攘夷運動 じょういうんどう (攘夷主義/攘夷派/攘夷論)(幕末)
外国勢力(夷)を攘ける意味を持つ運動。武力で開国を迫った欧米を武力で撃退せよという攘夷論は、攘夷主義の下、長州藩などの攘夷派を中心に外国人殺傷事件や外国船砲撃事件を引き起こす結果となった。のち、幕府批判の政治運動に展開していった。
攘夷運動
外国勢力(夷)を攘ける意味を持つ運動。武力で開国を迫った欧米を武力で撃退せよという攘夷論は、攘夷主義の下、長州藩などの攘夷派を中心に外国人殺傷事件や外国船砲撃事件を引き起こす結果となった。のち、幕府批判の政治運動に展開していった。
幕藩体制の動揺
化政文化
国学の発達
宣長の影響を受けた平田篤胤(1776-1843)は激しく儒教・仏教を排斥して日本古来の純粋な信仰を尊ぶ復古神道を大成し、農村の有力者に広く受け入れられて、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。
政治・社会思想の発達
化政文化 学問・思想の動き
経世論 | 〈化政期、封建制の維持または改良を説く経世論〉 | |
海保青陵 (1755-1817) | 藩営専売制の採用など重商主義を説き、他藩より利をとる方策を主張。『稽古談』(流通経済の仕組みなどを平易に説明) | |
本多利明 (1743-1820) | 開国による重商主義的国営貿易を主張。『西域物語』『経世秘策』(ともに開国交易を提案) | |
佐藤信淵 (1769-1850) | 諸国を遊歴し、著述につとめる。『経済要録』(産業振興・国家専売・貿易の展開を主張)『農政本論』 | |
後期水戸学 | 水戸藩の『大日本史』編纂事業(1657〜1906)を中心に興った学派 | |
9代藩主徳川斉昭を中心に、藤田幽谷・東湖父子、会沢安らの尊王斥覇理論から攘夷論を展開。藤田東湖『弘道館記述義』会沢安『新論』→ 影響:尊王論と攘夷論とを結びつけ、尊王攘夷論(尊王:将軍は天皇を王者として尊ぶ。攘夷:諸外国を打払う。)を説き、幕末の思想に影響 | ||
藤田幽谷 (1774-1826) | 彰考館総裁として、『大日本史』編纂にあたる | |
藤田東湖 (1806-55) | 幽谷の子。藩主徳川斉昭の側用人として藩政改革にあたり、弘道館を設立。『弘道館記述義』 | |
会沢安 (1782-1863) | 藤田幽谷に師事し、彰考館総裁として、徳川斉昭の藩政改革に尽力。『新論』で尊王攘夷論を唱えた。 | |
尊王論 | 頼山陽 (1780-1832) | 安芸の人。『日本政記』『日本外史』を著し、勤王思想を主張。源平から徳川氏にいたる武家盛衰を記述 |
国学 | 平田篤胤 (1776-1843) | 大政委任論の立場に立つ尊王論で、幕府を否定していない。篤胤の大成した「復古神道」は、儒仏に影響されない純粋な古道を明らかにし、幕末の尊王攘夷論に影響を与えた。『古道大意』『古史伝』(国学書) |
後期の水戸学では、藤田幽谷(1774-1826)は、尊王が幕府の権威を維持するために重要であると説き、幽谷に学んだ会沢安(1782-1863)は『新論』で、対外的危機に対応して国家の独立を維持するために、天皇を中心とする政治·宗教体制を構想し、幽谷の子で『弘道館記述義』を密いた藤田東湖(1806-55)や徳川斉昭らも尊王攘夷運動に強い影響を与えた。
古典の研究、復古思想の立場から尊王論を唱えた国学者の本居宣長は、将軍は天皇の委任(「御任」)により政権を担当しているのだから、将軍の政治にしたがうことが天皇を尊ぶことになると説き、幕府政治を否定する考えはなかった。しかし、平田篤胤の復古神道は、各地の豪農・神職たちに受け入れられ、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
開国
日米和親条約に基づき、1856(安政3)年、アメリカの初代駐日総領事として下田に駐在したハリス(Harris, 1804〜78)は翌57(安政4)年、江戸に入って将軍に謁見し、強い姿勢で通商条約の締結を求めた。ハリスとの交渉にあたった老中首座堀田正睦(1810〜64)は勅許を得ることによって通商条約をめぐる国内の激しい意見対立をおさえようと上京し、アメリカをはじめとする列強と戦争になることを避けるため、条約を結ばざるを得ないと朝廷を説得した。堀田は勅許を容易に得られるものと判断していたが、朝廷では孝明天皇(在位1846〜66)を先頭に条約締結反対・鎖国攘夷の空気が濃く、勅許を得ることができなかった。
