北条時政(
A.D.1138〜A.D.1215)
鎌倉幕府初代執権。源頼朝の妻北条政子の父。頼朝とともに挙兵し、鎌倉幕府成立の地盤固めに貢献。頼朝没後は初代執権となって幕府の実権を握ったが、後妻の牧の方との娘婿を将軍職に就けようとはかって政子らの反対にあい、時政は引退を余儀なくされた。願成就院開基。運慶につくらせた仏像5体が現存(いずれも国宝)。
北条時政
晩節を汚した鎌倉幕府草創の功労者
鎌倉幕府創生に尽力した初代執権
北条氏が歴史の舞台に登場するきっかけは、北条時政の娘の北条政子が源頼朝と恋仲になったことである。しかし、源頼朝は平氏に叛した大逆人の子。平氏に与していた時政は激怒し、別の縁談を調えるが、政子は頼朝のもとへ走ってしまった。時政がただものでないのは、最後は娘の結婚を容認している点である。平氏に知られれば一族が誅滅されかねない事態だが、時政は腹をくくった。
1180年(治承4)の源頼朝の挙兵に際しては、積極的に後押しした。京では後白河法皇を相手に1000騎の軍勢で威嚇、総追捕使・地頭を置く権利を勝ち取って幕府成立の地盤固めに貢献する。その後も政敵を排しながら、初代執権として幕府の実権を握った。
しかし、後妻として、牧の方を迎えた頃から、時政の政治は曇り始めてしまう。1205年(元久2)には妻の讒言を鵜呑みにして罪のない畠山重忠を誅殺。あげく、牧の方の娘婿。平賀朝雅を夫婦共謀して将軍に就けようとさえした。後妻にうつつを抜かす老害ぶりは、息子・北条義時でさえ見逃すことはできず、北条時政は執権を追われる。その後、死ぬまで政治の舞台に返り咲くことはなかった。
ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
中世社会の成立
鎌倉幕府の成立
源平の争乱
平氏に反する勢力のうち、とくに強大だったのは源頼朝(1147〜1199)の勢力である。頼朝は源義朝の子で、平治の乱のあと伊豆に流されていた。以仁王の令旨を叔父源行家から伝えられ、1180(治承4)年8月、妻政子の父北条時政(1138〜1215)らと挙兵した。
石橋山の戦いでは平氏方の大庭景親らに敗れて海路阿波国に逃れたものの、代々源氏に使えていた東国の武士が続々と馳せ参じ、早くも10月、頼朝は源氏の根拠地であった鎌倉に入った。平清盛は孫の平維盛を大将として頼朝追討の大軍を東国に派遣したが、平氏軍は駿河国の富士川で源氏の軍に大敗して京都に逃げ帰った。水鳥の飛び立つ音に驚き、源氏の夜襲と間違えて敗走したといわれる。頼朝は配下の武士たちの要望を入れてあえてこれを追いかけることをせず、鎌倉に帰って東国の経営に専念した。
北条氏の台頭
源頼朝のあとを受け継いだのは、嫡子源頼家であった。けれども御家人たちは、18歳の新しい鎌倉殿が、頼朝と同様に強大な権力をもつことを歓迎しなかった。頼朝の死からわずか3ヶ月ののち、北条時政・大江広元・三善泰信ら幕府の宿老たちは、頼家から訴訟(裁判)の裁決権を取りあげた。頼家の活動を制限し、その上で御家人の代表である宿老13人の話し合いによる政治運営を開始した。13人の合議制と呼ばれるものがこれである。
合議の中心に位置したのは、頼家の母北条政子の実家北条氏であった。これ以後、北条氏の台頭は急速に顕著になっていく。
1199(正治元)年の末、源頼家の「第一の郎等」といわれた梶原景時が鎌倉を追放された。文武に優れた彼は源頼朝と頼家から厚い信任を受け、和田義盛にかわり侍所別当にも任じられたが、他の有力御家人から激しい非難をあびて失脚した。翌1200(正治2)年正月、梶原景時の一族は駿河国で襲撃を受け、合戦ののちに滅び去った。同国の守護は北条時政であり、彼の指令が駿河の御家人たちに届いていたものと思われる。
1203(建仁3)年、頼家が重病に倒れると、北条時政は北条政子とはかり、頼家の子一幡と弟千幡を後継者に立てた。将軍の権限を2分割し、2人に継承させようとしたのである。頼家と一幡の外祖父比企能員は反発し、時政を討とうと計画したが、逆に比企能員は北条氏に誘殺され、武蔵国の豪族比企一族は一幡もろとも滅ぼされた。
頼家は伊豆修善寺に押し込められ、千幡が将軍となって源実朝を名乗った。北条時政は大江広元と並んで政所別当になり、将軍の補佐を名目として政治の実権を握った。この時政の地位は執権と呼ばれ、以後代々北条氏に伝えられていく。
1204(元久元)年、時政は幽閉中の源頼家を殺害し、翌年にはひそかに実朝を退けて娘婿の平賀朝雅を将軍職につけようとした。朝雅は信濃源氏の名門の出身で、当時京都守護として活躍していた。陰謀の一環として、幕府の重臣畠山重忠の一族が滅ぼされた。しかし、この企ては北条政子らの反対にあい、朝雅は京都で殺され、北条時政は引退を余儀なくされた。時政のあとは、その子の北条義時が受け継いだ。
願成就院
1189(文治5)年、鎌倉幕府初代執権で源頼朝の妻・北条政子の父、北条時政により北条氏の本拠地韮山に創建された。北条氏三代で築かれた伽藍および浄土式庭園はその後戦火で焼失したが、現在は境内の一帯が国の史跡に指定されている。大御堂には北条時政が1186(文治2)年に髪願した、運慶作の「阿弥陀如来坐像(運慶)」や「不動明王立像・矜羯羅童子立像・制吒迦童子立像(運慶)」「毘沙門天立像(運慶)」(いずれも国宝)が安置される。高野山真言宗。