東アジアの状況
- 日本:16世紀後半、織田信長・豊臣秀吉が南蛮貿易による利益をえる一方で、新式の火縄銃や大砲をもちいて日本の統一を進る。鎖国へ。
- 中国:建州女真のヌルハチが北方民族を統一して後金を建国。子のホンタイジがモンゴルのチャハル部を平定。国号を清と改める。
東アジアの状況
国際交易の活性化とヨーロッパからの新式火器の伝来は、東アジアの各地における新興勢力の成長に大きな影響を与えた。
日本
日本では16世紀後半、織田信長(1534〜1582)・豊臣秀吉(1537〜1598)が南蛮貿易による利益をえる一方で、新式の火縄銃や大砲をもちいて日本の統一を進めた。豊臣秀吉は領土の拡大をめざして朝鮮侵略(文禄・慶長の役)、朝鮮では壬申・丁酉の倭乱と呼ぶ)をおこしたが、明の援軍や朝鮮の李舜臣(1545〜1598)が率いた水軍、さらには民間の義兵などの抵抗をうけ、秀吉の死もあって日本軍は撤退した。秀吉の死後実権を握った徳川家康(1542〜1616)は朱印船貿易を促進し、朱印状を与えられた商人は東南アジア方面に渡航し、さらに貿易がさかんになるに従って、海外に移住する日本人も増え、東南アジア各地には日本人居留地である日本町がつくられた。
日本と中国との間の銀と生糸の貿易は、16世紀から17世紀にかけて大きな利益を上げたため、中国人や日本人・ポルトガル人・オランダ人などがその利益をめぐって争った。ポルトガル人が拠点としたマカオ、オランダ人が拠点とした台湾などが新たな貿易中心地として成長していった。
オランダやポルトガルなどのヨーロッパ人が多く日本に往来したが、江戸幕府は幕藩体制を維持する必要から、キリスト教の禁止(1613)や貿易統制を強化し、ついに1630年代には日本人の海外渡航を禁止し、ポルトガル人の来航を禁じ、長崎に出島を築造して清とオランダの両国以外との交易は認めないという政策をとった(鎖国)。
清の建国
そのようななか、建州女真の一首長の子に生まれたヌルハチ(姓はアイシンギョロ(愛新覚羅) 1559〜1626)は、1583年、撫順関外の興京付近で挙兵し、1598年建州女真を統一して「マンジュ国」を成立させた。さらにはその北方に位置する海西女真を破り、ほぼ北方地方の全域を統一することに成功した。ヌルハチは1616年、アイシン(満州語で金を意味する)と号する国(後金国)をたて、ハンの位について(太祖 位1616〜1626)、元号を天命とした。
彼は軍事組織であると同時に行政・社会組織でもある八旗を編制して、女真族を統率した。八旗とは、黄・白・紅・藍の4色からなる4旗と、その4色に縁をつけた4旗とに分けたものであった。
また、彼はモンゴル文字を借りて表記する満州文字をつくり、統一政策を進めていった。後金の建国とその勢力伸張に驚いた明朝は、10万の大軍を派遣したが、1619年ヌルハチはサルフの戦いでこれを撃破し、1621年には遼河以東を制圧し、1625年には瀋陽(のち盛京と改称)を都とした。
1626年にヌルハチが没すると、その第8子でサルフの戦いで活躍したホンタイジ(1592〜1643)が、人々に推されてハンの位についた(太宗 位1626〜1643)。ホンタイジはしばしば明軍と交戦したが、これを破ることができなかったので、彼はモンゴル高原を迂回して明を攻撃する計画をたて、1635年内モンゴルのチャハル部を平定した。その際、元朝の皇室に伝わったという玉璽を手に入れ、1636年、満州人・漢人・モンゴル人に推されて皇帝の位につき、国号を中国風に清(1616〜1912 清朝)と改めた。
