カスティーリャ王国
A.D.1035〜A.D.1715
イベリア半島に存在した王国。ウマイヤ朝に西ゴート王国が征服されて以来イスラームの支配下にあったイベリア半島でおこったキリスト教国の国土回復運動(レコンキスタ)で、前進基地に多数の城塞を築いたところから、カスティーリャ(ラテン語で「城」の意)と呼ばれ、カスティーリャ王国が成立した。スペイン王国ハプスブルク朝が成立後もスペインを構成する国の1つとして政治的に独自性を保持し続け、スペイン継承戦争をへてブルボン朝成立後、フェリペ5世(スペイン王)の時代まで存続した。
- 1035年: 独立
- 1469年: アラゴン王国とカスティーリャ王国の同君連合の成立
- 1715年: 消滅
カスティーリャ王国
首都: ブルゴス、トレド、マドリード
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ中世世界の変容
スペインとポルトガル
711年、ムーア(ベルベル)人により西ゴート王国が征服( アラブ人の征服活動 – 世界の歴史まっぷ)されて以来、イベリア半島の大半がイスラーム教との支配を受けた。初めの300年ほどは後ウマイヤ朝(756〜1031)の支配下に統一を保ち、都のコルドバや西ゴートの都であったトレドを中心に経済・文化が発達し、西ヨーロッパ屈指の繁栄を誇った。
レコンキスタの前進基地には多数の城塞を築いたところから、カスティリャ(ラテン語で城の意)と呼ばれ、10世紀にはカスティリャ王国が成立、まもなくそのフェルナンド1世(カスティーリャ王)はレオン王国を併合した。
他方ピレネー山脈地方でも、9世紀にナバラ王国が成立、サンチョ大王(サンチョ3世(ナバラ王))(位1000〜1035)のもとでバルセロナまで征服し、その子ラミロ1世(アラゴン王)によりアラゴン王国が建設された(1035)。このカスティリャとアラゴンという新興両王国を中心に、その後のレコンキスタは展開された。
そのころ、後ウマイヤ朝は滅亡し(1031)、イスラームのイベリア支配は20余りの小王国の時代を迎えたが、レコンキスタとの関わりで重要な位置を占めたのは、サラゴサ・セビリャ・グラナダの3王国である。アラゴン王国の歴代の王はサラゴサを攻め、教皇の呼びかけによる連合軍も結成された(1064)が失敗に終わり、その占領は12世紀初頭にまでもちこされた。
他方、アルフォンソ6世(カスティーリャ王)(位1072〜1109)はトレドを占領(1085)、ついでセビリャを攻めたが、アフリカからベルベル人のムラービト朝軍が来援、失敗した。13世紀初頭、カスティリャ・アラゴン・ナバラの連合軍はムラービト朝にとって代わったムワッヒド朝軍に決定的勝利をおさめ、コルドバ・セビリャを相次いで回復した。その結果13世紀半ばには、イスラーム勢力はグラナダ1国を残すのみとなった。ナスル朝のグラナダ王国(1230〜1492)は、カスティリャ王国に貢納しながらも独立を保ち、集約的農業と交易により栄えた。学芸が保護され、アルハンブラ宮殿も建設された。
すでにカタルーニャ・バレンシアとの連合王国を形成していたアラゴン王国は、その後地中海に向けて発展、13世紀後半にシチリア島、14世紀にサルデーニャ島、そして15世紀前半にナポリ王国を征服して絶頂期に達したが、国内では貴族や都市との抗争に苦しんだ。
一方、カスティリャ王国では14〜15世紀をつうじて王権が強化され、貴族との対立が激化した。また、小農経営を無視した牧羊業の推進と牧羊者組合(メスタ)の保護は農業の荒廃をもたらし、農民一揆や反ユダヤ暴動を引き起こした。
メスタ
1273年、アルフォンソ10世(カスティーリャ王)により認められた全牧羊業者組合で、19世紀前半まで存続した。レコンキスタの進展により、イベリア半島を南北に長距離移動する牧羊業がさかんとなった。それにともない、移動路や飼養地、迷羊の処理などをめぐって、地主・農民との衝突が生じた。国王は、輸出用羊毛生産を促進するため、これを保護する政策をとり、農村は疲弊した。
しかし、1469年アラゴン王子フェルナンド(フェルナンド2世(アラゴン王))とイサベル1世(カスティーリャ女王)が結婚、1479年には両国が統一されてスペイン王国が誕生すると、混乱は次第に収拾に向かった。
そして1492年、両国によりグラナダは陥落( 西方イスラーム世界)し、レコンキスタは終了した。同時にクリストファー・コロンブスによりアメリカ大陸への道が開かれ、スペインは西ヨーロッパの強国になっていく。
イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の発展
西方イスラーム世界
ムワッヒド朝の敗退後、イベリア半島では、最後のイスラーム王朝となったナスル朝(1230〜1492)が、わずかにグラナダとその周辺地域を保っていた。しかし1479年、アラゴンとカスティーリャの統合によってスペイン王国が成立すると、イスラーム教徒に対するレコンキスタの圧力はさらに強まった。そして1492年にスペイン王国がグラナダに入城し、イスラーム教徒の多くは北アフリカに引き揚げた。これによって、800年余にわたって続いたイベリア半島のイスラーム時代は終わりを告げた。
彼らが残したアルハンブラ宮殿は、華麗な建築様式と繊細なアラベスク模様によって、イベリア半島における末期イスラーム文化の美しさを今に伝えている。
ヨーロッパ主権国家体制の展開
ヨーロッパ主権国家体制の形成
スペイン絶対王政の確立
イベリア半島では、1479年にカスティリャ王国とアラゴン王国が合併して、スペイン王国が成立した( スペインとポルトガル)。この国では、フェルナンド5世(カスティーリャ王)(フェルナンド2世(アラゴン王))とイサベル1世(カスティーリャ女王)(「カトリック両王」という)のもとで、封建貴族に対抗して都市と手を結んだ王権が強力になった。
以後歴代国王は、ローマ・カトリック教会の勢力をも背景に、異端審問など厳しい宗教政策を展開した。1492年には、最後に残ったイスラーム教徒の拠点、ナスル朝の首都グラナダを陥落させ、1492年にはユダヤ人、1502年にイスラーム教徒を、それぞれ追放した。数世紀におよんだ国土回復運動(レコンキスタ)が、ここで完成したということができる。
グラナダ陥落によってようやくレコンキスタを完了したスペインは、ポルトガルとともに1493年、教皇名による分解線を設定、翌年、教皇抜きでこれを修正したトルデシリャス条約によって世界の2分割をはかった。さらにこうしてスペインは、対外的にも広大な植民地を獲得して世界帝国となっていった。
しかし国内的には、スペインはカスティリャ・バレンシア・アラゴン・カタルーニャなど、地方分権的な性格がきわめて強く、国民国家としての統合は十分ではなかった。1516年には、オーストリアのハプスブルク家からでたカルロス1世(スペイン王)(位1516〜1556)が即位し、ヴァロワ朝フランスのフランソワ1世(フランス王)(位1515〜1547)と争って神聖ローマ帝国にも選出された(カール5世(神聖ローマ皇帝)(位1519〜1556))彼の即位には、トレドなどの都市勢力が強く反対し、いわゆるコムネーロスの反乱(1520)をおこした。この反乱を鎮圧したカルロス1世(スペイン王)は、議会の抵抗をも抑えて、スペインに絶対王政を確立した。
こうしてカルロス1世(スペイン王)は、ネーデルラントのブルゴーニュ公領をはじめ、ヨーロッパ大陸に広大な領土を獲得した。また、プロテスタント派諸侯の抵抗を排しながら、キリスト教世界の統一をねらってイタリア戦争( イタリア戦争)を続けた。しかし、1556年には王室財政が破綻したため、退位せざるをえなくなった。皇帝位は弟フェルディナント1世(神聖ローマ皇帝)(位1556〜1564)がつぎ、スペインの王位は息子のフェリペ2世(スペイン王)(位1556〜1598)に譲った。
即位後のフェリペ2世(スペイン王)は、1559年にカトー・カンブレジ条約を結んで、長期にわたったイタリア戦争に終止符をうった。しかし国内では、とくに外国書籍の輸入禁止や出版規制をおこなうなど、異端の弾圧を強化した。また外にむかっても、宗教戦争下のフランスに介入したほか、カトリック教徒でフェリペの妻であったメアリ1世の後継者として、プロテスタントのエリザベス1世(イングランド女王)が登位したイギリスとも、険悪な関係となった。
しかしこの時代に、スペインの最大のライバルとなったのは、ビザンツ帝国を滅ぼして地中海に進出してきたオスマン帝国( オスマン帝国の拡大)である。カルロス1世以来、キリスト教(カトリック)世界とヨーロッパの盟主を自認していたスペインにとって、オスマン帝国との対決はさけられない宿命であった。フェリペ2世は1571年、オスマン帝国をレパントの海戦で破り、地中海の制海権を握って対抗宗教改革( カトリックの改革)を推進するカトリックの盟主となった。
近代ヨーロッパの成立
ヨーロッパ世界の拡大
新大陸の発見
