ローマ帝国 (紀元前B.C.27〜A.D.1453) 紀元前27年オクタウィアヌスが元老院から「アウグストゥス(尊厳者)」という称号を与えられ、軍事・行政・司法の全分野において国政をひきうけ、属州からの税収を自らのものとし、共和政が終わり帝政がはじまった。五賢帝の時代末期にいたるまで帝国は平和を享受し(ローマの平和(パクス・ローマ))、その繁栄は絶頂に達した。476年、東西に分裂し、480年、オドアケルにより西ローマ帝国は滅亡し、1453年オスマン帝国により東ローマ帝国が滅亡した。
目次
ローマ帝国
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オクタウィアヌスは内乱の一世紀の戦争後の処理がすむと、非常時のためゆだねられていた大権を国家に返還する姿勢を示したが、元老院は彼に最高軍司令官の称号を与え、半分の属州の総督命令権をも与えた。そして紀元前27年、彼に「アウグストゥス(尊厳者)」という神聖な意味をもつ称号をも付与した。彼は以来「インペラートル・カエサル・ディーウィー・フィーリウス・アウグストゥス(神(カエサル)の子)」と名乗り、共和政期の最高の政務官職のほとんどを、一部はその職権のかたちで一手におさめ、軍事・行政・司法の全分野において国政をひきうけ、属州からの税収を自らのものとした。 ここに共和政は完全に終わり、帝政が始まるが、彼は外面的には共和政を尊重し、独裁官とはならず、君主や王の称号も求めなかった。また彼は護民官の職権を重要視したが、それは平民の権利を守る伝統をもつこの職のイメージを利用したからだと思われる。 彼自身「余は権威において万人に勝ったが、職権においては同僚官のだれもしのぎはしなかった」と語っていのである。アウグストゥスが死に際に際して各地に掲示させた彼の『業績録』の言葉。
民会にも選挙や立法をおこなわせ、元老院にも出席して意見を聞いた。彼は以前から有力議員が用いていた「第一人者(プリンケプス)」という言葉を自分の地位をさして使うことを好んだので、彼の支配体制を「元首政(プリンキパトゥス)」と呼ぶ。彼はローマ市の美化に努め、市民に金品や穀物を与え、豪華な娯楽も催して市民の人気をえることを怠らなかった。アウグストゥスが40年以上の統治期間に恵まれたことも、その間に元首制を完全に確立させるに十分な条件となった。
アウグストゥスの元首の地位は養子のティベリウスに受け継がれ、共和政は2度と復活しなかった。ネロ帝のような暴君も現れたが、五賢帝の時代末期にいたるまで帝国は平和を享受し(ローマの平和(パクス・ローマ))、その繁栄は絶頂に達した。
五賢帝:ネルウァ帝、トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝、アントニヌス・ピウス帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝。
ネルウァ=アントニヌス朝トラヤヌス(ローマ皇帝)のときにドナウ川の向こう岸のダキアを属州として、帝国の領土は最大となった。
そのうちローマ市民は1世紀にはまだ1〜2割だった。首都ローマはとびぬけて人口が多く、100万〜120万に達していたといわれる。
陸海の交通の安全が確保され、ローマ道は帝国中に張り巡らされ、属州には無数の都市が繁栄し、また新たに建設された。それらはローマ風の都市になっていき、ギリシア、ローマの融合した都市的文化がゆきわたった。
東方ではギリシア語が広く使われていたが、帝国政府はラテン語の普及に努めた。当時、帝国の東のはしから西のはしへ行く旅人はこの2つの言語を使えれば不自由せずに、またいたるところで同じような都市の生活を味わいながら旅行できただろうといわれている。帝国全体に経済活動がさかんになり、ことに属州の農業生産や手工業が活発になり、イタリアへ輸出するようになった。
スペインのオリーヴ油・鉱産物・シリアのガラス製品、ガリアの陶器など。
166年ころ、中国の後漢に大秦王安敦の使者が訪れたという中国の記録があり、それはマルクス・アウレリウス・アントニヌスをさすと思われるが、皇帝が直接遣わした使者であったかどうかは疑問とされる。
豊かになった市民は私財を投じて自分たちの都市を美化することに努めた。リヨン、トリアー、ウィーン、パリ、ロンドンなどは、この時代に軍団駐屯地などからローマ風の都市に成長していったのである。
帝政期の社会を見てみると帝国住民はローマ市民権者と属州民と奴隷に分かれ、市民権は広く属州民や解放奴隷に与えられていき、212年のセウェルス朝カラカラ(ローマ皇帝)の勅令により、帝国全土の自由民に与えられた。すでに1世紀後半から民会は機能しなくなり、執政官は皇帝の指名するところとなって、ローマの都市国家的性格は完全に失われた。市民の間にも、それにともなって財産額を基準とする明瞭な身分の差ができあがっていった。
元老院議員は世襲となり、属州総督や将軍、名誉的な高級官職を担った。ガリア、ギリシア、アフリカなどで属州出身の議員がしだいに増加した。
騎士階級は商人として、そして帝政期にめだってきた皇帝に直接仕える官僚として上級身分を構成した。
各都市の富裕な人々も、都市の評議会員として特権身分とされた。その他の市民は平民と呼ばれる被支配民に等しかった。このような階層的な社会の頂点に皇帝がおり、側近の元老院議員や騎士、解放奴隷を用いて帝国のすべての権力を握っていた。
アウグストゥス以後の皇帝も多くは死後神格化され、生きている皇帝の礼拝も推進されて、皇帝の権威と権力はたゆみなく強化されていった。
ネルウァ=アントニヌス朝のハドリアヌス(ローマ皇帝)のときから帝国は守勢に転じ、マルクス・アウレリウス・アントニヌス(ローマ皇帝)の治世の末にはゲルマン人の侵入、パルティアとの戦いと東方からの疫病、帝国財政の窮乏化などの不穏な状況が現れ、彼の死後には政治は乱れ、皇帝位をめぐる争いが激化した。
アフリカ出身の軍人セプティミウス・セウェルス(ローマ皇帝)は経済統制をおこない、軍事力を強めて帝国をたてなおしたが、皇帝は次第にローマやイタリアとはことなる慣習や宗教に傾くようになった。
セウェルス家のヘリオガバルス(ローマ皇帝)は自身シリアの太陽神の神官で、自分の神をローマに持ち込もうとした。
3世紀半ばからは各地の軍団がそれぞれ皇帝をたてて抗争する事態となった(軍人皇帝時代 235〜284)軍事力偏重によって都市が圧迫を受け、ことに西方ではゲルマン人のたびかさなる侵入で荒廃が進んだ。東方でも226年に建国したササン朝ペルシアが国境を脅かし、ウァレリアヌス(ローマ皇帝)はそのために捕虜とされるありさまだった。まさに帝国は「3世紀の危機」を体験していたのである。
専制ローマ帝国
ディオクレティアヌス
3世紀の皇帝たちは軍制改革や宗教統一策をとって危機の克服を試みたが、最終的に帝国に安定をもたらしたのはディオクレティアヌス(ローマ皇帝)であった。ガッリエヌス(ローマ皇帝)は機動的な皇帝直属騎兵隊を作った。またデキウス(ローマ皇帝)は全帝国にローマの神々への祭儀を命じ、そのためにこれを拒否したキリスト教徒の迫害が生じた(250)。
