永楽帝( A.D.1360〜A.D.1424)
中国明王朝第3代皇帝。父王洪武帝のたてた明王朝の燕王となるが、靖難の役で甥の建文帝の帝位を奪う。鄭和の艦隊派遣や外征で国力を高め、南海諸国の朝貢を促すことに成功(朝貢貿易)、明の全盛期を現出した。
永楽帝
靖難の役で反旗を翻し帝位を簒奪する
洪武帝の第4子として生まれ、燕王に封じられる。甥の建文帝が即位し、諸王の粛清を始めると「君側の奸を除き。帝室の難を靖やすんずる」と称して、北平(北京)で反旗を翻した。靖難の役の始まりである。燕王は3年に及ぶ激闘のすえ、国都である応天(南京)を攻略し、建文帝や后妃たちを自殺に追い込んだ。かくして燕王は第3代皇帝永楽帝となり、建文帝の側近とその一族、門下の大静粛を行い、数万人の命を奪った。
一方で、今や諸王が自分にとっても脅威であるとして、次々と廃した。これにより北辺の守りが手薄になると、北平への遷都を考えるようになる。そもそも応天には今なお建文帝に同情する者が多く、彼にとっては居心地が悪い。そこで1407年より国都としての北京造営の準備を始め、17年に着工、20年に竣工させ、21年に正式に遷都を宣言した。あわせて、経済の中心である江南と北京を結ぶ大運河の修復を行い、北京が物資不足に悩む恐れをなくした。
異民族に対し積極的に攻勢に出る
永楽帝は側近の鄭和に南海への大航海をさせたほか、モンゴルに5回も親征するなど、対外積極策を展開した。ベトナム征服は失敗に終わったが、東北の女真族や西南のチベット族、ミャオ族、ヤオ族、イ族などを間接支配下に置き、朝鮮王朝を属国、日本の室町幕府を朝貢国とすることに成功。西域にも関心を示し、東トルキスタンのハミやトルファンを入朝させ、西トルキスタンのティムール朝とも一時、使節のやりとりをしていた。
内政では、帝位簒奪に対する学者、知識人の反発を和らげるべく、彼らを動員して各種の編纂事業に従事させた。これにより儒教解釈の決定版としての『四書大全』『五経大全』、朱子学の学説を集大成した『性理大全』、周代から元代までの君主への意見書を集大成した「歴代名臣奏議』などを完成させた。
しかし、永楽帝がこれらにも増して力を注いだのは『永楽大典』だった。同書は類書という一種の百科事典のようなもので、あまりにも膨大なため、3部しか作成されなかった。
皇室に反旗を翻して明の帝位を奪う
洪武帝の4男として生まれた朱棣は、明建国に際して父王を助け、元朝残党勢力の掃討戦では知勇の将として武功をあげた。建国後は燕王として北京に赴任、中国北部の統治と防衛の任に就いた。
第2代皇帝には、朱棣の甥の建文帝が就いた。建文帝が諸王の粛清を始めると、身の危険を感じた朱棣は、「君(建文帝)側の奸をのぞいて帝室の難を靖んず」として反乱を起こした。これを靖難の役という。激闘を制して首都南京を制圧。明の第3代皇帝・永楽帝として即位した。
永楽帝は、建文帝側近一門を大粛清。数万人の命を奪った。自身にとって脅威に転じた諸王も廃し、君主独裁体制を強めた。そのため手薄になった北方の北京へ遷都。江南から北京への大運河の修復を行い、毎年300〜400万石の米の運搬を可能にした。
永楽帝は積極的な対外政策を行い、北は黒龍江河口まで進出、南はベトナムやミャンマーを侵略した。同時に遥かアフリカまで派遣したのが鄭和の艦隊。長さ150mを超える「宝船」で、ときに3万人近い大船団をつくった。明の国力を恐れた30余国が朝貢に応じ、モンゴル方面の征討ではみずから活躍したが、帰途で病死した。
アジア諸地域の繁栄
東アジア・東南アジア世界の動向
靖難の役と永楽帝の治
洪武帝には生涯に26人の男子がいたが、彼らすべてを封じ、国内の重要拠点に配置して諸王とし、明王室の守りとした。これら諸王は、ほとんど実権は持っていなかったが、ただ北辺のモンゴルに対する備えから、北平(のちの北京)など数カ所の諸王には軍事権などを与えていた。
洪武帝は、後継者である皇太子の朱標が死去すると、皇太孫の朱允炆を後継者に定めた。これが建文帝(恵帝 位1398〜1402)である。即位後、建文帝は側近の意見に従い各地の諸王の権限を削減する諸王抑圧策をとった。これに反抗したのが、当時諸王の中で最大の勢力を誇っていた北平の燕王朱棣である。