1492年はコロンブス(1451〜1506)が大西洋を横切りインド諸島に到達、すなわちアメリカを「発見」した年である。カスティリャとアラゴンの結合により成立したスペインは、この年の1月、半島におけるイスラーム勢力最後の拠点グラダナを陥落させ、半島におけるレコンキスタ運動を完了させていた。これにひきついでイサベル1世(カスティーリャ女王)(位1474〜1504)は、コロンブスに支援を与えたのである。スペインの海外進出は、十字軍( スペインとポルトガル)的情熱で領土拡張をめざしたレコンキスタ運動が海外へと連続して拡大したものという見方もできる。
参考 詳説世界史研究
参考 Wikipedia
歴代国王
サンチョ3世(ナバラ王)の次男として生まれる。1035年にサンチョ3世が死去すると、遺領は4人の王子に分割相続され、フェルナンド1世はカスティーリャ伯領を獲得した。1037年に妻サンチャの兄ベルムード3世(レオン王)を破ってレオンを獲得し、カスティーリャとレオンの王を称した。
ヒメノ家 1037〜1126
- フェルナンド1世(カスティーリャ王) 大王 レオン王兼カスティーリャ王
- サンチョ2世(カスティーリャ王) 強王
- アルフォンソ6世(カスティーリャ王) 勇敢王 レオン王兼カスティーリャ王
1085年 トレド占領。ついでセビリャを攻めたが、アフリカからベルベル人のムラービト朝軍が来援、失敗。 - ウラカ(カスティーリャ王女) レオン王女兼カスティーリャ王女
ボルゴーニャ家(ブルゴーニュ) 1126〜1369
ウラカの最初の夫ライムンド・デ・ボルゴーニャ(ガリシア伯)の男系子孫
- アルフォンソ7世(カスティーリャ王) 皇帝 レオン王兼カスティーリャ王
1143年 カスティーリャ王国からポルトガル王国が独立。
1157年 ムラービト朝にとって代わったムワッヒド朝とのムワヒッド軍との戦いで戦死。カスティーリャ=レオン王国は再度分割相続され、サンチョ3世のカスティーリャ王国とフェルナンド2世のレオン王国とに分かれた。 - サンチョ3世(カスティーリャ王) 強欲王
- アルフォンソ8世(カスティーリャ王) 高貴王
1212年 ラス・ナバス・デ・トロサの戦い。アルフォンソ8世(カスティーリャ王)の指揮下でレオン王国、ポルトガル王国、アラゴン王国、ナバラ王国各国の兵、テンプル騎士団などの騎士修道会やフランスの司教に率いられた騎士らが集結。ムワッヒド朝のカリフ、ムハンマド・ナースィル率いる10万以上の兵との戦争で、キリスト教連合軍が勝利。ムワッヒド朝はイベリア半島での支配力を失った。その中でグラナダを首都とするナスル朝グラナダ王国が成立する。 - エンリケ1世(カスティーリャ王)
- ベレンゲラ(カスティーリャ王女) 女帝
1217年 最愛の息子であるフェルナンド3世に譲位する - フェルナンド3世(カスティーリャ王) 聖王
1230年 父アルフォンソ9世(レオン王)の死にともないレオン王位を継承。レオンとカスティーリャは再び同君連合となる。以降レオン王兼カスティーリャ王
1236年 コルドバ攻略。
1246年 ナスル朝を臣従させる。
1248年 セビリャ攻略。 - アルフォンソ10世(カスティーリャ王) 賢王
1257年 ローマ王に選出され、1275年に放棄するまでこの称号を請求した。レオン王兼カスティーリャ王
カスティーリャとレオンで異なっている政治制度、法律、通貨、税制、度量衡などの統一にとりかかり、ローマ法を元に『七部法典』を編纂した。首都トレドでは、アラビア語で書かれた医学、数学、天文学の著作がラテン語に翻訳され、ヨーロッパにもたらされた。 - サンチョ4世(カスティーリャ王) 勇敢王 レオン王兼カスティーリャ王
- フェルナンド4世(カスティーリャ王) 召集王 レオン王兼カスティーリャ王
- アルフォンソ11世(カスティーリャ王) 正義王レオン王兼カスティーリャ王
『七部法典』を実施に移す。
1340年 グラナダ王国は、アフリカのマリーン朝と提携してカスティーリャ王国に対抗していたが、サラードの戦いでカスティーリャ軍が勝利し、マリーン朝にイベリア半島から手を引かせ、グラナダ王国を孤立化させた。
1343年 カタルーニャに上陸したペストは、翌年カスティーリャでも猛威を振るい、全人口の2割近くが死亡。 - ペドロ1世(カスティーリャ王) 残酷王 レオン王兼カスティーリャ王
1366年〜1369年 第一次カスティーリャ継承戦争 ペドロ1世(カスティーリャ王)と異母兄エンリケ・デ・トラスタマラ(のちのエンリケ2世(カスティーリャ王))が王位を争った。
