アレクサンドル1世 Aleksandr I Pavlovich Romanov(
A.D.1777〜A.D.1825)
ロマノフ朝第10代ロシア皇帝(在位1801〜1825)、ポーランド立憲王国初代国王(在位1815〜1825)。即位当初は自由主義的な改革を試みたが、ナポレオン戦争により方針を転換、反動化した。アウステルリッツの戦いやプロイセンと組んだ戦いでナポレオンに敗北するも、ロシア遠征は撃退。対仏大同盟を結成してナポレオンを打倒した。
アレクサンドル1世
ロシア皇帝(在位1801~25)。皇帝パーベル1世の長男。祖母エカチェリーナ2世の愛を受け、スイス人F.ラ・アルプに自由主義的教育を施されて育つ。皇太子時代周辺に「若き友人たち」の自由主義的グループがあった。ナポレオン1世の崇拝者であった父パーヴェルの気まぐれな政策に不安をいだいた廷臣、近衛連隊の陰謀に加担、1801年彼らのクーデターで父が暗殺された跡を襲って即位。まず、父の寵臣を退け、悪法を廃止し、検閲、旅行制限、洋書の禁を解いた。次に、「若き友人たち」で構成される「非公式委員会」によって自由主義的な国政改革に取りかかり、09年「スペランスキーの憲法草案」を作成させた。政府と官僚機構の近代化(1802年「官省」の諸「省」への改組、閣議に相当する「大臣委員会」の設置、重要法案の「国会評議会」への諮問など)、教育施設の整備(モスクワに加えてハリコフ、カザン、デルプト、ペテルブルグに大学を増設)によって「外見的近代国家」の体裁を整えた。治世初期のこのブルジョア傾向は対外政策にも現れ、01年親ナポレオン政策を放棄してイギリスとの国交を回復、05年第3回対仏大同盟に参加した。しかし、その年の末アウステルリッツの戦いで大敗を喫したので、ティルジット条約(07)でやむなくナポレオン1世の大陸封鎖令に加わった。イギリスとの断交はたちまち穀物輸出の不振、経済恐慌を招き、貴族、商人の不満に譲歩、対英通商の復活に黙認を与えたためにナポレオンのロシア遠征(12)を受けることになった。しかし、やがてナポレオンが敗れて没落すると、ウィーン会議ではメッテルニヒとともに会議を指導、「正統主義」の原則で絶対主義を復活させ、神聖同盟を結んで国際的反動勢力の先頭に立った。これとともに内政面でも専制君主に一転し、パーヴェルの寵臣A.A.アラクチェーエフを登用、軍事組織を官僚行政の全面に拡大する反動体制に逆行した。ロシアはアレクサンドル1世の時代にグルジア(01)、フィンランド(09)、ベッサラビア(12)、アゼルバイジャン(13)などを併合した。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
焦土作戦でナポレオン軍を撃退
ロシア皇帝。即位当初は自由主義的な改革を試みたが、ナポレオン戦争により方針を転換、反動化した。アウステルリッツの戦いやプロイセンと組んだ戦いでナポレオンに敗北するも、ロシア遠征は撃退。対仏大同盟を結成してナポレオンを打倒した。
欧米における近代社会の成長
フランス革命とナポレオン
ナポレオン帝国の崩壊
ロシアのアレクサンドル1世はナポレオン1世の大陸支配を警戒と不信の目で眺めていた。大陸封鎖はロシアの穀物とイギリスの生活必需品との貿易をとめ、ロシアの農業経営を破綻させるものであった。ロシアは1812年大陸封鎖を破り、イギリスとの貿易を再開した。大陸封鎖がイギリスに打撃を与える唯一の手段と考えていたナポレオンは、ロシアの行為を無視できなかった。懲罰のため各地から60万の兵力が集められ、大陸軍が編成された。
大陸軍は1812年夏ロシアへの侵入を開始した。しかし、被征服地から徴収された兵士は、ナポレオンに対する忠誠心、フランス帝国への愛国心をもつものではなかった。
ナポレオンの大陸軍に対し、ロシア軍は戦いをさけ、ゆっくり後退を続け、ナポレオン軍をロシア本土の奥深くひきこんだ。退却に際し、ロシア軍は焦土作戦をとり、穀物や侵入軍が必要とするものを焼きはらった。1812年9月半ば、ナポレオン軍はモスクワを占領した。後退にあたってロシア軍は放火し、建物を破壊した。侵入軍は宿泊所の不足に苦しめられた。冬の到来と、長い補給路が危険にさらされることから、ナポレオンは撤退を決意した。ナポレオンのモスクワからの撤退は、軍事史上の悲劇のひとつとなった。多くの兵士がコサックの追撃と、ロシア平原の冬に倒れた。ロシアの国境までたどりついたのは、侵入した軍隊の5分の1であった。ナポレオンは軍をおき去りにし、彼の帝国を守る新しい軍隊を編成するため急ぎフランスにもどった。ロシア軍は撤退するフランス軍を追ってナポレオンの帝国に侵入した。
ナポレオンの同盟者でもあったヨーロッパの君主たちはナポレオンから離れた。イギリス・プロイセン・オーストリア・スウェーデンはロシアと結び、新しい対仏大同盟が結成された。ナポレオンは敵が結束する前にたたくという彼の得意の戦略を用いようとしたが、今度は遅きに失した。1813年10月ナポレオン軍と新しい同盟軍はライプチヒ Leipzig で対戦し、同盟軍がフランス軍を決定的に撃ち破った(諸国民の戦い)。このためナポレオンはフランスに後退した。フランスに侵入した同盟軍に対し、ナポレオンは何度か優れた戦術で戦った。しかし敗色はこく、1814年4月同盟軍はパリに入城した。彼は息子に譲位しようとしたが、認められなかった。同盟軍は彼に年金を与え、エルバ島に隠退させた。ルイ16世の弟がフランスに帰り、ルイ18世として即位し、ブルボン朝の王政が復活した(王政復古)。
欧米における近代国民国家の発展
ウィーン体制
ウィーン会議
メッテルニヒ(オーストリア外相・1821〜宰相)を議長に開催されたウィーン会議で、オーストリア皇帝がヴェネツィア・ロンバルディアを獲得しようとするなど有力国が領土再編をめぐり権謀術数をつくしているさまが描かれている。「会議は踊る、されど進まず」といわれたこの会議は、タレーラン(フランス外相)の提唱した正統主義を原理に、大国間の利害一致・勢力均衡の観点から妥協が成立し、ウィーン議定書が結ばれた。 参考: 山川 詳説世界史図録
ナポレオン1世がエルバ島に流刑にされたあと、1814年4月第1次パリ平和条約が締結されたが、フランス革命とナポレオンによって生じた混乱に終止符をうち、新しい国際秩序を確立するために、1814年9月から15年6月にかけてウィーン会議が開催された。この会議にはイギリスからはカッスルレー、フランスはタレーラン、ロシアからアレクサンドル1世、プロイセンからはハルデンベルクらが参加したが、司会をおこなったのはオーストリアの外相(のちの宰相)であるメッテルニヒ Metternich (1773〜1859)であった。各国の思惑と利害の対立は深刻であったので、「会議は踊る、されど進まず」という状態が続いた。