彼はユピテル神の体現者として統治し、皇帝の神的権威を強めた。市民は今や皇帝の臣民であり、皇帝の前に出るときは跪拝礼を求められ、元老院の諮問会議も皇帝のまえで起立したままおこなわれた。ディオクレティアヌス帝はこのようにオリエント的専制支配に傾いていき、彼の時代以後は専制君主制(ドミナートゥス)と呼ばれる。彼は広大な帝国を効率よく統治するために2人の正帝・2人の副帝をおく四分統治世(テトラルキア)を採用し、帝国の行政区分をも再編成した。
全帝国を4つの道・12の管区・100余の属州に分け、それぞれ役人を送って統治させた。なお、ローマはもはや皇帝の住まう首都ではなくなっていた。
軍隊を増強し、帝国全土に均一な税制を定め、最高価格令を発して物価騰貴を抑えようとした。また官僚を増やして都市の自治への介入を強めた。ローマ伝統の宗教を統治の主柱としてキリスト教徒に対しては、「大迫害」を命じた。
コンスタンティヌス1世
彼の次のコンスタンティヌス1世のときに分治体制はくずれて独裁となったが、ディオクレティアヌスの政策はそのまま受け継がれた。ただコンスタンティヌスは統治の宗教的基盤にはキリスト教を選び、教会を援助した。コンスタンティヌス自身は死の直前まで洗礼は受けず、しかものちに異端とされたアリウス派の洗礼を受けて没した。
330年に彼は黒海とエーゲ海を結ぶ海峡にあるビザンティオンを新しい首都と定め、これに自分の名を与えてコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル・現イスタンブール)と呼んだ。これは、今では名目上の首都でしかなく、かつ伝統宗教の残るローマを去って、キリスト教的な首都を建設しようとする意図の現れと考えられる。彼のもとでも皇帝の専制化は進み、官僚制が発達し、国民の職業は固定化される傾向におかれた。農業小作人(コロヌス)もこの時代に法律で土地に緊縛された。ローマ帝国は完全な階層的社会となって、かつての市民の自由は失われた。
ユリアヌス、ウァレンス
4世紀後半、帝国はササン朝の侵入をうけ、フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス帝は東方遠征中に戦死し、また北方と西方には民族大移動(ゲルマン人の大移動)が生じ、ゴート族などの新興ゲルマン人の侵入がさかんで、378年のハドリアノポリスの戦いではウァレンス帝が戦死した。ガリア・スペインにはバガウダエと呼ぶ貧農の反乱が、北アフリカにはキリスト教の異端キルクムケリオーネスの騒乱がおこるなど、帝国の内憂外患は深刻化していった。 コンスタンティノポリスへの遷都は、帝国の中心が東方ギリシア世界に移ったことを意味しており、帝国の東西への分離傾向は強まって行ったが、テオドシウス帝がその死に対してアルカディウスとホノリウスの2子に分割して与えて以後、東西の帝国は2度と統一されなかった。西ローマでは皇帝権が弱体化していき、ゲルマン人傭兵出身の将軍が実権を握ってゲルマン人との侵入と戦うという事態となり、大土地所有者は帝国の支配権を脱して田園で独立していく傾向を強め、都市の衰亡もはなはだしかった。そして476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって皇帝が廃位されて、西ローマは滅亡した。 一方、東ローマ帝国はゲルマン人の侵入を受けることが比較的少なく、アンティオキア、アレクサンドリアなどのギリシア都市がコンスタンティノポリスとともに繁栄を続け、自由農民も存続して専制国家体制がなお1000年余り続いた。コンスタンティノポリスの旧名「ビザンティオン」からとられた近代の呼び方。東ローマの人々は自分たちをあくまでローマ帝国・ローマ人と称していた。
古代の終末
奴隷がどんどん解放されたが、自由人労働者の監督を奴隷が務めたり、奴隷が豊かになって自分の奴隷を所有する例も知られている。
すでに共和政期からコロヌスと呼ばれる小作人が大土地所有者と契約して働いていたが、帝政が進むにつれて農業におけるコロヌスの要素が大きくなり、没落した農民や奴隷から上昇してきた人々がコロヌスとなっていった。彼らは土地とともに売買されたり相続されたりするようになり、土地に縛りつけられた隷属的農民の性格を強めていった。このコロヌス制(コロナートゥス)は中世の農奴制の先駆であり、先に述べた都市の衰退、田園大所領の独立と合わせて、古代末期社会には封建社会の要素が見出されるようになってくるのである。
古代の終末という問題はローマ帝国の衰亡と結び付けられて長く人々の興味をそそり、その衰亡の原因についてさまざまに論じられてきた。18世紀のエドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』がその代表的作品で、そこではゲルマン人の侵入と、平和主義的なキリスト教の拡大が没落の原因だと主張された。このほかにもゲルマン人がローマ帝国=古典文化を暗殺したという説は根強く、またローマ帝国の拡大が軍事負担、都市の衰え、奴隷制の衰退を招き、古代は内部の矛盾から崩壊していったとする考え方もある。
ローマ文化
ローマ人は先進のエトルリア人・ギリシア人の文化の影響を強くうけた。ことにギリシア人の哲学・美術など精神性の高い文化に対しては、これを模倣するのみで独創的文化をつくりだすにいたらなかった。 しかし広大なローマ帝国の辺境にまで文化をゆきわたらせたことは彼らの功績であり、法や建築などの実際的な分野においてローマ人が残した文化遺産は貴重なものであり、後世に与えた影響も少なくない。文字
ローマ人はギリシア文字からローマ字を作り、その言語であるラテン語も帝国中に普及したが、文学の発達は遅れた。ローマ字は現代欧米各国のアルファベットの起源となり、ラテン語はイタリア・スペイン・ポルトガル・フランスなどラテン系言語のもととなった。
文学
共和政期の文学作品は、大カトの『農業論』やルクレティウスの教訓詩などに限られ、他はギリシア文字の翻訳が主であった。 共和政末期にマルクス・トゥッリウス・キケロが現れて、散文の古典を多数残した。彼は修辞家で政治家でもあったから、法廷弁論や政治家への書簡などは生彩あるローマ史の資料である。 アウグストゥスの時代にラテン文字は黄金時代を迎え、彼の部下ガイウス・マエケナスに保護された詩人たちがローマの偉大さと達成された平和を謳歌する作品を著した。 ウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』はラテン文学の最高峰をなし、ローマ建国伝説をうたってアウグストゥスをも賛美している。 ホラティウスも平和の到来を優美な抒情詩でたたえ、オウィディウスは神話や人間の性を描いて、ついには追放された。 しかしこれらの詩人たちにもギリシア文学の模倣の要素が大きかった。帝政期には都市生活の卑近なテーマを風刺的にうたったユウェナリス・マルティアリスが活躍した。
