リディア アッシリア エトルリア 紀元前7世紀の世界(西)地図 紀元前7世紀アッシリア帝国 地図
紀元前7世紀の世界(西)©世界の歴史まっぷ

古バビロニア

ミタンニ

新バビロニア

メディア王国、リュディア王国、エジプト第26王朝

アッシリア Assyria
①古アッシリア時代-紀元前1950年頃-紀元前15世紀 ②中アッシリア時代−紀元前1365年-紀元前934年 ③新アッシリア時代−紀元前934年-紀元前609年

アッシリア王国:ティグリス川中流域のアッシュル市を中心に形成された王国。前三千年紀にはアッカド王国やウル第3王朝の支配下にあった。前二千年紀になるとアナトリアとの交易を独占する商業国家として繁栄した。前2千年紀後半ミタンニが興るとそれに服属したが、独立を勝ち取ったアッシリアはバビロンのカッシート朝を凌駕する強国となった。その後、一時混迷の時代をむかえるが、再び隆盛に向かい、エジプトを含む全オリエントを支配するにいたった。前612年に新バビロニアメディアが首都ニネヴェを破壊したことで事実上滅亡した。

アッシリア

世界史対照略年表(前3000〜前200)
世界史対照略年表(前3000〜前200)©世界の歴史まっぷ

アッシリア王国:ティグリス川中流域のアッシュル市を中心に形成された王国。前三千年紀にはアッカド王国やウル第3王朝の支配下にあった。前二千年紀になるとアナトリアとの交易を独占する商業国家として繁栄した。前2千年紀後半ミタンニが興るとそれに服属したが、独立を勝ち取ったアッシリアはバビロンのカッシート朝を凌駕する強国となった。その後、一時混迷の時代をむかえるが、再び隆盛に向かい、エジプトを含む全オリエントを支配するにいたった。前612年に新バビロニアとメディアが首都ニネヴェを破壊したことで事実上滅亡した。

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首都: アッシュール、ニネヴェ

オリエントと地中海

オリエントと地中海世界
オリエントと地中海世界 ©世界の歴史まっぷ

古代オリエント世界

アッシリア

セム語系のアッシリア人は、ティグリス川上流の北メソポタミアに紀元前2千年紀の初めに建国した。アッシリアの名は、最初の首都アッシュルまたは同名の天神アッシュルに由来する。この地方は海抜500メートル台の天水農業地帯で、下流域のように大河の運んでくる沃土に頼る穀物栽培は不可能であった。そこでアッシリア人は内陸中継貿易に活路を求めた。アナトリア東部からは、アッシリア人の商業植民市の遺跡が発見されている。紀元前15世紀に一時ミタンニに服従したものの、やがて独立を回復し、紀元前12世紀に東地中海全域を襲った民族大移動(紀元前1200年のカタストロフ)で、旧勢力(ヒッタイト、古バビロニア、エーゲ文明など)が衰亡したあとをうけて強大な軍事国家となった。四方に遠征したアッシリア軍の装備や戦いぶり、その残虐さは、彼らが残した多くの浮き彫りによってよく知られている。紀元前8世紀後半になると征服活動に拍車がかかり、バビロニアからシリアへかけての地域を支配下におさめた。

エトルリア 紀元前7世紀の世界(西)地図 紀元前7世紀アッシリア帝国 地図
紀元前7世紀の世界(西)©世界の歴史まっぷ

紀元前7世紀の前半にはエジプトも征服して、オリエントの主要部分を統一した最初の世界帝国が出現した。首都ニネヴェに大図書館を建設したことでも知られるアッシュル=バニパル王のときに、その版図は最大となった。アッシリア王はこの広大な領土を州に分け、各地に総督をおいて統治した。また駅伝制を設けて中央集権の強化をはかった。有名な強制集団移住政策は、被征服民の反乱を防止するとともに、領内の労働力の適正配置をねらったものでもあった。

