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漢(王朝) (紀元前 B.C.202〜A.D.20)

中国の王朝。秦滅亡後楚漢戦争に勝利した劉邦がたてた「前漢(紀元前202年〜8年)」と、光武帝が王莽に滅ぼされた漢を再興してたてた「後漢(25年〜220年)」の二つの王朝を総称して「漢王朝」と呼ばれる。漢族・漢字など漢という王朝名は、現在でも中国文化を代表する語として用いられている。

漢(王朝)

首都:長安(紀元前206年– 9年、190年–195年)、洛陽(25年–190年、196年)、許昌(196年–220年)

世界史対照略年表(前400〜600)
世界史対照略年表(前400〜600)©世界の歴史まっぷ
アジア・アメリカの古代文明
アジア・アメリカの古代文明 ©世界の歴史まっぷ

前漢

前漢 – 世界の歴史まっぷ

後漢

後漢 – 世界の歴史まっぷ

漢代の社会

春秋・戦国時代以来、徐々に発展してきた農業生産力が古い村落共同体を壊していき、漢代には標準100(約4.5ha)ほどの耕地をもつ農民家族100戸ほどからなる集落()が形成された。

漢代の農民は、5〜6人程度の家族で標準100畝の耕地を耕し、郡・県・郷・里制の末端である里に組織された。その100畝からの収穫は100石(約1800ℓ)にすぎず、ギリギリの生活を余儀なくされていた。
これらの農民の間での貧富の差は、はじめそれほど大きくなかったとみられている。また、里内の日常生活の秩序は、父老ふろうと呼ばれる信望のある有力者層によって維持されていた。しかし実際には重い税、徭役ようえきや飢饉のため土地を売って没落する農民も多く、一部のものに土地が集中する傾向を促した。
漢代の社会
漢代の社会変化 ©世界の歴史まっぷ

こうして豪族と呼ばれる地方の有力者が現れた。彼らは広い耕地を所有し、当時もっとも進んだ農法である牛耕を取り入れ、また奴隷や小作人を使って耕作させた。こうした傾向は紀元前1世紀ころから顕著なものとなり、重い租税や徭役・兵役の負担に苦しむ農民のなかには、土地を失い没落して彼らの奴隷となったり、あるいは小作人として彼らの支配下に入るようなものも現れた。
そこで前漢は、紀元前7年、哀帝(漢)あいていのとき大土地所有と奴隷の数を制限しようとして限田策げんでんさくを実施したが、効果は上がらなかった。さらに武帝(漢)以来郷挙里選きょうきょりせん(地方長官の推薦による官吏登用法)もおこなわれたため、地方で実力をもつ豪族は官僚となって権力を握った。
とりわけ後漢の政府は、漢代をつうじて農民の貧窮化・没落化の傾向は激しさを増し、多数の流民が発生するなど社会の矛盾は激しくなり、農民反乱(黄巾の乱など)を引き起こすことになった。

漢代の社会 – 世界の歴史まっぷ

漢代の文化

漢代の文化

儒学儒教の国教化武帝(漢)時代、董仲舒の献策により五経博士を設置。国家の統治理念となる。
訓詁学の発達古書の復元、経典や字句の注釈に力を注ぎ、教義の理念的発展はなかった。馬融や鄭玄(後漢)によって大成。
歴史書『史記』(司馬遷全130巻、本紀・表・書・世家・列伝からなる紀伝体。伝説上の黄帝から武帝(漢)までの通史。その後の正史の模範となる。
漢書』(班固)全120巻、紀伝体による前漢の正史。
宗教仏教の伝来前漢末(紀元前後)、西域より伝来。
太平道張角が指導。呪文や祈祷による病気を治療。黄巾の乱の主力。道鏡の源流となる。河北が中心。
五斗米道張遼・張が指導。祈祷による病気治療をおこない、謝礼に米を5斗はらう。道鏡の源流となる。四川が中心。
美術工芸製紙法後漢の宦官・蔡倫が改良。木簡や竹簡に代わり普及。のちにイスラーム圏を経てヨーロッパに伝播。
美術・工芸絹織物・漆器・銅鏡
学問『説文解字』許慎(後漢)が編纂。9353字の漢字を解説した最古の字書。
文字文字甲骨文字()→金石文(周)→篆書(秦)→隷書(前漢)→楷書(後漢末)
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漢代約400年にわたる政治的統一は、春秋・戦国時代に各地で多彩な発展をとげた中国文化を全国的に統合するという役割を果たした。