即位後ホンタイジは、明と冊封関係にあったことから清の建国を認めない朝鮮を攻撃して、これを臣属させ(1637)、さらにモンゴル諸部を平定し(1637)、また明側から投降してくる漢人部隊を吸収して、しだいにその勢力を増した。彼は国家機構を整え、まず六部をおき、監察機関である都察院や、藩部を統括する理藩院などを設置した。また、女真族からなる満州八旗のほか、平定したモンゴルの兵士や投降してきた漢人からなる蒙古八旗・漢軍八旗を編制した。このようにホンタイジは諸制度を制定し、清の基礎をきずいていった。
明代の東北地方
中国東北地方には、ツングース系に属する半猟半農民の女真(女直)族が居住しており、彼らの一部は12世紀に金朝を建国して中国北部をその領土とするまでになっていたが、元朝やそれにつづく明代では、その支配をうけていた。当時の東北地方の女真族は、北方の海西、撫順以東の建州、東北地方北部の野人の三大部に分かれて居住しており、毛皮や朝鮮人参などを瀋陽付近に設けられた交易場で、中国側の穀物や金属類と取引していた。明朝の永楽帝は、これら女真族を統合させないために、黒龍江下流にヌルカン都司(奴児干都司)を設け、遼東方面に建州衛をおき、名義だけの官職を授け、さまざまな賜与や特典を与えていた。こうしたなかで女真族の間に民族的自覚が現れ、統一気運が生まれ、ヌルハチの登場となったのである。
明の滅亡
そうしたなか、いわゆる万暦の三大征や女真族の南下がおきると、その軍事費を捻出するため、鉱山開発や増税をおこなった。このために民衆の生活は困窮していき、各地で反乱(明変)がおき、社会は不安定になっていった。
これに加え、朝廷内部では万暦帝の後継者をめぐり対立がおき、また増税問題で宦官と結んで政界を左右しようとする官僚の一派と、これに反対する一族とが対立するなど、政界は党派争いが熾烈を極めていった。反対派のリーダーであったのが、顧憲成(1550〜1612)である。彼は、時の権力者張居正の政策に反対したため吏部の官を免職となり、出身地の江蘇省無錫に帰郷後、東林書院を復興して講義するかたわら、政府を痛烈に批判した。東林書院には現政府に批判的な官僚らが集まり、東林派を結成して政府への反対勢力となった。これに対し、東林派から批判をうけたグループは宦官と結んで非東林派を結成し、ここに東林派と非東林派との激烈な論争がくりひろげられ、やがて両者の対立は政争へと変わっていった。非東林派の官僚は宦官の魏忠賢(?〜1627)と結託し、万暦年間の末期には魏忠賢のために東林派の重要人物はことごとく逮捕され、獄死あるいは追放となり、東林書院も閉鎖されてしまった。
東林書院
顧憲成などの在野の東林はメンバーが中心となって、1604年、顧憲成の出身地である江蘇省無錫県において、かつて宋代の楊時が開いた書院を再建した。書院とは、宋代以降、公的私的につくられた学校のことである。顧憲成は、東林書院に多くの学生を集め、みずから講義をおこない「講学」という討論会を開いて政策や官僚を批判した。当時の政界に強い影響をおよぼしたため、魏忠賢に憎まれ、1625年、強制的に閉鎖された。
東林派・非東林派の政争が激化し混乱を極めていった明朝では、17世紀前半に即位した崇禎帝(毅宗 位1627〜1644)が、東林派・非東林派の政争を抑え、宦官魏忠賢を排除し、徐光啓らを用いて財政の再建に努めた。しかし、中国東北地方の女真族がヌルハチに率いられて強大となり、これを抑えるために明は軍隊を派遣した。軍事費を捻出するために新税を設けねばならず、また相つぐ飢饉で社会は疲弊し、ついには各地で反乱がおこり、明は内部分裂の状態となった。陜西地方の農民反乱のリーダーである李自成(1606〜1645)は、1644年、北京を陥落させ、崇禎帝は自殺し、ここに明は滅亡した。