『怒りについて』『寛容について』などの著作を残した。キケロもセネカも権力者によって死を命じられている。
また2世紀では奴隷出身の哲学者エピクテトスと、哲人皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスがストア哲学の最後に位置している。
その著『自称録』はゲルマン人との戦争のさなか、静かな思索とこの世への深いあきらめの念をもって書かれている。
帝政期にはエピクロス派やキニーク派などの極端な主張の哲学者も活動し、これらは体制を批判してしばしば皇帝から追放された。
紀元前4世紀のギリシアのディオゲネスに始まるが、ローマ時代のキニーク派は自然に生きる、どいうこの派の主張を極端にし、汚い風体であらゆるものを批判した。
2世紀以降は新プラトン主義が広まり、神秘的な絶対神を想定する思想を展開し、キリスト教徒の接近を示した。代表的な学者はプロティノスである。しかし新プラトン哲学者の多くはかえってキリスト教への攻撃をおこなった。
宗教
ローマ人の宗教はギリシアと同じく現世的であった。祭儀や礼拝によって神々が人間を幸福にすると信じられていた。かまどや四ツ辻などの神を信じ、ユピテル・マルス(軍神)・ウェヌス(ヴィーナス・美の女神)などの主神はギリシアのオリンポスの神々と融合していった。また、「ローマ」や勝利・平和などの観念も次々に神格化した。帝政期には死んだ皇帝の神格化と、皇帝礼拝が進められ、ことに属州では女神ローマと皇帝の礼拝が盛んに行われた。しかし、属州民一般の間には東方系の密儀をともなう神秘宗教が浸透した。エジプトのイシス教やミトラ教、そしてキリスト教もそのひとつであった。また帝政期には占星術や魔術も流行し、人々の心をとらえていた。このほか3世紀にはペルシアのマニによってマニ教が始められ、ローマ帝国東方でも流行した。これは世界を光と闇の二元論としてとらえ、禁欲によって救いがえられるとするもので帝国やキリスト教から弾圧されたが一部の地域で存続した。
ミトラ教
ミトラ教はイランに起源をもつといわれ、太陽神と同一視された。牛を屠る儀式を特徴とした。ミトラ教側の系統の太陽神とともに密儀宗教としては例外的にローマの皇帝、軍人に崇拝者をえ、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝やフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス帝が熱心にミトラのために牛を屠ったと伝えられている。ミトラ教は唯一神でありキリスト教と競合することが多かったと思われるが、キリスト教の勝利ののち弾圧された。コンスタンティヌス1世は別系統の太陽神を早くから信じ、彼はその太陽神とキリスト教の神を一致させていったのではないかと考えられる。歴史書
ローマの歴史記述は神官の記録した暦や出来事の記録から始まり、共和政中期に歴史書も著されたが、最初の本格的なローマ史はギリシア人でローマに人質となったポリュビオスの『歴史』によって書かれた。彼はその中でローマの政体について論じ、元老院・執政官・民会が、貴族政・君主政・民主政のそれぞれの特色を発揮する混合政体であるがゆえに優れているとした。 アウグストゥスの時代になって、ティトゥス・リウィウスが『ローマ建国史』を著してローマの偉大な歴史を示そうとした。 またユリウス・カエサルの『ガリア戦記』は、武人らしい雄渾で無駄のない文体で書かれたラテン散文の傑作である。 帝政期にはタキトゥスが『年代記』『ゲルマニア』を書き、ローマの政治社会の欠陥をも指摘している。このほかプルタルコスは『対比列伝(英雄伝)』でギリシア・ローマの多数の人物についての伝記を残している。 その他 自然学では大プリニウスの『博物誌』が自然と地理の広い対象を扱い、クラウディオス・プトレマイオスは天文学の書を著して天動説を唱え、その説は中世イスラームやヨーロッパに影響を与えた。このほかストラボンは『地理誌』を著し、ガレノスは優れた医学者であった。 これまで述べたうち、エピクテトス・プロティノス・プルタルコス・プトレマイオス・ストラボン・ガレノスはギリシア人であり、ローマ帝国の時代でもなおギリシア文化がローマ人を支配すらしていたことがうかがえる。法学
ローマ人の実際的な能力は法や政治の技術に現れ、中でもローマ法は長く後世の模範となり、近代法にまで影響を及ぼしている。紀元前5世紀に慣習法を成文化した十二表法が生まれたのを起点に、民会立法、政務官や元老院の告示が出され、帝政期には皇帝の勅令なども法源となった。 歴史上初めて法学が生み出され、学者たちによる法や判例の研究と法令の集成が進められた。元来ローマの法は市民のみが対象であったが、市民権が拡大し、ヘレニズムのコスモポリタン思想の影響も加わって、帝国内のあらゆる民族に適用されるべき万民法が意識されるようになった。 4世紀からはキリスト教保護の法が新たに出されるが、立法よりも法令の編纂と集大成が皇帝によって推進され、5世紀になって『テオドシウス法』が成立し、6世紀には東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝のユスティニアヌス1世がトリボニアヌスらの法学者に命じて大規模な『ローマ法大全』を編纂させた。土木建築
ローマ人は土木建築にも優れていた。ローマ道は堅固な石畳で多くの部分が直線の道で、もっぱら軍隊の移動や公共便のために用いられたが、ローマ文化を辺境に伝える役割をも果たし、今もローマ時代の舗装の残る道が地中海沿岸各地にある。代表的な道はローマと南イタリア・アドリア海岸の街を結ぶアッピア街道である。ローマの道はそれを建設した政務官の名をとって呼ばれ、この道は紀元前4世紀のあっピウス・クラウディウスによって建設された。

ローマ市に68km離れた水源から水を供給した水道。カリグラ帝が着手し、次のクラウディウス帝により52年に完成した。ローマ人の水道建設技術は素晴らしかったが、一部の水道管に鉛が使われたため公害も生じた。
シリアのジェラシュ、アフリカのレプティス・マグナ、ドイツのトリアーなどにローマ帝世紀の劇場、凱旋門などが残っている。
暦
このほか、ガイウス・ユリウス・カエサルはローマの大陰暦を改め、そのずれを矯正してエジプトの太陽暦を基本とするユリウス暦を制定した。この暦はその後も用いられ、少し修正を受けてグレゴリウス暦(16世紀末にグレゴリウス13世(ローマ教皇)が改良した。)として今日も使われている。カエサルは自分の名を7月につけた(July)。またのちにアウグストゥスは8月を自分の名とした(August)。
彫刻・モザイク画
またローマの彫刻はギリシアの模作を多く作ったが、その影響を受けながら「元老院議員像」「アウグストゥス像」などの傑作も生み出した。ポンペイやシチリア・アンティオキアの帝政期の貴族邸宅などに描かれた精密なモザイク画もローマ美術を代表するものである。タイムカプセル・ポンペイ