しかしその支配があまりにも強圧的で過酷であったため、各地に反乱が相つぎ、さしもの大帝国も間もなく崩壊した。
まず紀元前7世紀の中ごろにエジプト第26王朝が独立、次いでイラン高原にインド=ヨーロッパ語系のメディア王国が、また小アジアに同系のリディア王国が成立した。さらに、メソポタミア南部に移動していたアラム人の一派と思われるカルデアは、紀元前625年にバビロンを都として新バビロニア(カルデア王国)を樹立すると、メディアと同盟してアッシリアを攻め、紀元前612年にニネヴェを陥れてこれを滅ぼした。このようにしてアッシリアによる統一が崩れたあと、オリエントは、メディア王国リディア王国新バビロニア、エジプト第26王朝(新王国)の4国が併立する形勢となった。なかでも、メソポタミアからシリア・パレスチナへかけての「肥沃な三日月地帯」を支配した新バビロニアがもっとも優勢であった。

アッシリア軍の強さ

アッシリア軍の中核は陸軍で、鉄製武器や強力な弓で武装した歩兵、騎兵、戦車隊、それにのちのローマ軍と同じように、土木技術を身につけた工兵隊で編成されていた。艦隊の建造にはフェニキア人があたり、築城や攻城のためには、長い経験をもつシリアの工人たちが用いられた。またアッシリアの王たちは、治世の大半を陣営のなかで過ごした。

エジプト統一王国の形成と展開
エジプト末期王朝時代

第22〜24王朝はリビア人、第25王朝はヌビア出身のクシュ人のたてた王朝である(エジプト第3中間期)。紀元前7世紀の前半にはアッシリア軍がくりかえし侵入し、エジプトを支配下においた。その後、第26王朝のもとで一時エジプト人の独立が回復されたが、紀元前525年にはアケメネス朝によって征服され、その1州となった。さらに紀元前332年にはアレクサンドロス3世の征服を受け、ここに古代エジプト王国の歴史はその幕を閉じたのである。

アラム人とフェニキア人
アラム人

遊牧民としてシリアからメソポタミア北部へかけての地方に姿を現したアラム人は、紀元前2千年紀の半ばころよりそれぞれの進出先で定着した。そして紀元前1200年ころより、ダマスクスをはじめとする都市を中心に幾つかの小国家を形成し、内陸貿易の担い手として広い範囲で活躍した。紀元前8世紀にはアッシリア軍(中アッシリア時代)の侵略に対し、それまで抗争を続けてきたヘブライ人とも手を結んで抵抗したが、破れて独立を失った。しかし王国滅亡後も商業活動はさかんで、その言語は全オリエントの国際共通語となった。そのため、政治的にはアラム人を支配したアッシリアや、のちのアケメネス朝も、公用語としてアラム語を採用したほどである。またフェニキア文字から分かれて発達したアラム文字は、各地に伝播して東方系の多くの文字の母体となった。アラム文字から派生した文字として、ヘブライ文字・シリア文字・アラビア文字・ソグド文字・ウイグル文字・モンゴル文字・満州文字などがあげられる。

ヘブライ人とユダヤ教

イスラエルは紀元前722年にアッシリアのサルゴン2世に、またユダは紀元前586年に新バビロニアのネブカドネザル2世に征服されて、いずれの場合も住民の多くが強制居住させられた。とくに後者によるバビロニアへの連行は、「バビロンの捕囚」として長く後世に記憶されることになる。

イスラーム世界の形成と発展

インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化

アフリカのイスラーム化
ナイル川上流のスーダンには、紀元前10世紀ころにクシュ王国(紀元前920〜350)が成立し、紀元前8世紀には一時エジプトを支配するほどの勢いを示したが、アッシリアの侵入(紀元前667)によってナイル川上流域に後退した。これ以降メロエに都をおいた時代(紀元前670頃〜350頃)に、王朝は鉄器の製造とエジプトとの通商によって栄え、メロエ文字(未解読)を用いた。しかし4世紀になると、エチオピアに興ったアクスム王国(紀元前後〜9世紀)に滅ぼされた。西アフリカのガーナ王国(7世紀頃〜1150)は、金を豊富に産することで知られていた。ムスリム商人は、サハラ砂漠の塩床から切り出した岩塩をもってガーナにいたり、これを金と交換してイスラーム世界にもたらした。この交易によって王国は繁栄を続けたが、1076/1077年、モロッコのムラービト朝の攻撃を受けて衰退した。
16世紀までのおもなアフリカの諸国地図
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古アッシリア時代

