ムラービト朝 ルーム・セルジューク朝 ムラービト朝 ガズナ朝 11世紀後半のイスラーム世界地図
11世紀後半のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ

ルーム・セルジューク朝


ルーム・セルジューク朝 (1077年〜1308年)
セルジューク朝の地方政権として分裂したアナトリア地方を中心に支配したテュルク人の王朝。

  • 首都: ニカイア(現イズニク), イコニウム(現コンヤ, 第1回十字軍によってニカイアが占領されたため)
  • 建国: 1077年
  • ニカイアの喪失: 1097年
  • ミュリオケファロンの戦い: 1176年
  • キョセ・ダグの戦い: 1243年
  • 滅亡: 1308年

ルーム・セルジューク朝

イスラム王朝 17.イスラーム世界の発展 イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

歴史

「ルーム」とは「ローマ」の意味で、東ローマ帝国領であったアナトリアの地を指す言葉としてイスラム教徒の間で用いられ、アナトリアを拠点としたことからルーム・セルジューク朝という。

建国初期

建国者のスライマーン・イブン=クタルミシュは、セルジューク家の祖セルジュークの玄孫にあたる。スライマーンの父クタルミシュ・イブン・アルスラーン・イスラーイールはアルプ・アルスラーンとセルジューク朝の王の地位を争うが、1063年のデヘ・ナマクの戦いで敗れ、敗走の途上で没した。敵対者の子であるスライマーンは命こそ助けられたが、王族としての扱いは受けられなかった。

11世紀後半のイスラーム世界地図
11世紀後半のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ

1071年、東ローマ帝国ドゥーカス朝とのマラズギルトの戦いにおけるセルジューク朝の勝利後、東ローマ帝国の軍事的影響力が弱まったアナトリアではトゥルクマーン(オグズ)系遊牧民の進出が始まる。マラズギルトの戦勝者であるスルターン・アルプ・アルスラーンには積極的にアナトリアに進出する意図は無く、アルプ・アルスラーンの跡を継いでスルターンに即位したマリク・シャーは、スライマーンとマンスールの兄弟に80,000戸のトゥルクマーンを与えてアナトリアの統治を命じた。
1074年から1075年の間にスライマーンはニカイアを占領、東ローマ帝国皇帝と同盟してアナトリアの君主の地位をうかがうマンスールに勝利する。
そして1077年にスライマーンはセルジューク朝からアナトリアの支配権を認められ、独立を宣言するが、セルジューク朝の君主と異なり「スルターン」の称号は名乗らなかった。
東ローマ帝国と協定を結んだスライマーンはアナトリア南部に進攻し、タルススなどの都市を獲得した。さらにスライマーンは東方に進み、1084年12月(あるいは1085年)にキリキア・アルメニア王国領のアンティオキア(現在のアンタキヤ)を制圧するが、スライマーンがシリアへも進出したために、他のセルジューク朝の王族との間に対立が生まれる。
1086年6月にスライマーンはシリア・セルジューク朝の創始者トゥトゥシュとの戦いに敗れ、落命した。
成人していなかったスライマーンの子クルチ・アルスラーン1世はホラーサーン地方に召還され、マリク・シャーの元に留められた。指導者を欠いたアナトリア地方では領主たちが独立して互いに争い、セルジューク朝の支配領域はアルメニアにまで後退した。