79年イタリアのヴェスヴィオ火山の噴火で山麓にいくつかの都市が火山灰と溶岩に埋もれて滅びた。そのひとつポンペイの遺跡は近代になって発掘され、帝政初期の繁栄の絶頂にあった都市のタイムカプセルとして貴重な知見をもたらしてくれる。歩道と車道に分かれ、横断歩石もある道路、闘技場、劇場などの公共施設が高度なローマ人の都市生活を実証している。貴族の邸宅は華麗なモザイクや壁画・彫刻で飾られていた。ポンペイの死者は約20000人で、自分の財産をかき集めて逃げ遅れた人の遺体や、鎖に繋がれたまま悶え死んだ犬なども見つかっている。
参考
詳説世界史研究 ポンペイ映画 あらすじと解説 – 世界の歴史まっぷ 世界遺産 フォロ・ロマーノ – 世界の歴史まっぷ古代ローマが登場する映画
古代ローマが登場する映画 – 世界の歴史まっぷ古代ローマが登場する海外ドラマ
古代ローマが登場する海外ドラマ – 世界の歴史まっぷローマ皇帝一覧
帝政ローマ前期
ユリウス・クラウディウス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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アウグストゥス | 紀元前63年9月23日ローマ(イタリア本土) | 紀元前27年1月16日 – 14年8月19日 | プレブス階級(オクタウィウス氏族)出身。ユリウス・カエサルの大甥(姉の孫)という縁で継承者の途絶えたユリウス氏族カエサル家を継ぐ。最初のローマ皇帝として、元首政を確立。 | 14年8月19日自然死 |
ティベリウス | 紀元前42年11月16日ローマ(イタリア本土) | 14年9月18日 – 37年3月16日 | クラウディウス氏族出身。アウグストゥスの後妻リウィアの連れ子で、継父の大甥ゲルマニクスの後見人として即位。 | 37年3月16日自然死(暗殺説あり) |
カリグラ | 12年8月31日 -アンティウム(イタリア本土) | 37年3月18日– 41年1月24日 | クラウディウス氏族出身。ゲルマニクスの息子。 | 41年1月24日近衛隊による暗殺 |
クラウディウス | 紀元前10年8月1日ルグドゥヌム(属州ガリア・ルグドゥネンシス) | 41年1月25日(26日説あり) – 54年10月13日 | クラウディウス氏族出身。ゲルマニクスの弟でカリグラの叔父。姪である小アグリッピナ(カリグラの妹)と再婚。 | 54年10月13日小アグリッピナによる暗殺 |
ネロ | 37年12月15日アンティウム(イタリア本土) | 54年10月13日 - 68年6月9日 | クラウディウス氏族出身、継父の養子となる前はドミティウス氏族に属した。カリグラの妹である小アグリッピナの子で、クラウディウスの養子。 | 68年6月11日自害 |
四皇帝の年
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
---|---|---|---|---|
ガルバ | 紀元前3年12月24日テッラチーナ(イタリア本土) | 68年6月8日 – 69年1月15日 | スルピキウス氏族出身。ヒスパニア各属州の軍団から支持を獲得、ネロを廃位した元老院から皇帝に推挙される。 | 69年1月15日オトと近衛隊による暗殺 |
オト | 32年4月25日エトルリア(イタリア本土) | 69年1月15日 – 69年4月15日 | サルウィウス氏族出身。ガルバの縁戚であったが、近衛隊と結んで謀殺した。 | 69年4月15日自害 |
ウィテッリウス | 15年9月7日ローマ(イタリア本土) | 69年4月17日 – 69年12月22日 | ウィテッリウス氏族出身。ゲルマニア各属州の軍団から支持を獲得、オト軍を破って帝位に就く。 | 69年12月22日ウェスパシアヌス軍との戦いで敗死 |
ウェスパシアヌス | 9年11月17日フラシリネ(イタリア本土) | 69年7月1日 – 79年6月23日 | フラウィウス氏族出身。ウィテッリウスを破り、政情を安定させて四皇帝の年を終結させる。 | 79年6月23日自然死 |
フラウィウス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
---|---|---|---|---|
ウェスパシアヌス | 9年11月17日フラシリネ(イタリア本土) | 69年7月1日 – 79年6月23日 | フラウィウス氏族出身。フラウィウス朝の初代皇帝。 | 79年6月23日自然死 |
ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス | 39年12月30日ローマ(イタリア本土) | 79年6月24日 – 81年9月13日 | フラウィウス氏族出身。ウェスパシアヌスの長男。フラウィウス朝の第2代皇帝。 | 81年9月13日病死 |
ドミティアヌス | 51年10月24日ローマ(イタリア本土) | 81年9月14日 – 96年9月18日 | フラウィウス氏族出身。ウェスパシアヌスの次男。兄ティトゥスが病に伏せると兄の生存中だったが帝位を掌握した。 | 96年9月18日召使による暗殺 |
ネルウァ=アントニヌス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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ネルウァ | 35年11月8日ナルニ(イタリア本土) | 96年9月18日 – 98年1月27日 | コッケイウス氏族出身。フラウィウス朝断絶後、元老院により推挙される。 | 98年1月27日自然死 |
トラヤヌス | 53年9月18日イタリカ(属州ヒスパニア・バエティカ) | 98年1月28日 - 117年8月9日 | ウルピウス氏族出身。老齢で嫡男のいないネルウァに養子として迎えられる。 | 117年8月9日自然死 |
ハドリアヌス | 76年1月24日イタリカ(属州ヒスパニア・バエティカ) | 117年8月11日 – 138年7月10日 | アエリウス氏族出身。トラヤヌスの従兄弟ハドリアヌス・アフェルの子。親族の男子として嫡男のいない従伯父トラヤヌスの養子となる。 | 138年7月10日自然死 |
アントニヌス・ピウス | 86年9月19日ラウィニウム(イタリア本土) | 138年7月10日 – 161年3月7日 | アウレリウス氏族出身。マルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスの後見人として即位。トラヤヌスの曾姪でマルクス・アウレリウスの叔母でもある大ファウスティナと結婚、小ファウスティナを儲ける。 | 161年3月7日自然死 |
マルクス・アウレリウス | 121年4月26日ローマ(イタリア本土) | 161年3月7日 – 180年3月17日 | アウレリウス氏族出身。アントニヌス・ピウスの甥。従姉妹である小ファウスティナと結婚、コンモドゥスとルキッラを儲ける。 | 180年3月17日自然死 |