紀元前1950年頃-紀元前15世紀

シャムシ・アダド1世の治世を除き、数ある地方都市国家の一つに過ぎなかったが、アッシリア商人は交易活動を広く行い交易先の各地の都市に隣接して商業植民市カールム(港湾区)を作ったことで知られる。
政治史的には、紀元前1813年にアッシリアを征服して王となったアムル人、シャムシ・アダド1世の存在が極めて重要である。彼はアッシリアにシュバト・エンリル市を築き、そこを拠点にオリエント最大の王国を築きあげたほか、バビロニア風の王権概念を持ち込んで自らを「世界の王」と称した。またアッシリア王名表が初めて編纂され、その王統譜が整理された。だが、彼の後継者達はその巨大な王国を維持することが出来ず、王の称号もアッシュルの副王に戻り、世界の王を称する者は古アッシリア時代を通じて現れなかった。

紀元前15世紀のオリエント諸国の地図
紀元前15世紀のオリエント諸国の地図©世界の歴史まっぷ

古アッシリア時代の君主

  • エリシュム1世(前1939年頃 – 前1900年頃)
  • イクヌム
  • サルゴン1世(アッカド王のサルゴンとは同名だが、時代の異なる別人)
  • プズル・アッシュール2世
  • ナラム・シン(アッシリア王)(アッカド王のナラム・シンとは同名だが、時代の異なる別人)
  • エリシュム2世
  • シャムシ・アダド1世(前1813年 – 前1781年)
  • イシュメ・ダガン1世(前1780年 – 前1741年)
    ムト・アシュクル(イシュメ・ダガン1世の子。王名表には記載がない)
    アシヌム(イシュメ・ダガン1世の子。一時アッシュール市を支配(?)。王名表には記載がない)
  • アッシュール・ドゥグル 「無名の人の子」の一人。
  • アッシュール・アプラ・イディ 「無名の人の子」の一人。
  • ナツィル・シン 「無名の人の子」の一人。
  • シン・ナミル 「無名の人の子」の一人。
  • イプキ・イシュタル 「無名の人の子」の一人。
  • アダド・サルル 「無名の人の子」の一人。
  • アダシ(前1700年頃) 「無名の人の子」の一人。
  • ベル・バニ(前1700年 – 前1691年)
  • リバヤ(前1690年 – 前1674年)
  • シャルマ・アダド1世(前1673年 – 前1662年)
  • イプタル・シン(前1661年 – 前1650年)
  • バザヤ(前1649年 – 前1622年)
  • ルルラヤ(前1621年 – 前1618年)
  • シュ・ニヌア(前1615年 – 前1602年)
  • シャルマ・アダド2世(前1601年)
  • エリシュム3世(前1598年 – 前1586年)
  • シャムシ・アダド2世(前1585年 – 前1580年)
  • イシュメ・ダガン2世
  • シャムシ・アダド3世
  • アッシュール・ニラリ1世(前1547年 – 前1522年)
  • プズル・アッシュール3世
  • エンリル・ナツィル1世
  • ヌル・イリ
  • アッシュール・シャドゥニ
  • アッシュール・ラビ1世
  • アッシュール・ナディン・アヘ1世
  • エンリル・ナツィル2世
  • アッシュール・ニラリ2世
  • アッシュール・ベル・ニシェシュ
  • アッシュール・リム・ニシェシュ
  • アッシュール・ナディン・アヘ2世(? – 前1393年頃)