マリク・シャーの没後、1092年にクルチ・アルスラーンは解放されてアナトリアの統治を命じられ、ニカイアに入城する。
1096年、アナトリアに上陸した十字軍(第1回十字軍)が、ニカイアを包囲する事件が起きる(ニカイア攻囲戦)。クルチ・アルスラーンはマラティヤ包囲中に十字軍の出現を知り、ニカイアに戻るが敗れ、翌1097年に首都を失った。
ルーム・セルジュークはそれまで敵対関係にあったトゥルクマーン系の国家ダニシュメンド朝と同盟して十字軍と戦うが、ドリュラエウム(現エスキシェヒール)の戦いに敗れる(ドリュラエウムの戦い)。
1097年8月にコンヤ、ヘラクレア(カラデニズ・エレーリ)、カエサレア(現カイセリ)が十字軍に占領され、ルーム・セルジューク朝が制圧していたエーゲ海沿岸部の地域は東ローマ帝国によって奪い返された。
トゥルクマーン諸勢力は十字軍に対抗するために連合し、1101年8月のミラノ大司教アンセルモの撃破を皮切りにヌヴェール伯、アキテーヌ・バイエルン軍を破り(1101年の十字軍)、トゥルクマーンたちは勢力を回復した。

十字軍

ドリュラエウムの戦いの後、ルーム・セルジューク朝はアナトリア中央の高原地帯に後退するが、領地を接するダニシュメンド朝とマラティヤの帰属を巡って争うことになる。ニカイアに代わる新たな首都に定められたコンヤは1101年から1102年にかけてダニシュメンド朝に包囲され、一時的に占領された。

他方、マリク・シャー没後のイラン、イラクでは後継を巡る混乱が続いており、クルチ・アルスラーンはイラクへの進出を計画した。
1106年にマラティヤとマイヤーファーリキーン(現シルワーン)がルーム・セルジュークの支配下に入り、1107年にセルジューク朝のスルターン・ムハンマド・タパルに反抗するモースル(マウスィル)の住民に招聘されてクルチ・アルスラーンは同地に入城する。入城後にクルチ・アルスラーンは金曜礼拝のフトバからムハンマド・タパルの名前を削り、代わりに自身の名前を入れて読み上げさせた。同年7月にムハンマド・タパルが派遣したアミール・チャヴルとハーブール河畔で衝突するが、戦闘はルーム・セルジューク側の敗戦に終わり、クルチ・アルスラーンは敗走中に溺死する。

クルチ・アルスラーン1世の死後、彼の5人の子が王位を巡って争い、内訌に介入した東ローマとダニシュメンド朝によって領土の一部を奪われる。
クルチ・アルスラーン1世の子の一人マリク・シャーは東ローマを攻撃するが成果を挙げられず、1116年にダニシュメンド朝と同盟した弟のマスウード1世によって廃位された。
マスウード1世はダニシュメンド・ガーズィの没後混乱するダニシュメンド朝を攻撃し、アンカラ、チャンクルを占領した。
1147年に第2回十字軍がアナトリアに上陸した折、マスウード1世はルイ7世(フランス王)、コンラート3世(神聖ローマ皇帝)を破り、西欧諸国の計画を破綻させた。
1153年に小アルメニア王国のトロス2世、1154年にマヌエル1世コムネノス(神聖ローマ皇帝)とルーム・セルジュークの間に盟約が結ばれ、それから間も無くマスウードは没した。

マスウードの跡を子のクルチ・アルスラーン2世が継いで以降、西アジア史におけるルーム・セルジューク朝の重要性が増していく。

ミュリオケファロンの戦い、国内の分裂

即位後のクルチ・アルスラーン2世はダニシュメンド朝、東ローマ帝国以外に弟のシャーヒンシャーと敵対していた。
クルチ・アルスラーンは東ローマ帝国との関係を修復し、1161年から1162年にかけて自らコンスタンティノープルを訪問して協約を締結する。
クルチ・アルスラーンはダニシュメンド朝と交戦した際、ダニシュメンド朝を支援するシリアのザンギー朝との関係を悪化させ、1172年(または1173年)にザンギー朝のヌールッディーンによって一時期スィヴァスを占領される。
ザンギー朝との和議が成立してザンギー軍が撤退するとクルチ・アルスラーンはダニシュメンド朝支配下の都市を再び攻撃し、同時にザンギー朝との衝突を極力避ける方針を採った。
1176年に東方の失地回復を図るマヌエル1世コムネノスが親征を行うと、クルチ・アルスラーンもトゥルクマーンからなる軍隊を率いて迎撃に向かい、9月17日にミュリオケファロンで東ローマ軍に勝利した(ミュリオケファロンの戦い)。
ミュリオケファロンの勝利の後に両国の間に和平が結ばれ、東ローマがルーム・セルジュークに対して大規模な軍事行動を行うことは無くなった。
1178年にルーム・セルジュークはダニシュメンド朝を滅ぼし、アナトリアに確固たる支配権を築いた。
1179年から1181年にかけて、シリア北部の都市の帰属を巡ってアイユーブ朝との関係が悪化するが、大規模な軍事衝突には発展しなかった。