ルキウス・ウェルス | 130年12月15日ローマ(イタリア本土) | 161年3月7日 – 169年3月頃 | アエリウス氏族出身。ハドリアヌスの側近ルキウス・アエリウスの嫡男。アウレリウスと共にアントニヌスの養子とされ、共同皇帝となる。アウレリウスと小ファウスティナの子ルキッラと結婚。 | 169年3月頃病死(暗殺説あり) |
コンモドゥス | 161年8月31日ラウィニウム(イタリア本土) | 180年3月18日 – 192年12月31日 | アウレリウス氏族出身。アントニヌス・ピウスの孫、マルクス・アウレリウスと小ファウスティナの子、ルキッラの弟。父アウレリウスの死後、帝位を継承する。 | 192年12月31日近衛隊による暗殺 |
五皇帝の年
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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ペルティナクス | 126年8月1日アルバ・ポンペイア(イタリア本土) | 193年1月1日 - 193年3月28日 | ヘルウィウス氏族出身。自身はローマ人だが、父の代まではリグリア人の属州民だった。近衛隊と結んでコンモドゥスを暗殺、帝位に就く。財政改革の失敗で元老院と近衛隊の支持を失う。 | 193年3月28日近衛隊による暗殺 |
ディディウス・ユリアヌス | 133年1月30日メディオラヌム(イタリア本土) | 193年3月28日 - 193年6月1日 | ディディウス氏族出身。ペルティナクス暗殺後の「帝位競売」に勝利して帝位に就くが、軍と民衆の支持を得られなかった。 | 193年6月1日近衛隊による暗殺 |
セプティミウス・セウェルス | 146年4月11日レプティス・マグナ(属州アフリカ) | 193年4月9日 - 211年2月4日 | セプティミウス氏族出身。パンノニア属州の軍から支持を得て蜂起、ユリアヌス暗殺後のローマへ入場。その後、同じく蜂起していたペスケンニウス・ニゲルとクロディウス・アルビヌスを破りセウェルス朝を創始。 | 211年2月4日自然死 |
セウェルス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
---|---|---|---|---|
セプティミウス・セウェルス | 146年4月11日レプティス・マグナ(属州アフリカ) | 193年4月9日 - 211年2月4日 | セプティミウス氏族出身。セウェルス朝を樹立して、軍人皇帝時代まで自身の王朝を維持した。 | 211年2月4日自然死 |
カラカラ | 186年4月4日ルグドゥヌム(属州ガリア・ルグドゥネンシス) | 198年頃 – 217年4月8日 | セプティミウス氏族出身。セウェルスの長男。父の即位と同時期に共同皇帝へ指名され、後に弟ゲタも共同皇帝となって三名で統治を行っていた。しかし父の死後にゲタを処刑して単独の皇帝となる。 | 217年4月8日マクリヌスによる暗殺。 |
ゲタ | 189年3月7日ローマ(イタリア本土) | 209年頃 – 211年12月26日 | セプティミウス氏族出身。セウェルスの次男。209年頃から父と兄の共同皇帝となる。 | 211年12月26日カラカラによる暗殺。 |
マクリヌスとディアドゥメニアヌス | 165年(マクリヌス・オペッリウス) 208年(マルクス・オペッリウス・ディアドゥメニアヌス) | 217年4月11日 - 218年6月8日 | オペッリウス氏族出身。セウェルス朝と血縁関係がない。カラカラ帝時代に近衛隊長を務めていたマクリヌスとその子ディアドゥメニアヌスはカラカラを謀殺してセウェルス朝を一旦断絶させた。しかしカラカラの落胤を自称する(実際には従姉の子(従甥)でカラカラの母方の伯母ユリア・マエサの孫)ヘリオガバルスの軍に敗れ、親子共に相次いで戦死した。 | 218年 ヘリオガバルス軍に敗死 |
ヘリオガバルス | 203年3月20日 エメサ (属州シリア) | 218年6月8日 – 222年3月11日 | 氏族不明。カラカラの従姉ユリア・ソエミアス・バッシアナによって、カラカラの落胤として掲げられた。性的倒錯の末、近衛隊に暗殺される。 | 222年3月11日 近衛隊による暗殺 |
アレクサンデル・セウェルス | 208年10月1日 アルカ・カエサリア (属州ユダヤ) | 222年3月13日 - 235年3月18日 | 氏族不明。ヘリオガバルスの従弟で、ヘリオガバルスを見限った祖母ユリア・マエサによって擁立された。 | 235年3月18日 軍による暗殺 |
軍人皇帝時代
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
---|---|---|---|---|
マクシミヌス・トラクス | 173年(属州トラキア、若しくはモエシア) | 235年3月20日 – 238年4月頃 | 蛮族出身の軍人。アレクサンデル暗殺後、特異な出自でかつ民衆や元老院の支持もなかったにも関わらず軍事力で帝位を強奪した。これ以降、皇帝の元老院と民衆の軽視が強まり、軍事力による帝位継承が慣例化した(軍人皇帝)。 | 238年4月頃軍による暗殺 |
ゴルディアヌス1世 | 159年(属州フリュギア) | 238年3月22日 – 238年4月12日 | 騎士階級出身。富裕な元老院議員で元老院と民衆によってトラクスの対立皇帝へ推挙され、息子のゴルディアヌス2世を共同皇帝としアフリカ属州で蜂起。息子がトラクス軍との戦いで敗死すると自らも宮殿で自害した。 | 238年4月12日自害 |
ゴルディアヌス2世 | 192年 | 238年3月22日 – 238年4月12日 | ゴルディアヌス1世の息子。老齢の父に代わって前線で軍勢を率いる。カルタゴの戦いでトラクス軍に敗れ、戦死する。 | 238年4月12日トラクス軍との戦いで敗死 |
マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス | 178年 | 238年4月22日 – 238年7月29日 | 反トラクス派の将軍。元老院から新たな対立皇帝として擁立される。トラクス暗殺によって安定化した情勢をバルビヌスとの諍いで再び悪化させた。口論の最中にバルビヌスと同時に暗殺され、川に投げ捨てられた。 | 238年7月29日近衛隊による暗殺 |
デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス | 不明 | 238年4月22日 – 238年7月29日 | 元老院議員。プピエヌスの共同皇帝として政務面を補佐するが、不仲で有名であった。ゴルディアヌス2世の遺児を副帝に指名する。 | 238年7月29日近衛隊による暗殺 |
ゴルディアヌス3世 | 225年1月20日ローマ(イタリア本土) | 238年4月22日 – 244年2月11日 | ゴルディアヌス1世の孫、ゴルディアヌス2世の甥(妹の子)。元老院と民衆からの深い同情から人気を集め、バルビヌスとプピエヌスの副帝とされ両者の暗殺後に単独の皇帝に。 | 244年2月11日ペルシア軍との戦いで敗死(もしくはピリップス・アラブスによる暗殺) |