開港とその影響
金銀の交換比率が、外国では1:15、日本では1:5と著しい差があったため、外国人は銀貨を日本にもち込んで日本の金貨を安く手に入れ、その差額で大きな利益を得ようとした。そのため、10万両以上の金貨が海外に流出した。幕府は金貨の品位を大幅に引き下げた万延小判を鋳造してこの事態を防ごうとしたが、貨幣の実質価値が下がったため物価上昇に拍車をかけることになり、下級武士や庶民の生活は著しく圧迫された。そのため貿易に対する反感が高まり、反幕府的機運とともに激しい攘夷運動がおこる一因となった。
幕府は、このような開港による物価謄貴と攘夷運動を恐れ、安政五カ国条約に盛り込まれた江戸・大坂の開市と兵庫・新潟の開港期日の延期を交渉するため、1862(文久2)年に遣欧使節を派遣し、イギリスとロンドン覚書を結ぶなどして、開市・開港を延期した。
公武合体と尊攘運動
桜田門外の変のあと、幕政の中心にすわった老中安藤信正(1819〜71)は、通商条約調印により対立した朝廷との関係を改善し、それによって幕府批判勢力をおさえ込み、さらに条約問題で分裂した国論を統ーして幕府の権威を回復させるため、朝廷(公)と幕府(武)が協調して政局を安定させようとする公武合体政策を進めた。それを象徴するものとして、孝明天皇の妹和宮(1846〜77)を将軍家茂の妻に迎えることに成功したが、有栖川宮熾仁親王(1835〜95)との結婚が決まつていたにもかかわらず降嫁させた強引な政略結婚は、尊王攘夷論者から激しく非難され、安藤は1862(文久2)年、江戸城坂下門外で水戸藩を脱藩した浪士らに襲われて傷つき、まもなく失脚した(坂下門外の変)。
幕府による公武合体策は頓挫したが、11代将軍家斉の夫人が島津重豪(1745〜1833)の子で近衛家の養女であったことなどから知られるように、朝廷·幕府の双方につながりの深い外様の薩摩藩が、独自の公武合体策の実現に動いた。藩主の父島津久光は1862(文久2)年、寺田屋事件などで藩内の尊王攘夷派をおさえつつ、勅使大原重徳(1801〜79)とともに江戸に赴き、幕政の改革を要求した。幕府は薩摩藩の意向を入れて、松平慶永を政事総裁職に、徳川慶喜を将軍後見職に任命した。
このように公武合体運動が幕府や雄藩藩主層を中心に進められたのと並行して、下級藩士を中心とする尊王攘夷派の動きが激しくなっていった。尊王攘夷論は、尊王論と攘夷論とを結びつけた後期の水戸学の思想で、藤田東湖・会沢安らが中心であった。尊王論それ自体は将軍の支配の正統性を権威づけるものであったが、対外的な危機が迫ると攘夷論と結びつき、欧米列強の圧力に屈服して開国した幕府の姿勢を非難し、実践的な政治革新思想となっていった。
尊王攘夷派の中心になった長州藩も、初めは公武合体運動を進めていたが、1862(文久2)年に中下級藩士の主張する尊攘論を藩論とし、朝廷内部の尊攘派の公家とも結んで、京都で活発に動いて政局の主導権を握った。尊攘派が優位に立った朝廷は、しきりに攘夷の決行と鎖国への復帰を幕府に迫り、幕府は攘夷決行の意思をもたなかったが、やむなく1863(文久3)年5月10日を期して攘夷を行うことを諸藩に通達した。長州藩はこれに応じ、その日、下関の海峡を通過した外国船に砲撃を加える長州藩外国船砲撃事件をおこした。
真木和泉(1813〜64)らは孝明天皇が大和に行幸し、天皇自ら攘夷戦争の指揮をとる計画もたてたがこの長州藩を中心とする尊攘派の動きに対して、薩麿・会津の両藩は朝廷内部の公武合体派の公家と連携し、ひそかに反撃の準備を進めていた。1863(文久3)年8月18日、薩摩·会津両藩兵が御所を固めるなか、長州藩の勢力と急進派の公家三条実美(1837〜91)らを京都から追放し ❶ 、朝廷内の主導権を奪い返した(八月十八日の政変)。この前後、京都の動きに呼応して、公家の中山忠光(1845〜64)、土佐藩士の吉村虎太郎(1837〜63)らが大和五条の幕府代官所を襲った天誅組の変また、福岡藩を脱藩した平野国臣(1828〜64)、公家の沢宣嘉(1835〜73)らが但馬生野の幕府代官所を襲った生野の変、藤田小四郎(1842〜65)ら水戸藩尊攘派が筑波山に挙兵した天狗党の乱など、尊攘派の挙兵が相ついでおこったがいずれも失敗に終わった。