12世紀末のイスラーム世界地図
12世紀末のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ

クルチ・アルスラーンは晩年に11人の王子と1人の王女に領土を分割して与えるが、首都のコンヤを末子のカイホスロー(後のカイホスロー1世)に与えたために他の息子は不満を抱き、王子たちの間で争いが起きる。王子たちの内訌に加えて、西欧では1189年に第3回十字軍が開始され、アナトリアはフリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)の攻撃を受ける。
1190年5月にフリードリヒ1世はコンヤに到達、一時十字軍にコンヤを占領される。
1192年9月にクルチ・アルスラーンが没すると、王族間の争いはより激化する。
一旦はカイホスロー1世が王位を継ぐが、最終的にトカトの統治者であるスライマーン2世が王位に就き、カイホスローはアナトリアを脱して東ローマ帝国に亡命した。
スライマーンは1204年にエルズルムを支配するアタベク政権のサルトゥク朝を滅ぼし、続いてグルジア王国への遠征を行うが敗戦に終わり、グルジア遠征の帰路でスライマーンは没した。
スライマーン没後、彼の子のクルチ・アルスラーン3世が王位に就く。クルチ・アルスラーン3世が短い在位期間を経て廃された後、コンスタンティノープルから帰国したカイホスローが即位する。
カイホスロー1世の復位からカイクバード1世の治世にかけて、ルーム・セルジューク朝は最盛期を迎える。

最盛期

クルチ・アルスラーン2世時代以前のルーム・セルジューク朝は大セルジューク朝と同じ内陸国家であり、海洋への進出は計画されなかったが、13世紀に入って内陸国家であるルーム・セルジューク朝に変化が起きる。
1207年に地中海に面する港湾都市アンタルヤがルーム・セルジュークの支配下に入り、ルーム・セルジュークは初めて海洋に進出する拠点を得、ヴェネツィア共和国と通商関係を構築した。
1211年にカイホスロー1世はアラシェヒルの戦いでニカイア帝国に勝利するが、戦闘の前後に陣没した。

カイホスロー1世の死後、2人の王子が後継者の地位を巡って争う。勝利したのは長子のカイカーウス1世であり、敗れた弟のカイクバード(後のカイクバード1世)はマラティヤ近郊の城砦に幽閉された。1214年にカイカーウスはアナトリア東北部を支配するトレビゾンド帝国を攻撃してアレクシオス1世(トレビゾンド皇帝)を捕らえ、釈放の条件としてトレビゾンド帝国に毎年の貢納を科すとともに、黒海沿岸の港湾都市スィノプをトレビゾンドから獲得した。
スィノプの獲得によってルーム・セルジュークはアナトリア半島南北に海洋に面する都市を得、カイカーウスはコンヤに建立したモスクの碑文に自らを「二つの海のスルターン」と刻ませた。
1216年にカイカーウスはアンタルヤを占領した十字軍と小アルメニア王国を破って軍を進め、一時的にシリア北部のアレッポを占領する。アレッポの永続的な占領には失敗し、カイカーウスはシリア遠征後に病死する。 カイカーウスの没後、解放された弟のカイクバードが即位する。