ピリップス・アラブスとマルクス・ユリウス・セウェルス・ピリップス | シャハバ(属州シリア) | 244年2月頃 – 249年後半 | ゴルディアヌス3世の近衛隊長。ペルシア戦争後に帝位継承を宣言、息子のピリップス2世を後継者として共同皇帝に指名した。 | 249年後半デキウス軍との戦いで敗死 |
デキウスとヘレンニウス・エトルスクス | 201年ブダリア(属州下パンノニア | 249年後半 – 251年6月頃 | ピリップス・アラブスの側近。息子エトルスクスと共に帝位を奪うが、アブリットゥスの戦いでゴート軍に敗れて戦死する。 | 251年6月ゴート軍との戦いで敗死 |
ホスティリアヌス | ローマ | 251年6月 – 251年後半 | デキウスの次男、エトルスクスの弟。父と兄の死後に帝位を継ぎ、トレボニアヌス・ガッルスの養子となり共治帝となるが同年に疫病で病死。 | 251年後半病死(ガッルスによる暗殺説もあり) |
トレボニアヌス・ガッルスとガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌス | 206年(イタリア本土) | 251年6月 – 253年8月 | デキウスの重臣。モエシア総督を務め、デキウス死後の混乱で遠征軍を掌握して帝位につく。ホスティリアヌスの死後息子のウォルシアヌスを共同帝に。アエミリアヌスの裏切りに遭い、自軍の兵士によって暗殺された。 | 253年8月軍による暗殺 |
マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス | 207年(属州アフリカ) | 253年8月 – 253年10月 | トレボニアヌスの腹心。後任のモエシア総督に任命されるが、裏切ってトレボニアヌスとウォルシアヌスから帝位を奪う。だがウァレリアヌス軍が帝位を請求して進軍すると、自らも兵士によって暗殺された。 | 253年10月軍による暗殺 |
ウァレリアヌス | 200年 | 253年10月 – 260年 | デキウスの重臣。ノリクム及びラエティア総督を務め、アエミリアヌスと帝位を争って勝利した。ペルシア戦争に従軍するもエデッサの戦いで大敗し、捕らえられた上で処刑された。 | 260年 以降シャープール1世による処刑される |
プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌスとプブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌス | 不明 | 253年10月 – 268年9月 | ウァレリアヌスの息子。父から共同皇帝に指名され、ウァレリアヌス処刑後は単独の皇帝として統治する。エデッサの戦いによる帝国の権威失墜の中で、ガリア帝国・パルミラ王国の分離独立というかつてない大乱に直面する。 | 268年9月クラウディウス・ゴティクスによる暗殺 |
クラウディウス・ゴティクス | 213年(214年)5月10日シルミウム(属州パンノニア) | 268年9月 – 270年1月 | 出自不明。ガッリエヌスを暗殺して帝位を奪う。大乱の中で侵入が本格化した蛮族に対し、ゴート族とのナイススの戦いに大勝してこれを押し留めた。 | 270年1月自然死 |
クィンティッルス | 不明シルミウム(属州パンノニア) | 270年 | クラウディウス・ゴティクスの弟。兄の死後に帝位を継承するが、アウレリアヌスに暗殺される。 | 270年アウレリアヌスによる暗殺 |
ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス | 214年(215年)9月9日シルミウム(属州パンノニア) | 270年 – 275年9月 | クラウディウス・ゴティクスの重臣。複数の戦いで蛮族に勝利して対外情勢を安定化させた。更にガリア帝国・パルミラ王国を滅ぼして帝国領を回復、元老院から「世界の修復者」の尊称を受ける。シャープール1世死後のペルシャに侵攻する途中、秘書官に暗殺される。 | 275年9月秘書官による暗殺 |
マルクス・クラウディウス・タキトゥス | 200年テルニ | 275年9月25日 – 276年6月 | 元老議員。アウレリアヌスの急死によって皇帝に選出される。即位時点で老齢であり、ペルシア戦争の再開を準備する中で病没した。 | 276年6月自然死 |
フロリアヌス | 不明 | 276年6月 – 276年9月 | タキトゥスの異父弟。兄の死に伴い帝位継承を主張して西方属州の支持を得る。しかし東方属州の支持を得たプロブスに苦戦を強いられ、見限った軍に暗殺された。 | 276年9月軍による暗殺 |
プロブス | 232年シルミウム(属州パンノニア) | 276年9月 – 282年後半 | 帝国軍の高官。東方属州の支持を背景にフロリアヌスを破り、皇帝に即位する。対外戦争で功績を挙げるが、ペルシャ戦争の途中でカルスの反乱により暗殺される。 | 282年後半近衛兵による暗殺 |
マルクス・アウレリウス・カルス | 230年ナルボ | 282年後半 – 283年8月 | プロブスの近衛隊長。戦争中にプロブスを暗殺、指揮権を奪ってペルシャ戦争を継続した。戦いは優勢に進んだが、落雷による事故で急死した。 | 283年8月事故死 |
カリヌス | 不明 | 283年8月 – 285年 | カルスの長男。父の反乱によって弟ヌメリアヌスと副帝となり、父が遠征先で戦死すると遠征に同行していた弟と共に皇帝となった。しかし弟を暗殺され、更にその腹心であったディオクレティアヌスが遠征軍を掌握するとこれに敗れ、戦死する。 | 285年ディオクレティアヌス軍との戦いで敗死 |
ヌメリアヌス | 不明 | 283年8月 – 284年 | カルスの次男。本国を守る兄に対して、父と共にペルシャ遠征に従軍した。父が事故死すると帝位を継いだ兄の共同皇帝となり、遠征軍の撤退を指揮する。撤退中、配下の裏切りで暗殺される。 | 284年軍による暗殺 |
帝政ローマ後期
テトラルキア時代
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
---|---|---|---|---|
ディオクレティアヌス 東ローマ | 244年12月22日サロナ(属州ダルマティア) | 284年11月20日 – 305年5月1日 | 属州民出身の軍人皇帝。内乱に決着を付けて専制君主制を確立させた。また共同皇帝による東西分割を導入、自らは東方正帝を務めた。 | 311年12月3日自然死 |
マクシミアヌス 西ローマ | 250年頃シルミウム(属州パンノニア) | 286年4月1日 – 311年5月1日 | 属州民出身の将軍。ディオクレティアヌスの側近として共同皇帝(西方正帝)に任命される。ディオクレティアヌスの引退に合わせて自らも退位する。 | 310年頃コンスタンティヌス1世により処刑される |