燕王は直ちに軍事行動をおこし、甥の建文帝をあやまらせた側近を排除しようと、「君(建文帝)側の奸をのぞいて帝室の難を靖んず」をスローガンに北平で挙兵し(靖難の役 1399〜1402)、金陵を攻略してここで帝位についた(永楽帝 成祖 位1402〜1424)。
永楽帝は宦官を重く用い、新たに内閣大学士を設置して皇帝の顧問とし、重要な政務に参加させた。またモンゴル族に対抗するため、1421年、首都を金陵から自らの根拠地であった北平に遷し、ここを北京、金陵を南京と改称した。
さらに江南と北京とを結ぶ運河を整え、また(万里の長城)を修築補修して北方民族の南下に備えた。
その一方で、永楽帝は積極的な対外政策を行なった。まず1410年から5回にわたり、自ら軍を率いてモンゴル高原へ遠征し、洪武帝が北元を滅ぼしたのちに台頭した東のタタール(韃靼)部や、西北のオイラト部を撃退した。南方に対しては、ベトナムの陳朝に軍を派遣して一時的に支配した。さらに1405年以降、イスラーム教徒の宦官鄭和に命じて、大規模な船団を率いて南海に大遠征を行わせた。鄭和の南海遠征は征服が目的ではなく、明の威勢を東南アジア世界に誇示するためのものであり、南海諸国の朝貢を促すことに成功した(朝貢貿易)。
明後期の社会と文化
洪武帝は朱子学を官学として儒教主義による国家体制の確立に努めた。永楽帝は即位直後の金陵(南京)において各地の学者を動員して『永楽大典』を編纂させた。これは、古今の膨大な文献を分類・編集した類書である。
さらに永楽帝は、従来の朱子学の学説を集大成した『四書大全』『五経大全』『性理大全』も相ついで編纂させた。こうした大規模な国家的編纂事業は、教育の普及や類書・辞典などがさかんにつくられる基となったが、その一方で、朱子学の解釈が統一され、また科挙試験の拠りどころとして使用されたことから、思想が固定化され、新たな学説の発展がみられなくなった。
永楽大典
永楽帝は南京において学者2169人を総動員し、古今の書籍から抜きだした一部または全文を事項別に配列した一大類書を作成させた。全2万2877巻。すべてが手書きされたものであるため、当初一部が作成されただけであった。その後16世紀半ばに副本が作成されたが、正本は明末の戦乱のさい焼失した。副本は清へうけつがれて『四庫大全』の編纂に利用されたが、その後かなりが散逸したり、国外へ流失した。清末のアロー戦争で英仏連合軍が北京に侵入したとき、『永楽大典』を雨でぬかるんだ路上に敷きつめたという。現在では約800巻ほどが中国や日本・アメリカ・イギリスなどに現存している。引用された書籍のなかには、現在では原本自体がみられないものがあり、『永楽大典』は学術面に貴重な書籍の宝庫である。
東アジアの状況
明代の東北地方
中国東北地方には、ツングース系に属する半猟半農民の女真(女直)族が居住しており、彼らの一部は12世紀に金朝を建国して中国北部をその領土とするまでになっていたが、元朝やそれにつづく明代では、その支配をうけていた。当時の東北地方の女真族は、北方の海西、撫順以東の建州、東北地方北部の野人の三大部に分かれて居住しており、毛皮や朝鮮人参などを瀋陽付近に設けられた交易場で、中国側の穀物や金属類と取引していた。明朝の永楽帝は、これら女真族を統合させないために、黒龍江下流にヌルカン都司(奴児干都司)を設け、遼東方面に建州衛をおき、名義だけの官職を授け、さまざまな賜与や特典を与えていた。こうしたなかで女真族の間に民族的自覚が現れ、統一気運が生まれ、ヌルハチの登場となったのである。
明と宦官
明は、漢・唐とならんで宦官の弊害がはなはだしい時代であった。宦官の弊害を知っていた洪武帝は、宦官勢力を抑えることに努めたが、その子永楽帝は、宦官を重用し、「東廠」という秘密警察をつくり、宦官を長官とした。正統帝は皇太子時代に宦官の王振から教育をうけ、王振を師父と仰いだ。正統帝にモンゴル遠征を勧めたのも王振であった。万暦帝時代には東林派・非東林派の争いをうまく利用した魏忠賢が現れ、彼はついに生き神としてまつられ、孔子の像とならべおかれたという。そして李自成が反乱を起こして北京に迫ると、いち早く城門を開いたのも宦官であった。