参考 Wikipedia

中アッシリア時代

紀元前1365年-紀元前934年

首都:アッシュール
アッシリア史における転機となったのがアッシュール・ウバリト1世の治世である。彼の時代に、アッシリアはミタンニの影響力を完全に排除し、大国としての道を歩み始めることになった。このことは彼がエジプト王へ向けて送った外交文書アマルナ文書からも確認できる。当時オリエント世界はヒッタイト、ミタンニ、バビロニア、エジプト等の列強諸国が君臨していたが、ミタンニを打倒したことによってその遺領を獲得し、バビロニア、ヒッタイトとも戦って勝利を収め、アッシリアはオリエント世界に確固たる地位を築いた。トゥクルティ・ニヌルタ1世の時代には、はじめてアッシリア王がバビロニアを征服し、これを支配下に納めることに成功している。だが、彼の死後は前1200年のカタストロフが起こり、政治混乱によって勢力が減衰した。ティグラト・ピレセル1世の時代には一時回復したものの、中アッシリア時代の後半にはアラム人の侵入によって国内が混乱しアッシリアは混乱期に入ったため、残存史料も少なく、政治史の復元が困難になる。

紀元前10世紀前後のオリエント地図
紀元前10世紀前後のオリエント地図 ©世界の歴史まっぷ

中アッシリア時代の君主

  • エリバ・アダド1世(前1392年 – 前1366年)
  • アッシュール・ウバリト1世(前1365年 – 前1330年)
  • エンリル・ニラリ(前1330年 – 前1319年)
  • アリク・デン・イリ(前1319年 – 前1308年)
  • アダド・ニラリ1世(前1307年 – 前1275年)
  • シャルマネセル1世(前1274年 – 前1245年)
  • トゥクルティ・ニヌルタ1世(前1244年 – 前1208年)
  • アッシュール・ナディン・アプリ
  • アッシュール・ニラリ3世
  • エンリル・クドゥリ・ウツル
  • ニヌルタ・アピル・エクル(前1192年 – 前1180年)
  • アッシュール・ダン1世(前1179年 – 前1134年)
  • ニヌルタ・トゥクルティ・アッシュール(前1133年)
  • ムタッキル・ヌスク(前1133年)
  • アッシュール・レシュ・イシ1世(前1133年 – 前1116年)
  • ティグラト・ピレセル1世(前1115年 – 前1076年)
  • アシャレド・アピル・エクル(前1076年 – 前1074年)
  • アッシュール・ベル・カラ(前1074年 – 前1056年)
  • エリバ・アダド2世(前1056年 – 前1054年)
  • シャムシ・アダド4世(前1054年 – 前1050年)
  • アッシュールナツィルパル1世(前1050年 – 前1031年)
  • シャルマネセル2世(前1031年 – 前1019年)
  • アッシュール・ニラリ4世(前1019年 – 前1013年)
  • アッシュール・ラビ2世(前1013年 – 前972年)
  • アッシュール・レシュ・イシ2世(前972年 – 前967年)
  • ティグラト・ピレセル2世(前967年 – 前935年)
  • アッシュール・ダン2世(前934年 – 前912年)