ガレリウス 東ローマ | 260年頃フェリクス・ロムリアナ(属州モエシア) | 305年5月1日 – 311年5月頃 | 属州民出身の将軍。ディオクレティアヌスの後を継いで皇帝となり、共同皇帝コンスタンティウスと共に東西分立制を維持する。 | 311年自然死 |
コンスタンティウス・クロルス 西ローマ | 250年3月31日ダルダニ(属州モエシア) | 305年5月1日 – 306年7月25日 | クラウディウス2世とクィンティッルスの末裔(正確にはクラウディウス2世とクィンテッルスの姪クラウディアの末裔)を自称。ガレリウスの共同皇帝(西方正帝)となった。 | 306年7月25日自然死 |
フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス 西ローマ | 不明 | 306年夏 – 307年前半 | 属州民出身の将軍。ガレリウスの寵愛を受けてコンスタンティウス死後の共同皇帝(西方正帝)となるが、その息子コンスタンティヌス1世とマクシミアヌスの息子マクセンティウスに反乱を起され敗北する。 | 307年9月16日マクセンティウスにより処刑される |
マクセンティウス 西ローマ | 278年頃 | 306年10月28日 – 312年10月28日 | マクシミアヌスの息子。父の援助を得て反乱を起こし、西方帝位を簒奪する。同じく西方正帝経験者の子息であるコンスタンティヌスを副帝にするも、後に反旗を翻されて帝位を追われる。 | 312年10月28日コンスタンティヌス1世の軍勢に敗死 |
リキニウスとマルティアヌス、バレリウス・バレンス 東ローマ | 250年頃フェリクス・ロムリアナ(属州モエシア) | 308年11月11日 – 324年9月18日 | ガレリウスの側近。先帝の甥であるマクシミヌスを破って東方正帝となり、コンスタンティウスと手を結んでマクセンティウスを失脚させた。更にマルティアヌス、バレリウス・バレンスら傀儡の共同皇帝を立ててコンスタンティウスとも争うが、逆に敗れて帝位を失う。 | 325年頃コンスタンティヌス1世により処刑される |
マクシミヌス・ダイア 東ローマ | 270年11月20日 | 311年5月1日 – 313年後半 | ガレリウスの甥。叔父の死後にリキニウスと帝位を争うも、敗れて戦死した。 | 313年後半リキニウスの軍勢に敗死 |
コンスタンティヌス1世 西ローマ | 272年2月27日ナイッスス(属州モエシア) | 306年7月25日 – 337年5月22日 | コンスタンティウス・クロルスの息子。マクセンティウスと協力してまずウァレリウスを幽閉し、その副帝として台頭する。その後の反乱で西方帝位を獲得、更にリキニウス軍を破り、東西分立の一時廃止と自らの王朝成立を推進した。 | 337年5月22日自然死 |
コンスタンティヌス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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コンスタンティヌス1世 | 272年2月27日ナイッスス(属州モエシア) | 306年7月25日–337年5月22日 | コンスタンティヌス朝の創始者で「大帝」と尊称される。キリスト教を公認したことから聖人として列福されている。自身の死後は息子三人と甥二人による五人の分治を画策する。 | 337年5月22日自然死 |
コンスタンティヌス2世 | 316年 | 337年5月22日–340年 | コンスタンティヌス1世の長男。父の死後、次男コンスタンティウス2世と三男コンスタンス1世と共に皇帝となる。兄弟間の内戦に敗れ、弟コンスタンス1世に処刑された。 | 340年コンスタンス1世により処刑される |
コンスタンティウス2世 | 317年8月7日シルミウム(属州パンノニア) | 337年5月22日–361年11月3日 | コンスタンティヌス1世の次男。即位に際して父の遺言により共治するはずだった従兄弟の二人を殺害しその後、兄弟間の内乱を終結させて、唯一の後継者となる。更に共同皇帝に据えていたヴェトラニオを退位させ、父と同じ単独皇帝としての地位を手に入れる。しかし共同帝の必要を感じ、始めは従兄弟のガルスを、後にその弟のユリアヌスを副帝に任じる。 | 361年11月3日自然死 |
コンスタンス1世 | 320年 | 337年5月22日–350年 | コンスタンティヌス1世の三男。長男コンスタンティヌス2世との内乱を制するも、将軍マグネンティウスの裏切りにより落命する。 | 350年マグネンティウスにより暗殺される |
ウェトラニオ | 不明 | 不明–350年12月25日 | コンスタンティヌス1世の側近。大帝の遺児による内戦の最中に反乱を起こすが、コンスタンティウス2世により共同皇帝として懐柔される。その後、マグネンティウスを討伐したコンスタンティウス2世に圧力を受け、共同皇帝から退位して将軍に復帰する。 | 356年自然死 |
フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス | 332年(331年)コンスタンティノープル(属州トラキア) | 360年初頭–363年6月26日 | コンスタンティヌス1世の甥。従兄弟であるコンスタンティウス2世により後継者に指名される。叔父によるキリスト教の庇護を廃止したことから「背教者」と蔑称された。 | 363年6月26日遠征中に戦傷死 |
ヨウィアヌス | 331年シグドゥヌム(属州モエシア) | 363年6月26日–364年2月17日 | ユリアヌスの側近。ユリアヌスが遠征先で後継者を指名せず、跡継ぎも残さずに急死したことから、遠征軍の支持を得て皇帝となる。遠征からの帰還途中に火鉢によるガス中毒で事故死した。 | 364年2月17日事故死 |
ウァレンティニアヌス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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ウァレンティニアヌス1世 西ローマ | 321年キバラエ(属州パンノニア) | 364年2月26日 – 375年11月17日 | ユリアヌスの側近。ヨウィアヌスの病死に伴い、遠征軍から支持されて皇帝即位を宣言する。帰国後は弟ウァレンスを東方担当の共同皇帝とし、蛮族侵入が本格化する中で優れた軍功を上げた。 | 375年11月17日自然死 |
ウァレンス 東ローマ | 328年キバラエ(属州パンノニア) | 364年3月28日 – 378年8月9日 | ウァレンティニアヌス1世の弟。兄の共同皇帝となり、その死後は兄の息子達の後見人を務める。ハドリアノポリスの戦いでゴート軍に敗れて戦死する。 | 378年8月9日ゴート軍との戦いで敗死 |
