後ウマイヤ朝
A.D.756〜A.D.1031
アッバース朝の建国後、アッバース朝に滅ぼされたウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に渡って開いたイスラーム王朝。10世紀アブド・アッラフマーン3世の時代に最盛期を迎え、首都コルドバは人口50万を擁する大都市に発展した。領土を広げアッバース朝に対抗してカリフを称した。継承争いによる内紛とレコンキスタの展開で衰退し、1031年滅亡した。イスラームのイベリア支配は20余りの小王国(タイファ)の時代を迎えた。
後ウマイヤ朝
首都:コルドバ
イスラーム世界の形成と発展
イスラーム帝国の成立
イスラーム帝国の分裂
アッバース朝の建国後、ウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世は北アフリカに逃れ、756年にはイベリア半島に渡って後ウマイヤ朝を開いた。
彼はコルドバに首都を定め、ベルベル人の反乱を抑えて政権の基礎を固めた。
後ウマイヤ朝は、政治的にはアッバース朝と敵対関係にあったが、学者たちはバグダードやダマスクスに赴いて東方イスラーム世界の文化を積極的に吸収し、その成果をイベリア半島に持ち帰った。
王朝はアブド・アッラフマーン3世(912〜961)の時代に最盛期を迎え、コルドバは人口50万を擁する大都市に発展した。アブド・アッラフマーン3世は、イベリア半島に加えてマグリブ(エジプト以西の北アフリカ)西部の大半を支配下に収め、さらにアッバース朝に対抗してみずからカリフの称号を用いた。
地方王朝の独立に加えて、後ウマイヤ朝とファーティマ朝の君主がカリフを称したことにより、イスラーム世界の分裂は決定的となった。アッバース朝カリフの権威は著しく低下し、10世紀に入るとカリフの支配領域はイラク1州だけに縮小した。カリフ権力の低下をもたらした要因は、独立王朝の出現ばかりでなく、トルコ人奴隷兵(マルムーク)の採用にも求められる。
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ中世世界の変容
スペインとポルトガル
711年、ムーア(ベルベル)人により西ゴート王国が征服( アラブ人の征服活動 – 世界の歴史まっぷ)されて以来、イベリア半島の大半がイスラーム教との支配を受けた。初めの300年ほどは後ウマイヤ朝(756〜1031)の支配下に統一を保ち、都のコルドバや西ゴートの都であったトレドを中心に経済・文化が発達し、西ヨーロッパ屈指の繁栄を誇った。
レコンキスタの前進基地には多数の城塞を築いたところから、カスティリャ(ラテン語で城の意)と呼ばれ、10世紀にはカスティリャ王国が成立、まもなくそのフェルナンド1世(カスティーリャ王)はレオン王国を併合した。
他方ピレネー山脈地方でも、9世紀にナバラ王国が成立、サンチョ大王(サンチョ3世(ナバラ王))(位1000〜1035)のもとでバルセロナまで征服し、その子ラミロ1世(アラゴン王)によりアラゴン王国が建設された(1035)。このカスティリャとアラゴンという新興両王国を中心に、その後のレコンキスタは展開された。
そのころ、後ウマイヤ朝は滅亡し(1031)、イスラームのイベリア支配は20余りの小王国の時代を迎えたが、レコンキスタとの関わりで重要な位置を占めたのは、サラゴサ・セビリャ・グラナダの3王国である。アラゴン王国の歴代の王はサラゴサを攻め、教皇の呼びかけによる連合軍も結成された(1064)が失敗に終わり、その占領は12世紀初頭にまでもちこされた。
歴代カリフ
- アブド・アッラフマーン3世(929年 – 961年)
- ハカム2世(961年 – 976年)
- ヒシャーム2世(976年 – 1009年、1010年 – 1013年)
- ムハンマド2世(1009年、1010年)
- スライマーン(1009年 – 1010年、1013年 – 1016年)
- アブド・アッラフマーン4世(1018年)
- アブド・アッラフマーン5世(1023年 – 1024年)
- ムハンマド3世(1024年 – 1025年)
- ヒシャーム3世(1027年 – 1031年)