即位後、カイクバードは宮廷内で強い発言力を持つ有力者に代えて、グラーム(宮廷奴隷)出身の軍人や仕官歴の短い書記を抜擢する人事を行った。
1223年にアンタルヤ東方の港町カロノロスがルーム・セルジュークの支配下に入る。
征服後カロノロスはカイクバードのラカブ(尊称)である「アラー・アッディーン」にちなんでアラーイーヤと呼ばれるようになった。アラーイーヤにはクズル・クレ(「赤い塔」という意味。見張り用の櫓)と造船所、宮殿が建設され、ルーム・セルジューク朝のスルターンの冬季の滞在地とされた。
1227年にはスィノプを発ったルーム・セルジュークの遠征軍がクリミア半島に上陸し、近隣のキプチャク族を従属させる。1227年のクリミア遠征は、大セルジューク朝時代も含めて、セルジューク朝の軍隊が海を越えて軍事活動を行った最初の例である。

1228年にアナトリア東部のエルズィンジャンを支配するメンギュジク朝を従属させ、東方に影響力を拡大した。
1229年5月にアゼルバイジャンを拠点に再興したホラズム・シャー朝から同盟を求める使節が到着する。同盟の締結にあたってルーム・セルジューク側からカイクバードの王子カイホスロー(後のカイホスロー2世)とホラズム・シャー朝のスルターン・ジャラールッディーンの娘との婚姻が提案されたが、ホラズム側は提案を拒絶し、またアナトリア東部の都市エルゼルムの帰属を巡っても両国の間で対立が起きた。
カイクバードはジャラールッディーンと敵対していたダマスカスアイユーブ朝の王族と同盟を結び、1230年8月にエルズィンジャン西部のヤッス・チメンの戦いでホラズム・シャー朝に勝利する。
1235年までにキャフタ、エデッサ、エルゼルムなどのアナトリア半島の都市がルーム・セルジュークの支配下に入り、カイクバードの時代に現在のトルコ共和国のおおよその国境が成立した。

1237年5月にカイクバードは遠征の企画中にカイセリで病死、跡をカイホスローが継いだ。このカイクバードの死について、カイホスローによる毒殺を推測する研究者も多い。

キョセ・ダグの戦い

カイホスロー2世は即位後、宮廷内のホラズム人の有力者カユル・ハーンを殺害したため、ホラズム地方出身の廷臣は臣従を拒んで反乱を起こした。

1240年から1241年にかけて、ユーフラテス川流域でバーバー・イスハークというダルヴィーシュ(スーフィーの修道僧)がトゥルクマーンを指揮して宗教反乱を起こした。反乱は宗教面以外に反貴族政治的な性質も持ち、ルーム・セルジューク軍は反乱軍に何度も敗れ、一時はカイホスローが首都コンヤから脱出する危機に陥った。反乱はフランク人傭兵によって鎮圧され、指導者のバーバー・イスハークは絞首刑に処せられたが、この事件はルーム・セルジューク朝の軍事力の低下を明らかに示していた。

1241年にカイホスローはアルトゥク朝が有するアーミド(現ディヤルバクル)を占領し、東方に影響力を拡大する。しかし、アーミドの占領直後にルーム・セルジューク朝は東方で勃興したモンゴル帝国からの攻撃に晒される。
1232年頃からモンゴル軍はアナトリアで偵察を行っており、その時には大規模な戦闘は発生しなかったが、1240年代より本格的な攻撃が始まり、1242年の秋にエルゼルムがモンゴルによって陥落させられる。
カイホスローはエルズィンジャンに侵入したモンゴル軍を迎撃するために親征を行うが、1243年6月26日にルーム・セルジューク軍はキョセ・ダグでバイジュ(モンゴル部)率いるモンゴル軍に大敗した(キョセ・ダグの戦い)。
敗戦後、抵抗することなくモンゴルに降伏したスィヴァスは殺戮を免れたものの城壁と兵器を破壊され、トカト、カイセリは略奪を受けた。
モンゴル軍によるアナトリア遠征は(おそらくは略奪を目的として)バイジュ(モンゴル部)の独断で行われたものであり、戦後すぐにモンゴル軍がアナトリアに駐屯することは無かったが、モンゴルに臣従を誓ったルーム・セルジュークには毎年のモンゴルへの貢納が課せられた。
臣従から間もなくアナトリアは飢饉に襲われ、危険を避けて黒海沿岸部や地中海沿岸部に逃れる者が多く現れる。
1245年にカイホスローはモンゴル軍に協力した小アルメニア王国に懲罰の親征を行う途上で没し、跡をカイホスローの長子のカイカーウス2世が継いだ。このカイホスローの死についても、毒殺を疑う研究者がいる。