幕府と列国の攻撃を受けて敗北した長州藩では、尊攘派にかわって俗論派といわれる上層部が藩の実権を握り、禁門の変の責任者として家老3人を切腹させ、幕府に恭順・謝罪の態度を示した。また薩摩藩では、1863(文久3)年に、先の生麦事件の報復のため鹿児島湾に来航したイギリス艦隊と交戦して大きな被害を受け(薩英戦争)、攘夷の不可能なことがしだいに明らかとなった。
イギリスなど4カ国はさらに、尊攘派勢力の退潮という好機を利用して、依然として通商条約を勅許しない朝廷に対して、1865(慶応元)年に兵庫沖に艦隊を送って軍事的な威圧をかけ、兵庫開港は認めさせられなかったものの、通商条約の勅許を勝ち取り、朝廷の攘夷方針をやめさせることに成功した。その翌年、列強は兵庫開港が認められなかった代償として関税率の引下げを要求し、通商条約締結の際に定めた平均で約20%の関税率を廃止し、一律5%に引き下げる改税約書を結んだ。
このころ、対日外交に指導的役割を果たしていたイギリスは、公使パ一クス( Parkes, 1828〜85 )がしだいに幕府の国内を統治する力が弱体化したことを見抜き、対日貿易の自由な発展のためにも、幕府にかわる政権の実現に期待するようになった。薩摩藩でも、薩英戦争で攘夷が不可能であることを知ってイギリスに近づき、西郷隆盛(1827〜77)・大久保利通(1830〜78)ら下級武士が藩政を指導し、武器の輸入・留学生の派遣・洋式エ場の建設など改革を進めていった。
倒幕運動の展開
いったん幕府に屈服した長州藩では、攘夷の不可能なことをさとった高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允、1833〜77)らは、幕府にしたがおうとする藩の上層部に反発し、高杉は奇兵隊を率いて1864(元治元)年12月に下関で挙兵し、藩の主導権を握った。この勢力は領内の豪商·豪農や村役人層とも結んで恭順の藩論を転換させ、軍制改革を行って軍事力の強化をはかっていった。
長州藩の藩論が一変したため、幕府は再び長州征討(第2次)の勅許を得て諸藩に出兵を命じた。しかし、攘夷から開国へと藩論を転じていた薩摩藩は、長州藩がイギリス貿易商人のグラヴァーから武器を購入するのを仲介するなど、ひそかに長州藩を支持する姿勢を示した。
1866(慶応2)年には、土佐藩出身の坂本竜馬(1835〜67)・中岡慎太郎(1838〜67)らの仲介で、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允らが相互援助の密約を結び(薩長連合)、反幕府の態度を固めた。幕府は6月に攻撃を開始したが、長州藩領へ攻め込むことができず、逆に小倉城が長州軍により包囲され落城するなど戦況は不利に展開し、幕府はまもなく大坂城中で出陣中の将軍家茂が急死したことを理由に戦闘を中止した。また、この年の12月に孝明天皇が急死したことは、天皇が強固な攘夷主義者ではあったが公武合体論者でもあったので、幕府にとっては大きな痛手となった。
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
明治維新(世界史)
欧米列強のアジア進出の圧力は、やがて江戸幕府のもとで17世紀以来鎖国を続けてきた日本にもおよぶようになった。ロシアが18世紀末以降、日本の北方海域に出没するようになったことは前述( ロシアの東方進出)のとおりであるが、19世紀になると、アメリカが日本を捕鯨船の補給基地と中国貿易の寄港地として目をつけるようになり、1853年、ペリー Perry (1794〜1858)の率いるアメリカ艦隊(黒船)が浦賀に来航し、日本の開港を求めた。幕府では開国か攘夷かをめぐって激しい対立があった。
- 明治維新(世界史)
朝鮮の開国
1860年代になると、欧米列強は従来からの鎖国政策を続ける朝鮮にも開国を迫るようになった。列強の開国要求に対し、当時の朝廷の実権者大院君(1820〜98, 国王高宗(朝鮮)の父)は、強硬な攘夷政策をとってこれを拒否した。やがて明治維新後の日本政府も、朝鮮に対して開国を要求するようになった。