1369年 モンティエルの戦いで戦死。
カスティーリャ及びレオン王位の請求者
- ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントはペドロ1世(カスティーリャ王)の娘であるコンスタンス・オブ・カスティルとの結婚を利用してカスティーリャ及びレオンの王号を請求した。ランカスター公は王号を確固とするためロンドンから遠征を強行するなどして幾つかの軍事的行動を起こしたが、成功することはなかった。
トラスタマラ家 トラスタマラ朝 1369〜1555
エンリケ2世はアルフォンソ11世の庶子であり、トラスタマラ公を創立した。
- エンリケ2世(カスティーリャ王) 庶子王 1366年から王位を請求
- ファン1世(カスティーリャ王)
- エンリケ3世(カスティーリャ王) 病弱王
- ファン2世(カスティーリャ王)
1410年 グラナダ戦争 摂政のエンリケ3世(カスティーリャ王)の弟フェルナンドが開始し、アンテケーラを攻略。
1412年 フェルナンドはにアラゴン王に選出され(カスペの妥協)、フェルナンド1世(アラゴン王)となるが、その後もカスティーリャの宮廷に影響力を及ぼし続けた。 - エンリケ4世(カスティーリャ王) 無能王
1468年 トロス・デ・ギサント協定を結び、王位継承者を娘のフアナ・ラ・ベルトラネーハではなく、貴族らが推す異母妹のイサベル1世とすることに同意。 - イサベル1世(カスティーリャ女王) カトリック女王
1474年 夫のアラゴン国王 フェルナンド2世と共同統治。
1479年 ポルトガルがイサベルの王位継承を承認。フアナ・ラ・ベルトラネーハ(アフォンソ5世(ポルトガル王)王妃)がカスティーリャ女王即位を宣言したため、国内はイサベル支持派とフアナ支持派に分裂。イサベル派が勝利した。
1496年 アレクサンデル6世(ローマ教皇)により「カトリック両王」の称号を授かる。 - フェルナンド5世(カスティーリャ王)(フェルナンド2世(アラゴン王)) カトリック王 イサベルと共同統治
1479年: 父フアン2世(アラゴン王)死去によりアラゴン王位継承。フェルナンド2世(アラゴン王)となり、カスティーリャ=アラゴン連合王国、すなわちスペイン王国(イスパニア王国)が誕生。
1492年 グラナダ王国を滅亡させて約800年にわたるレコンキスタに終止符を打つ。
1492年 クリストファー・コロンブスが西インド諸島に到達。1494年にポルトガルとの間で締結されたトルデシリャス条約に基づき、カスティーリャ王国は、アメリカ大陸をその領土にする。
1496年 アレクサンデル6世(ローマ教皇)により「カトリック両王」の称号を授かる。
1515年 娘フアナ(カスティーリャ女王)の摂政として ナバラ王国を併合し、イベリア半島はカスティーリャ=アラゴン連合王国(スペイン王国)とポルトガル王国の2ヶ国となる。 - フアナ(カスティーリャ女王) 狂女王
1504年〜1506年 夫のフェリペ1世(カスティーリャ王)が代行。
1506年〜1516年 幽閉時はフランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロスが摂政として代行。
1516年〜1555年 幽閉時は息子のカルロス1世(カール5世(神聖ローマ皇帝))が代行。
ハプスブルク家 ハプスブルク朝
- フェリペ1世(カスティーリャ王) 美王 フアナの夫。王として妻のフアナの半分を統治。
- カルロス1世(スペイン王) 母のフアナが幽閉された1555年から共同統治、
1556年に最愛の息子に譲位。
以後の君主はスペイン君主一覧を参考のこと。最初にスペイン国王の称号を用いたのはカルロス1世(自身はカスティーリャ、アラゴン以下その他スペインの領邦の王であった)の息子であるフェリペ2世である。それにも係わらず、カスティーリャ王国はスペイン連合王国内部で独自の権利を有し、それはスペイン継承戦争後のブルボン朝まで続いた。
スペイン王国 ハプスブルク朝
- フェリペ2世(スペイン王) 慎重王 兼フィリペ1世(ポルトガル王)
- フェリペ3世(スペイン王) 敬虔王 兼フィリペ2世(ポルトガル王)
- フェリペ4世(スペイン王) 大王、惑星王 兼フィリペ3世(ポルトガル王)
- カルロス2世(スペイン王) 魔法にかけられた王
スペイン王国 ブルボン朝
- フェリペ5世(スペイン王) 精神王