モンゴルへの服属

カイカーウスの擁立には、イラン系の官僚シャムス・アッディーン・ムハンマド・イスファハーニーが大きな役割を果たした。
1244年にイスファハーニーは南ロシアに駐屯していたモンゴル帝国の重鎮バトゥの元を訪れた時、アナトリアにおけるバトゥの代官の地位を与えられており、この立場を元に国政の実権を掌握した。
カイカーウスの即位後、彼の弟のクルチ・アルスラーン(後のクルチ・アルスラーン4世)とカイクバード(対立王カイクバード2世、在位1249年~1257年)がカイカーウスの共同統治者となり、貨幣とフトバにはカイカーウスら三兄弟の名前が刻まれた。
領主の中にはクルチ・アルスラーンを単独の王に就けようと企む者もおり、イスファハーニーはクルチ・アルスラーンを支持する一派を粛清するとともにクルチ・アルスラーンの生母を妻とした。
イスファハーニーはクルチ・アルスラーンを国元から遠ざけるため、1246年のモンゴル帝国の大ハーンを選出するクリルタイに彼を出席させた。
クリルタイでモンゴル帝国第2代皇帝オゴタイ=ハンの皇子グユクが第3代大ハーンに選出された後、彼の従者からイスファハーニーの行為を告発されたグユクはクルチ・アルスラーンをルーム・セルジュークの正式な支配者として承認する。
1249年に帰国したクルチ・アルスラーンの党派はイスファハーニーを処刑し、クルチ・アルスラーンの単独統治を要求した。
1249年から1256年までの間、カイカーウスとクルチ・アルスラーンは王位を巡って争い、互いにモンゴルの宮廷に働きかけを行うが、実質的にはカイカーウスが単独で王位に就いている状態にあった。モンゴル帝国第4代皇帝モンケはカイカーウスとクルチ・アルスラーンの内争を調停するため、クズルウルマク川を境として、ルーム・セルジュークを東西に分けて分割統治するように命令した。

モンケの裁定の後に、クルチ・アルスラーンの党派がカイカーウスに戦いを挑むが敗れ、敗れたクルチ・アルスラーンは投獄された。
1256年、後にイルハン朝の創始者となるフレグがイランに移動すると(フレグの西征)、アゼルバイジャンに駐屯していたバイジュがアナトリアへの移動を命じられ、王位を巡る状況に変化が起こる。
1256年10月にアナトリアに移動したバイジュはカイカーウスの軍を破り、敗れたカイカーウスは一時ニカイアに亡命した。
カイカーウスの帰国後、フレグはルーム・セルジュークの分割統治の継続を承認し、首都コンヤをはじめとする西半分の地域をカイカーウスが、トカトを中心とする東半分の地域をクルチ・アルスラーンが支配した。
カイカーウスとクルチ・アルスラーンはシャムス・ウッディーン・マフムードという共通のパルヴァーナ(宰相)を介して共同統治を行っていたが、マフムードが没すると両者は別々にパルヴァーナを任命した。クルチ・アルスラーンのパルヴァーナであるムイン・アッディーン・スライマーンは自分の君主を単独のスルターンにするため、アナトリアに駐屯するモンゴルの将軍アリンジャクを通して、フレグにカイカーウスがエジプトのマムルーク朝と結託して反乱を企てているという讒言を行った。
事実カイカーウスはマムルーク朝と連絡を取り合っており、1261年8月にフレグの命令を受けたクルチ・アルスラーンとモンゴル軍によってカイカーウスはコンヤを追放され、コンスタンティノープルに亡命した。カイカーウスの追放後、クルチ・アルスラーンが単独のスルターンとして即位するが、彼の登位はモンゴル帝国の意向によるものであり、ルーム・セルジュークから独立した主権は既に失われていた。