グラティアヌス 西ローマ | 359年 シルミウム (属州パンノニア) | 367年8月4日 – 383年8月25日 | ウァレンティニアヌス1世の長男。父の死後に西方担当の皇帝位を継承する。叔父ウァレンスの死後は新しい東方担当の皇帝にテオドシウスを抜擢した。アグヌス・マキシムスによる反乱で戦死。 | 383年8月25日アグヌス・マキシムスにより暗殺される |
ウァレンティニアヌス2世 西ローマ | 371年ミラノ (イタリア本土) | 375年11月17日 – 392年5月15日 | ウァレンティニアヌス1世の次男。アグヌス・マキシムスの反乱で兄が死亡するとテオドシウスの元へ逃亡、その庇護で兄の帝位を継承した。 | 392年5月15日暗殺 |
テオドシウス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
---|---|---|---|---|
テオドシウス1世 東ローマ | 347年1月11日カウカ(属州ヒスパニア) | 379年1月1日 – 395年1月17日 | ローマ軍の将軍であった大テオドシウスの息子として生まれ、ウァレンティニアヌス朝で自らも栄達する。 グラティアヌスによって共同皇帝とされた後、その異母弟ウァレンティニアヌス2世の死によって単独皇帝となった。 | 395年1月17日自然死 |
アルカディウス 東ローマ | 377年 | 383年1月 – 408年5月1日 | テオドシウス1世の長男。東方担当の皇帝となるが、この時代から東西分割の深化が進んでいく(東ローマ帝国)。 | 408年5月1日自然死 |
ホノリウス 西ローマ | 384年9月9日 | 393年1月23日 – 423年8月15日 | テオドシウス1世の次男。西方担当の皇帝となるが、この時代から東西分割の深化が進んでいく(西ローマ帝国)。 | 423年8月15日自然死 |
コンスタンティウス3世 西ローマ | 生年不明ナイッスス(属州モエシア) | 421年2月8日 – 421年9月2日 | テオドシウス1世の娘婿で、アルカディウスとホノリウスの義弟。ホノリウスの共同皇帝を務める。 | 421年9月2日自然死 |
テオドシウス2世 東ローマ | 401年4月10日コンスタンティノープル(属州トラキア) | 408年5月1日 – 450年7月28日 | アルカディウスの息子。テオドシウスの大城壁など、帝国東方の防衛強化を進める。跡継ぎを持たないまま病没したため、姉の夫マルキアヌスを後継者に指名する。 | 450年7月28日自然死 |
ヨハンネス 西ローマ | 不明 | 423年8月27日 – 425年5月 | ホノリウス死後、テオドシウス朝を疎んだ元老院から推挙される。しかしテオドシウスの孫であるウァレンティニアヌス3世に敗れて退位させられた。 | 425年5月ウァレンティニアヌス3世により処刑される |
ウァレンティニアヌス3世 西ローマ | 419年7月2日ラヴェンナ(イタリア本土) | 424年10月23日 – 455年3月16日 | コンスタンティウス3世の息子で、テオドシウス1世の孫。ヴァンダル族やフン族の侵略により西方領土の弱体化が進む。跡継ぎを持たないままに暗殺される。 | 455年3月16日ペトロニウス・マキシマスにより暗殺される |
マルキアヌス 東ローマ | 396年 | 450年夏 – 457年1月 | テオドシウス2世の義兄(姉の夫)。義弟同様に跡継ぎに恵まれず、彼とその妻の死によってテオドシウス家は断絶した。 | 457年1月自然死 |
テオドシウス朝断絶後
西方帝位
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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ペトロニウス・マクシムス | 396年 | 455年3月17日–455年5月31日 | 元老院議員。ウァレンティニアヌス3世の暗殺によって西方におけるテオドシウス朝断絶を画策した。元老院の支持によって帝位を得たが、ヴァンダル族の前に首都を捨てて逃亡、激怒した民衆に投石されて死亡した。 | 455年5月31日民衆による投石で死亡 |
アウィトゥス | 385年 | 455年7月9日–456年10月17日 | フン族を破った将軍アエティウスの側近。西ゴートとの交渉中にペトロニウスの失脚を知り、ゴート軍の助力を得てローマを占領する。西ゴート撤退後、蛮族出身の軍務長官リキメルに謀殺される。 | 456年10月17日リキメルにより暗殺される |
マヨリアヌス | 420年11月 | 457年4月–461年8月2日 | アウィトゥスの同僚。リキメルによって傀儡として擁立されるも、影響下を脱して独自に統治を行う。優れた手腕で西方領土の再建を進めるが、志半ばでリキメルに暗殺される。 | 461年8月2日リキメルにより暗殺される |
リウィウス・セウェルス | 生年不明ルカーニア(イタリア本土) | 461年11月–465年8月 | 元老院議員。リキメルの傀儡としてマヨリアヌス暗殺後に皇帝となる。リキメルに従順に従うも、不要と判断されて4年後に毒殺される。 | 465年リキメルにより暗殺される |
アンテミウス | 420年 | 467年4月12日–472年7月11日 | 東方正帝マルキアヌスの娘婿。リキメルの傀儡として皇帝となるも、東ローマの後ろ盾で独立を図る。 | 472年7月11日リキメルにより暗殺される |
オリュブリウス | 420年 | 472年7月11日–472年11月2日 | ウァレンティニアヌス3世の娘婿。リキメル病没後、ヴァンダル軍の協力を得て帝位を奪うが、自らも流行病に倒れる。 | 472年11月2日自然死 |
グリュケリウス | ? | 473年3月–474年6月 | アニシウス氏族出身。ブルグント族のグンドバルト王の協力で帝位を奪い取るが、東方正帝レオ1世の支持を得たユリウス・ネポスに追放される。 | 480年以降サロナにて病没 |
ユリウス・ネポス | 430年 | 474年6月–475年8月28日(イタリア)–480年春(ダルマティア) | ダルマティア海軍の提督マルケリヌスの甥で、東方正帝レオ1世の娘婿。東方領土の強い支持でグリュケリウスを追放して皇帝となる。蛮族の軍師オレステスの裏切りで追放され、ダルマティアへ亡命する。新たな東方正帝ゼノンからは正式な「西方の共同皇帝」と見なされ、ロムルス・アウグストゥルスとオレステスを追放したオドアケルからも承認されていた。しかしその存在を危険視したオドアケルの翻意で刺客を送られ、暗殺される。 | 480年オドアケルにより暗殺される |
ロムルス・アウグストゥルス | 460年 | 475年10月31日–476年9月4日 | 蛮族の軍師オレステスの息子。母親はローマ人だったが、半蛮族の皇帝もローマでは認められてはいなかった。オドアケルに敗れた父オレステスの失脚により、帝位を返上して追放される。以降、法律的には東方正帝が西方正帝を兼ねることとなるが、政治的には西方領土という概念自体が消失した。 | 不明 |