儒学の成立

前漢の初めは、法家や道家の思想が有力であったが、武帝(漢)のとき、董仲舒とうちゅうじょの提案により、礼と徳を重んじる儒学が統一国家を支える原理としてふさわしいということから官学とされた。中央の太学たいがくには五経博士ごきょうはくしがおかれて五経が講義され、儒学的教養をもって官吏の養成がはかられた。

五経:儒教のもっとも重要な5つの経典。『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の五書を総称したもの。

ついで後漢の光武帝(漢)の保護・奨励により儒学は国家の統治理念として他の学問を圧倒したばかりか、日常生活の規範ともなって定着した。このような儒教の国教化は、その教説の固定化を招き、学者はもっぱら秦代の焚書で失われた古書の復元や経典の注釈に力を注ぐ訓詁くんこに努め、訓詁学は後漢の馬融ばゆう鄭玄じょうげんらによって大成された。
一方で陰陽五行いんようごぎょうの思想も広く信じられ、王朝の交替の解釈に用いられた。また、後漢の許慎きょしんは古典を読むために必要な『説文解字せつもんかいじ』という字典をつくった(100頃)。そのほか、文字も秦代の篆書てんしょ(小篆)にかわって筆写に便利な隷書れいしょという今日の漢字と大差ない書体が使用されるようになった。

歴史書の編纂

漢代には、統一された歴史的世界が形成されたことにともない、すぐれた歴史書が編纂された。なかでも前漢の武帝(漢)時代に司馬遷しばせんが編んだ『史記』130巻と、後漢の和帝(漢)時代に班固はんこの編んだ『漢書』120巻は、いずれも紀伝体で書かれていて、その後の正史(各王朝についての公式の履歴書)の模範とされた。

紀伝体:中国の代表的な歴史叙述方法には、編年体と紀伝体がある。編年体は年・月・日を追って記されるもので、いわゆる年代記である。これに対して紀伝体とは、皇帝の年代記である「本紀ほんぎ」と王朝の臣下である個人の伝記などからなる「列伝」を中心に構成される歴史叙述の体裁をいい、これ以後の正史はこの形式を踏襲した。
司馬遷と『史記』

司馬遷しばせんは、紀元前98年匈奴遠征に出て捕虜になった将軍李陵りりょうの弁護をしたために、武帝の怒りをかい、宮刑(去勢される刑)に処せられた。そののち、司馬遷は中書令として武帝に仕えるかたわら、発憤して『史記』を完成させたといわれている。『史記』は全130巻、本紀ほんぎ(歴代帝王の年代記)、表(内容別の年表)、書(制度・文物の変遷)、世家せいか(諸侯の国別の歴史)、列伝(有名な個人の伝記)からなり、伝説脳の帝王である黄帝こうていから武帝までの通史である。

道教の源流

社会不安が増大し疫病が流行した後漢末ころ(2世紀後半)、張角ちょうかくが指導した太平道と、張遼ちょうりょう張魯ちょうろが指導した五斗米道ごとべいどうなどの宗教結社が生まれ、生活に苦しむ農民の心をとらえた。ともに呪文や祈祷などで病気を治療することを主とし、太平道は河北を中心に、五斗米道は四川を中心に広まった。このうち太平堂は黄巾の乱の主力となった。いずれも後世、中国社会に流行した道教の源流となった。

美術・工芸

宮廷を始め豪族・富商などの需要に応じて美術・工芸の分野でも発達を見た。とりわけ絹織物・漆器・銅鏡などは、意匠もすっきりとしたのびやかさをもち、製作技術も大きく進歩した。これらの遺物は、中国各地や朝鮮の楽浪郡の遺跡、モンゴル高原の匈奴の遺跡であるノイン・ウラなどから出土している。

また、後漢の和帝のころ、宦官の蔡倫さいりんは、樹皮・麻くず・ぼろ布などを利用して製紙法を開発したといわれている。このことによって、それまで書写用に使用されてきた木簡竹簡(木や竹の札)やはく(絹)は、重くて不便で、高価であったりしたため、4世紀前半ころまでにはしだいに用いられなくなっていった。紙の製法は、中国における文化の発達に大きな貢献をしたばかりでなく、のちにイスラーム圏をへてヨーロッパにまで伝わり、世界の文化史のうえでも重大な意義を持っている。

詳説世界史研究

この時代が背景の作品

項羽と劉邦 King’s War

項羽と劉邦 King's War
項羽と劉邦 King’s War ©中国国際電視総公司

二世皇帝となった胡亥は皇族を殺し、始皇帝の治世を支えた重臣を粛清。朝廷を混乱に陥れ、始皇帝陵や阿房宮の完成を急がせた。その圧政に耐えきれなくなった民衆は次々に蜂起する。秦に滅ぼされた楚国の将軍の孫である24歳の項羽と、沛県の田舎町で亭長を務める46歳の劉邦も立ちあがった。

項羽と劉邦 King’s War あらすじ 登場人物 – 世界の歴史まっぷ

三国志 Three Kingdoms

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三国志 Three Kingdoms あらすじ 全95話 – 世界の歴史まっぷ

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ダニエル・リー 監督 三国志 ©Taewon Entertainment Co., Ltd. and ©Visualizer Film Production Limited. All Rights Reserved.