国家の形骸化、滅亡

クルチ・アルスラーンの政権では、イルハン朝の初代君主であるフレグと第2代君主アバカの親子から信任を受けていたムイン・アッディーン・スライマーンが実権を有していた。
1266年にスライマーンはイルハン朝の許可を得てクルチ・アルスラーンを殺害し、代わりに幼年のカイホスロー3世を即位させた。
ルーム・セルジュークはイルハン朝に対して完全に臣従した状態にあり、イルハン朝からの過重な貢納の要求に対して国内では怨嗟の声が上がった。
1276年にスライマーンら有力者がイルハン朝の宮廷に伺候して国内を留守にすると、マムルーク朝と結託した廷臣たちによるクーデターが発生する。

マムルーク朝のスルターン・バイバルスはアナトリア半島に遠征し、1277年4月15日にエルビスタンでモンゴル軍に勝利する(エルビスタンの戦い)。4月23日にカイセリに入城したバイバルスは歓迎を受けるが、ルーム・セルジュークの領主たちがモンゴルの報復を恐れて決起しない様子を見て、エジプトに帰国した。

また、バイバルスのアナトリア遠征に呼応して、カラマン家(後のカラマン侯国の原型)のシャムス・ウッディーン・ムハンマド・ベグが、カイカーウス2世の王子と称するスィヤーヴシュを擁して反乱を起こした。
1277年5月15日に反乱軍はコンヤを占領し、スィヤーヴシュを君主、ムハンマド・ベグを宰相とした政権が成立するが、アバカがアナトリアに進軍した報告を聞くとムハンマド・ベグはコンヤを放棄し、スィヤーヴシュとムハンマド・ベグの政権は37日間という短期に終わる。
翌1278年にルーム・セルジューク、モンゴル軍双方の攻撃を受けてスィヤーヴシュとムハンマド・ベグの両名は戦死した。

エルビスタンの戦いで2人の将校を失ったアバカの怒りは大きく、自ら軍を率いてのアナトリアへの懲罰を企てた。
カイセリ、エルゼルム周辺の住民はモンゴル軍に殺害され、バイバルスに敗れて敗走するモンゴル兵を匿ったキリスト教徒であってもモンゴル軍の被害を受けた。在地のシャイフ(長老)の説得を受けてアバカは破壊と略奪を止めるよう軍隊に命じ、イスラム教徒の捕虜を釈放し、宮殿に帰還した後スライマーンを処刑した。

13世紀末のイスラーム世界地図
13世紀末のイスラーム世界地図 ©世界の歴史まっぷ

バイバルスの遠征はルーム・セルジュークを窮地から救うだけの成果は無く、イルハン朝の圧力がより増す結果に終わる。イルハン朝から宰相シャムスッディーン・ジュヴァイニーが派遣され、ルーム・セルジュークへの経済的な圧力がより強化された。
1282年にカイホスロー3世はイルハン朝のハーン・アフマドに廃されてエルズィンジャンに送られ、アフマドを討ってハーンの地位に就いたアルグンからイルハン朝の王族コンクルタイ暗殺に関与した容疑をかけられて殺害された。
カイカーウス2世の子マスウード2世とマスウード2世の兄(もしくは従兄弟)のカイクバード3世が領地を二分するが、2人のスルターンは権力を有していない状態にあった。