参考 Wikipedia

新アッシリア時代

紀元前934-紀元前609年

首都:アッシュール、カルフ、ドゥル・シャルキン、ニネヴェ
この時代は古代オリエント史において最も記録史料が豊富な時代であり、アッシリア王名表、アッシリア・バビロニア関係史に代表される年代誌、各種行政文書、法律文書、条約、記念碑文などが分野の偏りがあるものの大量に残存している。
アッシュール・ダン2世アダド・ニラリ2世等によって中アッシリア時代後期の混乱が収められた後、アッシリアの王達は盛んに遠征を行い、次々と領土を拡大していた。いわゆるアッシリア帝国と呼ばれる時代に入るのはティグラト・ピレセル3世の時代である。
この時代のアッシリア政治史における重要案件はバビロニア問題であった。ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを完全征服して以降も、事あるごとにエラムの支援を受けたバビロニアが反乱を起こし、その統治はアッシリア王達の頭痛の種であり続けた。ティグラト・ピレセル3世以降、バビロニアの反乱に直面しなかった王はほとんどいない。
紀元前722年にシャルマネセル5世イスラエル王国へ侵攻し占領したが、直後に死去。サルゴン2世は即位直後にバビロニアに離反され、ウラルトゥ・アッシリア戦争やバビロニア再征服が続く中で死去し、センナケリブが後を継いだ。エサルハドンの時代にはエジプトにまでその領域が広がった。この時代のシリアにおけるアッシリアの行動はヘブライ人達によって旧約聖書に記録されている。アッシュル=バニパルがエラムを滅亡(スサの戦い)させたものの、アッシュル=バニパル治世後半からこうした巨大帝国も急激に衰退し、彼の死後20年あまりでアッシリアは滅亡してしまう。この衰退の原因が何であるのかは分かっていないが、王家の内紛や広大な領土・多様な被征服民族を統治するシステムの構造的な問題が噴出したものとも考えられている。北方からスキタイ等の外敵に圧迫され、領内では各所で続発する反乱を抑える事が出来なくなっていき、紀元前625年には新バビロニアが独立してその勢いはさらに増した。紀元前612年に新バビロニアやメディア王国の攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落した(ニネヴェの戦い)。
亡命政権がハランに誕生し、アッシュール・ウバリト2世が即位、エジプト王ネコ2世と同盟を結んで新バビロニアと抗戦するも紀元前609年にはこれも崩壊し、アッシリアは滅亡した。だが、アッシリアに続く新バビロニアやメディア王国、アケメネス朝ペルシアはアッシリアの行政機構の多くを取り入れ、帝国滅亡後もアッシリアという地名だけは残った。

  • はじめてオリエントを統一。 → ユダ王国除くエジプト・メソポタミアを統一した。
  • 恐怖政治により統一から100年もたず滅亡。
  • アッシュル=バニパル王 ニネヴェ図書館(アッシュル=バニパルの図書館)建設
エトルリア 紀元前7世紀の世界(西)地図 紀元前7世紀アッシリア帝国 地図
紀元前7世紀の世界(西)©世界の歴史まっぷ
紀元前600年頃のオリエント地図
紀元前600年頃のオリエント地図 ©世界の歴史まっぷ

新アッシリア時代の君主

  • アダド・ニラリ2世(前911年 – 前891年)
  • トゥクルティ・ニヌルタ2世(前891年 – 前883年)
  • アッシュールナツィルパル2世(前883年 – 前859年)
  • シャルマネセル3世(前858年 – 前824年)
  • シャムシ・アダド5世(前823年 – 前811年)
  • アダド・ニラリ3世(前810年 – 前783年)
    サンムラマート(セミラミスのモデル)(摂政、前810年 – 前805年)
  • シャルマネセル4世(前783年 – 前772年)
  • アッシュール・ダン3世(前772年 – 前755年)
  • アッシュール・ニラリ5世(前754年 – 前745年)
  • ティグラト・ピレセル3世(前744年 – 前727年)
  • シャルマネセル5世(前727年 – 前722年)
  • サルゴン2世(前722年 – 前705年)
  • センナケリブ(前705年 – 前681年)
    ナキア
  • エサルハドン(前681年 – 前669年)
  • アッシュル=バニパル(前669年 – 前627年頃)
  • アッシュール・エティル・イラニ(前627年頃 – 前623年頃)
    シン・シュム・リシル
  • シン・シャル・イシュクン(前623年頃 – 前612年頃)
  • アッシュール・ウバリト2世(前612年頃 – 前609年頃)

参考 Wikiwand

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文化

サルゴン2世のドゥル・シャルキンから見つかった人頭有翼牡牛像(ルーブル美術館所蔵
サルゴン2世のドゥル・シャルキンから見つかった人頭有翼牡牛像(ルーブル美術館所蔵) ©Public domain
アッシュールバニパル
アッシュールバニパルの浮き彫り。腰に2本の葦ペンが挟んである ©Public domain
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