される。享年52。純宗の放った刺客ともされるが、日本への亡命を余儀なくされていた高永根が、暗殺を手土産に高宗からの信頼回復と亡命窮乏生活からの脱却を目的に自発的に刺客になった可能性も高いとされる。
- 1919年
- 1月21日 高宗(朝鮮)崩御。三・一運動
閔妃、京畿道南楊州市 金谷洞の洪陵に高宗と合葬される。
閔妃が登場する作品
ドラマ「明成皇后」
ドラマ「明成皇后」登場人物相関図
楽天TVでも観ることができます。 明成皇后
明成皇后記念館
明成皇后の生家として感古堂のまわりに民俗村、記念館などがつくられ、観光地となっている。
明成皇后生家 の地図と場所情報 | 韓国地図コネスト