13世紀末になるとアナトリア半島の秩序は乱れ、領主は暴政を布き、官職の売買も行われるようになった。中央の支配力が衰えると、ウジと呼ばれる辺境地帯では居住するトゥルクマーンの反乱がしばしば発生する。
1288年に末期のルーム・セルジューク朝を支えた高官ファフル・アッディーン・アリーが没すると、官僚機構は機能を停止する。
1307年までマスウード2世とカイクバード3世が短い間隔を置いて交互にスルターンの地位に就く状態が続き、1295年にマスウード2世は反乱への加担を疑われてガザン・ハンによって廃された時に、4人のルーム・セルジュークの高官が領内を分割して統治する状態になる。

14世紀に入ると、史料に書かれるルーム・セルジューク朝の内情は不明瞭になる。

モンゴル帝国の最大領域地図
モンゴル帝国の最大領域地図 ©世界の歴史まっぷ

1308年にルーム・セルジュークのマスウード3世がカイセリで急死すると、男子の後継者が断絶する。
1308年より後、アナトリアでセルジューク家の人間がスルターンに即位することは無く、ルーム・セルジューク朝は滅亡した。

宗教

ルーム・セルジューク朝ではスンナ派のイスラームが公式の宗教とされ、都市部の住民や農民たちもスンナ派を信仰していた。スルターンはアッバース朝のカリフと友好関係を保ち、王朝では宗教的平等が保障されていた。ルーム・セルジュークの領土に移住したトゥルクマーンの遊牧民もスンナ派を信仰するイスラム教徒だった。
しかし、実際のところ彼らが信仰するイスラームはシャーマニズムに近いものであり、ダルヴィーシュ(修行僧)のバーバー(長老)たちの影響下に置かれていた。
アナトリア半島の先住民であるキリスト教徒の中には利益、あるいは安全の確保を求めてイスラームに改宗する者もいたが、他方で神秘主義(スーフィズム)と民衆的なイスラームの教えに感化されて改宗した者もいた。13世紀末には、アナトリア半島の人口のおよそ80パーセントをイスラム教徒が占めると推定する声もある。

ルーム・セルジュークの下では多数の宗教団体が成立し、軍人と民衆の両方に影響を与えた。ルーム・セルジューク期の著名な宗教家としては、アンダルシア地方の神秘主義者(スーフィー)思想家イブン・アル=アラビー、メヴレヴィー教団の祖であるジャラール・ウッディーン・ルーミーらが挙げられる。

歴代君主

  1. スライマーン・イブン=クタルミシュ(在位:1077年 – 1086年)
  2. クルチ・アルスラーン1世(在位:1092年 – 1107年)
  3. マリク・シャー・イブン=クルチ・アルスラーン(在位:1110年 – 1116年)
  4. マスウード1世(ルーム・セルジューク朝)(在位:1116年 – 1155年)
  5. クルチ・アルスラーン2世(在位:1155年 – 1192年)
  6. カイホスロー1世(在位:1192年 – 1196年)
  7. スライマーン2世(在位:1196年 – 1204年)
  8. クルチ・アルスラーン3世(在位:1204年 – 1205年)
  9. カイホスロー1世(2回目、在位:1205年 – 1211年)
  10. カイカーウス1世(在位:1211年 – 1220年)
  11. カイクバード1世(在位:1220年 – 1237年)
  12. カイホスロー2世(在位:1237年 – 1245年)
  13. カイカーウス2世(在位:1245年 – 1261年)
  14. クルチ・アルスラーン4世(在位:1261年 – 1266年)
  15. カイホスロー3世(在位:1266年 – 1284年)
  16. マスウード2世(在位:1284年 – 1285年、1285年 – 1292年、1293年 – 1300年、1302年 – 1304年)
  17. カイクバード3世(在位:1285年、1292年 – 1293年、1300年 – 1302年、1304年 – 1308年)
  18. マスウード3世(在位:1308年)

参考:Wikipedia

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