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皇帝一覧

前漢皇帝系図

前漢皇帝系図
前漢皇帝系図 ©世界の歴史まっぷ

前漢の歴代皇帝一覧

廟号姓諱在位備考
1高祖(漢)劉邦劉太公劉媼紀元前202年紀元前195年
2恵帝(漢)劉盈高祖(漢)高后(呂雉紀元前195年紀元前188年
3少帝恭劉恭恵帝(漢)後宮(不明)紀元前188年紀元前184年恵帝崩御後、嗣子がいなかったため、呂太后(呂雉)の支持を得て即位。生母は(呂雉)が殺害。
4少帝弘劉弘恵帝(漢)後宮紀元前184年紀元前180年少帝恭の弟。恵帝の実子ではないといわれるが真相は不明。
5文帝(漢)劉恒高祖(漢)薄氏紀元前180年紀元前157年紀元前180年に呂雉が崩御すると呂氏一族は周勃、陳平ら建国の元勲、および高祖の孫である斉王劉襄、朱虚侯劉章による政変で誅滅され、劉恒が新皇帝として擁立された。
6景帝(漢)劉啓文帝(漢)孝文皇后紀元前157年紀元前141年中央集権体制に反発した諸侯王らによる呉楚七国の乱
7武帝(漢)劉徹景帝(漢)王氏紀元前141年紀元前87年
8昭帝(漢)劉弗陵武帝(漢)趙婕妤紀元前87年紀元前74年
9昌邑王賀劉賀劉髆不明紀元前74年紀元前74年在位わずかに27日であったため、通例としては歴代皇帝の序列から外される。
10宣帝(漢)劉詢劉進王氏紀元前74年紀元前49年民間に育つが霍光に擁立され即位。後世、後漢光武帝により前漢中興の祖とされ中宗の廟号を贈られる。法家主義。
11元帝(漢)劉奭宣帝(漢)許皇后紀元前49年紀元前33年儒教重視。宦官による専断。
12成帝(漢)劉驁元帝(漢)孝元皇后(王政君)紀元前33年紀元前7年宣帝以来の宦官勢力弱体化に成功したが、外戚勢力、生母・孝元皇太后(王政君)の実家・王一族が深く朝政に関与し、後の王莽による簒奪の要因となる。
13哀帝(漢)劉欣劉康(成帝の異母弟)丁姫紀元前7年紀元前1年祖母の傅氏と生母の丁氏が孝成皇后に賄賂を贈り、18歳の時に伯父・成帝の皇太子となり、成帝が崩御すると孝成皇太后の後楯で1即位する。
14平帝(漢)劉衎劉興衛姫紀元前1年5年従兄の哀帝の崩御にともない、皇帝の璽綬を董賢から奪った王莽らによって9歳で皇帝に即位する。即位当初から王莽ら王一族が権力を握る。
15孺子嬰劉嬰劉顕不明5年8年摂皇帝王莽の傀儡として皇太子の位にとどめられ、帝位には即かなかったが、一般に「前漢最後の皇帝」として歴代に名を連ねる。
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後漢の歴代皇帝一覧

廟号姓諱諡号在位
1世祖劉秀光武帝(漢)23年 - 57年
2顕宗劉荘明帝(漢)57年 - 75年
3粛宗劉炟章帝(漢)75年 - 88年
4穆宗劉肇和帝(漢)88年 - 105年
5 劉隆殤帝(漢)105年 - 106年
6恭宗劉祜安帝(漢)106年 - 125年
7 劉懿少帝(漢)125年
8敬宗劉保順帝(漢)125年 - 144年
9 劉炳沖帝(漢)144年 - 145年
10 劉纘質帝(漢)145年 - 146年
11威宗劉志桓帝(漢)146年 - 167年
12 劉宏霊帝(漢)168年 - 189年
13 劉辯少帝(漢)189年
14 劉協献帝(漢)189年 - 220年
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