清代の中国と隣接諸地域
清代の社会経済と文化
明の洪武帝は海禁政策をおこなったが、つづく永楽帝は鄭和を南海に派遣し、一時南海交易が積極的におこなわれた。しかし永楽帝の死後、再び海禁政策が復活した。明は、朝貢国に対して勘合符を与えて正式な朝貢船の証明とし、広州・泉州・寧波に市舶司をおいて朝貢貿易を管轄するとともに、中国人の海外渡航を禁止した。
清朝支配の拡大
元代にチベット仏教は厚遇され宮廷内に広まり、歴代皇帝の熱狂的信仰もあって莫大な出費により国家財政は混乱し、滅亡の原因のひとつとなった。明も元に引きつづいてチベット仏教を厚遇し、とりわけ永楽帝はチベット仏教の信奉者となった。そのためチベット僧と明王室の関係はますます深まり、チベット僧の横暴と堕落とを招いた。
諸地域世界の交流
海の道の発展
東アジアの海洋世界
明王朝で靖難の役に勝利した永楽帝が即位した時期は、朝鮮半島では李成桂が朝鮮王朝(李氏朝鮮)を建国し(1392)、日本では室町幕府3代将軍・足利義満が南北朝の合一(統一)を実現(1392)した直後であった。永楽帝は、洪武帝が目指した海禁と朝貢貿易を基礎にした中華帝国による秩序の再編の意図を継承し、拡大した形で推進した。朝鮮と日本は、明の冊封を受けることで、これに加わった。これ以後、倭寇は次第に禁圧された。永楽帝による鄭和の南海遠征も海洋を通じての秩序再編とその維持のためのものであった。
世界遺産
紫禁城
元がつくったものを明の成祖永楽帝が1406年から改築し、1421年に南京から北京へ都を遷してから、清朝滅亡まで宮殿として使われた。
1644年の李自成の乱で明代の紫禁城は焼失したが、李自成の立てた順朝を滅ぼし北京に入城した清朝により再建され、清朝の皇宮として皇帝とその一族が居住するとともに政治の舞台となった。
参考 Wikipedia
万里の長城
南方から興った中国人の王朝である明が元王朝を北方の草原へ駆逐しても、首都を南の南京に置いた朱元璋は万里の長城を復活しなかった。長城防衛を復活させたのは明の第3代皇帝である永楽帝である。首都を遊牧民族の拠点に近い北京へと移した永楽帝は、元の再来に備えて長城を強化する必要に迫られ、北方国境全域において長城を建設した。しかし長城防衛が本格化していくのは永楽帝の時代ではなく、第5代の宣徳帝の時代になってからである。この時代に、永楽帝時代に北進していた前線を後退させ、かわりに長城による防衛が用いられるようになったためである。
参考 Wikipedia
天壇
天壇は、1420年、明の永楽帝が建立したとされる。建設当時は天地壇と呼ばれていたが、1534年、天壇と地壇に分離、天壇と呼ばれるようになった。
参考 Wikipedia
宗室
后妃
- 仁孝文皇后徐氏(徐皇后) – 中山王徐達の長女
長男 朱高熾 – 後の洪熙帝。
次男 朱高煦 – 漢王。甥の宣徳帝に対して反乱を起こしたために庶人におとされ、最後は宣徳帝の命で、炮烙で殺された。
三男 朱高燧 – 趙簡王。 - 昭献貴妃王氏 – 蘇州人。1420年薨。
- 恭献賢妃権氏(権賢妃) – 朝鮮人。兄は権永均。1410年薨。
- 忠敬昭順賢妃喻氏
- 恭順栄穆麗妃陳氏(陳麗妃(永楽帝)) – 陳懋の次女。
- 康靖荘和恵妃崔氏(崔恵妃)
- 端静恭恵淑妃楊氏
- 恭和栄順賢妃王氏
- 昭粛靖恵賢妃王氏
- 昭恵恭懿順妃王氏
- 恵穆昭敬順妃銭氏
- 康恵荘淑麗妃韓氏 – 朝鮮人。仁粹大妃の叔母、韓確の姉。1424年殉死。
- 安順恵妃龍氏
- 昭順徳妃劉氏
- 康懿順妃李氏
- 恵穆順妃郭氏
- 昭懿貴妃張氏(昭懿貴妃(永楽帝))
- 順妃任氏(任順妃) – 朝鮮人。1421年自殺。
- 妃黄氏 – 朝鮮人。1421年刑死。
- 昭儀李氏(李昭儀(明)) – 朝鮮人。1421年刑死。
- 婕妤呂氏(呂ショウヨ) – 朝鮮人。1413年炮烙で刑死。
- 恭栄美人王氏
- 景恵美人盧氏
- 荘恵美人(姓氏不詳)
参考 Wikipedia
同時代の人物
足利義満(1358〜1408)
室町幕府3代将軍。南北朝の統一を成し遂げた後、国際的承認を得るべく明朝と交渉。永楽帝との間で合意に至り、日明貿易(勘合貿易)の制度を成立させた。